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獣と少年



 落ちて、落ちて、落ちて。

 明香は呆然と座り込んでいた。


 落ちている間に色々なことがあった気がするが、頭が痺れて深く考えることが出来ない。ただひたすら、目の前の移り変わっていく空の美しさに見惚れていた。

 いつも見ているビル群の代わりに、天を突き刺すような山々がある。

 人々の喧騒と車の駆動音の代わりに、聞こえてくるのは鳥の囀りと草花が風に揺れて擦れ合う音だ。

 頭上を太陽に染まった鳥が一羽、優雅に旋回していた。

 夕陽に焼ける景色は例えようのないほど美しい。

 東京の夕暮れは濁った大気に光が乱反射し、あちこちでつき始めた蛍光灯と混ざってどこか息苦しかった。

 ときどき季節と空気の影響か、夕陽に浮かび上がる街の姿が綺麗なことはあったが、それでもこれほど胸に迫ってくるような感動を与えられたことはない。

 痺れた頭が空っぽになって、溜まっていた不明瞭な鬱屈がどこかへと消えていた。

 完全に無防備だった明香の背中に獣の唸り声が聞こえたのは、夕陽がちょうど山の頂点に隠れ始めたときだ。


 雨と、雨に濡れた獣の臭いがする。


 呆然としていた明香は、ゆっくりと背後を振り返った。

 真っ白になっていた頭は、なんの警告も発せられないまま視界に入ってきた情報だけを脳に届ける。

 そこにいたのは巨大な獣だった。

 ぴんと立った耳、釣り上がった瞳は少し濁っていて、鼻の頭には幾筋も皺が寄っている。びっしりと並んだ牙を持つ口は、明香を一呑みにできそうなほど裂けていて、そこから凶暴な唸り声と大量の涎を垂らしていた。

