夢といま
***
「あーねえ、あーねえ。もえ、逆上がりができないの」
「ええ? 逆上がりなんて、わたしもできないよ」
学校からの帰り道、萌花がそう言って泣き出したのはまだ小学校の低学年のときだった。
いつもは元気すぎるほど元気な小さな妹は、繋いでいた手をぎゅっと握って半べそをかく。
「だって、ゆうくんはできるんだもん」
ゆうくんというのは、萌花のクラスメイトの男の子で、このふたりは身長やら駆けっこの速さやら、何かにつけて競争しては同じくらいの成績を出していた。
「もえは、逆上がりもできないのかって、笑うんだよ」
「そっか、それは悔しいね」
いままで何でも同じくらいだった相手に先へ行かれたら、負けず嫌いの萌花には確かに悔しいかもしれない。
比べる相手を持たない明香には、あまり実感がなかったが、妹の悔し涙を見てはどうにかしてあげたいと思ってしまった。
明香も『ゆうくん』のことは知っているが、彼に出来て萌花に出来ないとは思えなかった。
運動神経は同じくらい良いし、この年頃でそれほど腕の力に差が出てくるものでもない。
ちょうど家の近くの公園に差し掛かったので、明香は萌花と一緒に寄り道をすることにした。ランドセルをベンチに置いて、鉄棒を握らせる。
不安そうな顔をした萌花は、やはり体を回せるほど持ち上げることが出来ない。
「できないよぉー」
ぐずぐずと泣き出した萌花の前にしゃがんで、明香は下から妹を覗き込んだ。
真っ赤になった目をまっすぐ見つめて、強く言い切る。
「もえなら大丈夫。ぜったいできるよ」
出来ないと思ってやったのでは、なにをやっても無理だろう。
けれど萌花ならきっと出来るはずだ。
明香の断言に驚いたように目を丸くした萌花は、何度か瞬きして涙を散らすと、次の瞬間にはいつも通りの勝ち気な瞳に戻った。
この頃から萌花よりよほど運動神経の悪かった明香に、逆上がりなど出来るはずもない。教えるのだってもちろん無理だ。だからかなり頓珍漢なアドバイスをしていたことだろう。
しかしそれから数時間、いま思えばよくそんなに頑張れたものだと思うほど逆上がりの練習をして、萌花は本当にくるりと回れるようになった。
もちろん、帰ってから親にこってりと叱られたが、その夜はふたりとも達成感にはしゃいでいたものだ。
思えば萌花が明香に魔法の言葉をねだるようになったのは、この頃からだった。
***
風が木々を揺らす音と、小鳥の囀り。
瞼を照らす光にゆっくりと意識が覚醒してくる。
(ああ、萌花におめでとうってまだ言ってないや)
昨日はレギュラー入りを賭けた大事な日だった。
萌花ならきっと朗報を持って帰ってきただろう。帰ってきたら褒めてと言われたのに、なにか言ってあげた記憶がない。
薄らと瞼を上げた明香は、いつものカーテン越しでは無い朝日に目を細めた。
頭が重い。昨日、いつ布団に入ったか思い出せない。
「目、覚めた?」
すぐ側からかけられた声に、驚きすぎた明香は自分のいる場所も考えずに跳ね上がった。
吃驚した少年の腕が緩み、支えを失った明香の体が傾ぐ。
「きゃっ!?」
「おっと」
枝からずり落ちかけた明香の腕を、少年の手が間一髪で掴む。
ガクンと止まった姿勢は下を覗き込む形で、その高さに明香は青ざめた。
剥き出しの根っこ、固そうな地面。
寝ぼけたまま落っこちたら、間違いなく骨折するだろう。打ち所が悪ければ死ぬこともあるかもしれない。
ぞっとしていた明香の腰を、少年のもう一方の手が引き寄せる。
どうにか姿勢を戻した明香は、両足でしっかりと枝を挟んで息を吐いた。同じタイミングで目の前の少年も安堵のため息をつく。
おそるおそる顔を上げると、少年の鳶色の瞳と目が合った。
少し垂れ下がった目元は柔和だが、気弱そうな印象は受けない。その中に宿る光が強いからだろう。
近すぎる距離に、かすかに赤面する。
「あ、あの。貴方……」
「昇慧」
「え?」
「俺の名前、昨日言っただろう。昇慧だ」
「あ、……昇慧さん?」
うんと頷いて、昇慧は呼び捨てでかまわないと言う。
「君の名前は?」
「明香。藤間明香です」
明香が名前を告げると、彼は小さく笑ってもう一度頷いた。
だがすぐに笑みを消して鋭く眼下を見回す。
「明香、よく聞いて。いつまでもここに居るわけにはいかない。下に降りて逃げ切るか、あいつを倒さなきゃいけない」
明香がいままでの人生で一度も聞いたことがない真剣な声音。
それで昨日のことを思い出した明香は、にわかに震えだした手で昇慧の服にすがった。
「あの化け物、なんなの? なんでわたしが襲われるのよ? どうして……っ!?」
癇癪を起こしたような明香の口を、昇慧が素早く塞いだ。
目を丸くする明香を宥めるように、服を握って固まった手を、口を塞ぐのとは逆の手で叩いてくる。
「まだ近くにいるはずなんだ。騒がないで」