 人を簡単に引き裂けそうな爪を持つ手が振り上げられるのを、どこか他人事のように見つめていた。爪が夕陽に照らされて血に染まったように真っ赤だ。

 振り下ろされる爪で頬に風を感じたのと、耳が風を切る鋭い音を拾ったのはほぼ同時だった。

 まばたきした瞬間には獣の手に矢が刺さっていて、僅かに軌道を逸れた爪が地面に座りこんでいる明香の膝近くを抉る。

 飛んできた土が膝に当たった冷たさに、明香はようやく正気に戻った。

 目前に迫った死の恐怖に、全身が震え出す。

 ぶわっと汗が噴き出し、息が上がった。歯の根が合わず、ガチガチと耳障りな音がする。


「……な、に」


 もつれた舌はまともな言葉を発してはくれなかった。

 しかし声を出したことで頭が体に血を回すことを思い出したのか、膝が震えるなりに明香は立ち上がった。

 逃げなくてはいけない。この獣から少しでも離れなければ、今度は必ず殺されてしまう。

 獣はいま、自らの手に刺さった矢に怒り狂って明香から意識を外している。

 吐きだされる獣の咆吼は目の前が真っ白になりそうなほど恐ろしいが、いまが離れるチャンスだ。

 震える体を叱咤して、明香は微かに後退った。こちらに注意が向かないよう、慎重に動く。

 しかし足下の草が立てるわずかな音に、獣が顔を上げた。

 獣の濁った瞳と目が合った瞬間、明香は頭を思いっきり殴られたような衝撃を味わって尻餅をついた。

 形容しがたい、あらゆるなにかが流れ込んでくる。


 低い唸り声に、明香は我に返った。

 体を捻りながら立ち上がって、無我夢中で走り出す。

 明香がいたのは、広大な草原の端っこのほうだった。遙か先には先程よりも影の濃くなった山々の稜線があり、最初には気付かなかったがそばには森があった。

 空が焼けるのに比例して、森の木々は黒々としている。

 影の落ちるその場所に無意識に隠れ場を求めて、明香は走った。

 その間、忙しない呼吸の合間に明香の口から零れたのは、ほとんど意味の成さない言葉だった。


「やだ、やだ、やだ。……なんで、どうして」


 ぼろぼろと涙が頬を濡らして、風に冷やされる冷たさにまた泣いた。

 地下鉄を出るときに降っていた雨はなぜ無くなったのだろう。とっくに日は暮れたと思っていたのに、いままさに沈みゆく太陽の光彩はなぜだ。

 いやそれよりも、さっきまで自分が居たはずの東京の面影はどこにもない。

 無機質なコンクリートの建物やアスファルトも、すれ違う他人に関心を持つ余裕もない忙しい雑踏も、人々を運ぶために口を開いて待つ地下鉄の入り口も、なにもない。

 東京にまだこんな広大な自然があったなんて、明香は知らない。

 けれどそれらの現実味に欠ける景色よりも、彼女の心をぐちゃぐちゃにしているのは、先程獣から流れ込んできたものだ。


「なんでよ、……シロ──!」


 明香が小さく叫んだのと同時に、頭上に影が落ちた。

 獣の伸ばした腕が明香を捉える寸前、大きな風が降る。

 両腕にわずかな痛みと、体に潰されるような圧迫を感じて、明香は息を飲んだ。

 必死に地面を蹴っていた彼女の足が宙に浮く。


「え?」


 疑問に思ったときには体は地面から離れていて、足下を信じられない速度で大地が通り過ぎていく。


「なに、今度はなんなの!」


 藻掻いた体はほとんど動かず、足だけが宙を掻く。

 どうにか顔だけ振り返った明香は、見えたものに目を大きく見開いた。

 明香を捕まえていたのは巨大な鳥だった。

 これもまた太陽によって赤く染まっているが、もとの色は白だろう。片翼は明香の身長ほどもある。黄色いかぎ爪が明香の体を鷲掴んでいるのだ。


「やだ、いや! 離して、離してよぉ!」


 明香は泣き叫んで暴れた。

 影になって黒々とした嘴は鋭い。巣に持ち帰った後、あの嘴で肉を食い破られるのかと思うと、恐ろしくて堪らなかった。

 パニックに陥っていた明香は、巨鳥の背中の影には気付かぬまま、自分のどこにこんな力があったのかと思うほどの力で暴れ続けた。

 無理矢理に体をよじり、どうにか片腕だけでも拘束から抜けると、力任せに鳥の足を引っ掻く。

 鳥の甲高い悲鳴が聞こえ、明香を捕らえていた足が緩んだ。圧迫感が消え、明香の体が投げ出される。

 それなりの速度で飛んでいたが地面すれすれを飛行していたためだろう、全身を強かに打ち付けたが、明香は無事に地面に転がった。

 仰向けになったまま、ほとんど藍色になった空を見上げる。明香を落としてから上昇したらしい鳥が、頭上で旋回しているのを涙目で見つめた。

 しかしそうして居られたのもほんの少しの時間だ。

 草を踏む獣の足音に、明香は弾かれたように体を起こした。

 死にたくないという本能が脳を動かすまえに体を動かす。

 鳥に攫われていつのまにか森のすぐ近くまで来ていたようで、振り返ると獣との距離はだいぶ空いている。

 明香は手足を必死に振りまわして木々の中に駆け込んだ。森の中は緩やかな丘になっていて、強張った足ではひどく走りにくい。

 いくつかの木を通り過ぎた明香は、首筋に生温い息遣いを感じた気がして咄嗟にしゃがみこんだ。

 頭の上を鈍い風が通りすぎていき、目の前の木が大きく抉られる。

 幹に食い込んだ巨大な爪にぞっとした明香は恐る恐る顔を上げた。

 ずっと追いかけてきていた獣が、毛並みの向きまで分かるような近さで明香に覆い被さっている。


「ひっ」


 明香は急いで地面を蹴った。けれど獣の下から抜け出すより先に、もう一度爪が彼女を狙う。

 またも寸前で切り裂かれることは免れたが、今度は爪の先が制服の裾に引っかかった。


「やぅっ!」


 衝撃に倒れ込んだ明香の上に、獣は乗りかかってくる。

 獲物を追い詰めた優越感か、獣はすぐに襲いかかってこず、恐怖に全身を震わす明香にゆっくりと顔を近付けてきた。

 水に濡れた獣の臭いが強く彼女の鼻を刺激する。視界は涙で完全にぼやけて、胸があまりにも苦しい。こんなときなのに荒く早すぎる息遣いが自分のものだと気付いて、過呼吸になりかけていることを、頭のどこかで理解した。

 先程も聞いた風を切る鋭い音がして、次の瞬間には獣の片目に矢が刺さっていた。

 獣が悲鳴を上げて暴れ出す。

 意識が完全に明香から離れたが、のたうつ獣の真下にいるのは危険だった。それでも簡単には動けない明香の呪縛を解くように、強い少年の声がかかった。


「こっちだ!」


 振り返ると少し離れた所に弓を持った少年が立っている。

 明香はそちらに向かって一も二もなく走り出した。

 明香が近付いてくると、少年は獣に向かってなにかを投げた。獣の顔面に当たって砕けたものの中身はなにか液体だったようで、当てられた獣が再三の悲鳴をあげる。


(ふく)(せき)入りの匂い玉だ。あれでしばらくは鼻が効かない」


 少年は明香の手を取ると森の奥に向かって駆け出した。

 獣から離れるのかと思えば、少年は少し走っただけで一際幹の太い木に登り始める。

 戸惑う明香の手を引いてかなり高い場所までいくと、彼は人間二人が腰を下ろしてもびくともしなそうな太い枝に座った。

 幹に背を預けた少年は、明香を抱き込んで獣の方を窺っている。

 歳は明香と同じか少し上ぐらいだ。ぴりぴりと緊張感を漂わせている横顔は、ほんの少し幼さを残しながらも明香の知っている男の子たちとは違った精悍さを持っていた。

 余裕のあるときだったらその横顔に思わずドキリとしてしまったかもしれないが、いまはただ理解できぬ状況に動揺している彼女は少年に縋り付いた。


「あ、貴方誰? あれは何なの? ……ここはどこっ、東京じゃないの!?」


 少年は明香の矢継ぎ早の質問に端的に答えた。


「俺は(しょう)(けい)。あれは異獣だ。ほかの質問には後で答えるから」

「でもっ」

「しっ。夜の空気は声が響く」


 明香は慌てて自分の口を塞いだ。

 夜の気配を漂わせた静寂はよそよそしく、小さな物音でさえも耳の奥に届いてくる。

 恐る恐る獣のほうを見ると、先ほどの匂い玉というのが効いているのか、しきりに唸っているばかりでこちらに気づく様子はない。

 腹の底から湧き上がってくる不安と疑問をいったん押し込んで、ゆっくりと深呼吸をしてみる。

 濃厚な緑の匂いと、澄んだ空気が肺に入ってくる。排気ガスの匂いはどこにも感じられない。

 代わりに気づいたのは少年の持つ嗅ぎ慣れない匂いだ。

 そこで初めて自分が彼に抱き込まれていることを意識して、明香は赤面して目の前の胸板を押した。

 訝しげに見下ろしてくる少年に、かろうじて聞こえるくらいの声音で囁く。


「は、なして、もらえるかな」


 彼は明香のお願いに、背に当てていた手を緩めた。けれど突き放したりはせず、明香の耳元で囁き返してくる。


「朝までここに居なきゃいけないけど、落ちない?」

「……無理」


 枝の上で一晩明かすなど、どう考えても無理だ。

 明香は仕方なしに少年に引っ付いた。

 初対面の人間とくっつくことに抵抗はあるが、いまは目の前に迫っている恐怖と危険のほうが問題である。


「いまは大丈夫だから、ゆっくりお休み」


 そう言って少年は強張った明香の背中を優しく撫でる。

 こんな状況で眠れるわけがない。

 それでも目を瞑った明香の意識が、すこんと落ちてしまったのは、たぶん現実逃避でもあったのだと思う。



とりあえず、ここまで。

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