明香はびくりと震えて、小刻みに頷く。
彼女の口に当てていた手をゆっくりと外して、昇慧はあたりに目を走らせた。
明香も彼の視線を追って下を見てみるが、幸いあの獣の影は無い。
「あれ、なんなの?」
今度は声量に気をつけて尋ねる。
どこかで上がった鳥の声にびくついて、明香は昇慧に身を寄せた。羞恥心はどこかへ雲隠れ中らしい。
「あれは異界から来た獣で、異獣という」
「異界?」
「ここでの話では、明香のいた世界のことだ。ここは君のいた世界とは違う次元なんだよ」
「え? え、なに言ってるの。そんなの……」
言葉の意味が理解できない。違う世界とはどういう意味だ。
異界やら次元やら、そんなファンタジーやSFのようなこと、なんで彼は真面目な顔で言っているのだろう。
これはもしかしたら夢なのか。だが夢にしては音や匂いや温もりがやけにリアルだ。
それに明香は、夢の中でこれは夢だと認識できるタイプではない。ならばこれは現実か。
混乱する明香に、昇慧は一瞬痛ましそうな顔をして話を続けた。
「申し訳ないけど、いまは飲み込んで。たぶんあれは明香と一緒に落ちてきた異獣だから、明香の世界にいた動物だと思う。異獣は次元を超えるときに変質する。明香の世界では無害な獣だったのだとしても、こちらの世界に来た時点で、凶暴化し人を襲う化け物になったんだ」
昇慧の言っていることが分からない。
けれど、明香の頭の中によみがえったのは、階段から落ちてくるシロの姿だった。
「……シロだ」
「シロ?」
「わたし、塾帰りで。階段上ってたらシロが居て。それで嬉しくて、なのにシロが上から落ちてきたの。受け止めなきゃって思ったんだけど、わたしも階段踏み外して。それから、気づいたら地面の上に座ってたの」
明香のいっぱいいっぱいな説明を、昇慧は急かさずに聞いてくれる。
動揺のない彼の姿に、明香は少しずつ自分が落ち着いてくるのを感じていた。
「シロっていうのは?」
「地下鉄の出入り口にいつも居る犬。かなり高齢で、とても大人しいのよ」
「うん」
昇慧は頷いてくれる。
そうだ。シロはとても大人しい犬だ。あの獣とは似ても似つかない。
なのにどうして、こんなに必死にシロの話をしているのかと、乾いた笑みが浮かんだ。滲んでくる涙の意味を、理解したくは無い。
驚かせないようにか、昇慧がゆっくりとした仕草で明香の手に手を乗せてくる。
「聞いて、明香。もとがどんなに大人しい動物でも、来穴を通ると変わってしまうんだ。もう明香の知ってるシロじゃない」
「でも」
「異獣が元に戻る方法はないんだ」
「……だって」
ただ黙って寄り添って、明香を癒やしてくれた体温はもうないのだ。
明香も心の冷静な部分では理解していた。
不思議なことに、昇慧の言うことを本気で疑っている自分はいない。
重ねられた少年の手の甲に、明香の涙が落ちた。
彼は痛みを耐えるように唇を引き結んで、握っていた手をひっくり返すと、明香の手に何かを握らせた。
「これを持って」
「なに?」
手のひらに伝わるのは冷たい重みだ。
見たことの無い形状の短剣。柄は曲線になって手にフィットし、刃は不思議な青みを帯びていた。
昨日の混乱した状態では気づかなかったが、彼は弓の他にも腰にポケットのいっぱい付いた鞄や大振りのナイフを下げていた。
明香は持たされたナイフを彼に押し返した。
「や、やだ。……なんでこんなもの」
「護身用だ」
「無理!」
「静かに!」
慌てて口を塞いだのと、森がざわりと揺れた気がしたのは同時だった。
空気が重みを増す。獣の臭いが鼻孔に届き、肌が粟立つ。
不思議と『来た』のだと、あの獣のやってくる方向すらも分かった。
まだ完全には夜の明け切らない暗がりからそれはやってきた。
人間の二倍はあるかという巨躯、白と茶や灰色のまだらな艶の無い毛並み、矢はどうにか抜いたのか潰れた片目と凶暴な光を宿したもう片方の目。
「……シロ」
「明香。俺が気を引くからその間に森を抜けて……っ!」
呆然とする明香を正気づけるように喋っていた昇慧だが、こちらに気づいた獣が咆哮を上げて突進してくる方が早かった。
腰掛けていた木が大きく揺れる。
バランスを崩した明香の体は呆気なく枝から離れ、体が重力に従う。
地下鉄の階段を落ちたときと同じような浮遊感を感じた次の瞬間、しかし肩に衝撃を感じて視界が反転した。
明香の腕を掴んだ昇慧が、彼女の体を幹に押しつけた。代わりにその反動を受けた昇慧が枝の上から落ちる。
「昇慧!」
悲鳴を上げた明香だが、彼は受け身を取って落ちると身軽に立ち上がって走り出す。その後を獣が追いかけていった。
「逃げて!」
振り返って叫んだ昇慧は、獣の気を引きながら森の奥へと走って行った。
明香は慌てて木から降りると、昇慧を追いかけた。
森がざわめいている。明香には走る方向に迷いは無かった。
この先に――彼らがいる。