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彼女の落ちた日



 (ふじ)()(あす)()はその日、どことも知れぬ場所を落ちていた。

 周りに見えるのは一面の白い闇と、星をさらに細かく砕いたような無数の黒い光だ。

 光の粒に触れるたびに身のうちに流れ込んでくるのは、苦しみや怒り、悲しみや絶望、憎悪や後悔の感情だった。

 いや、それは感情と呼べるほど確固としたものでは無い。

 ただ、どうしようもなく胸を握り潰されるようで、明香は狂ったように泣き叫んでいた。

 自分の叫びが耳に届くことはなかった。叫ぶ口も、涙を流す瞳も、本当に存在しているのかすらさだかではない。

 ただ分かるのは、自分がどこかへ落ちているということだ。

 次第に黒い光に混じって白く輝く光が通りすぎていく。新たに流れ込んできたのは、今までのものと正反対の性質のものだった。

 けれどもそれは、喜びや幸福ともまた違った、生まれたてで無垢な真っさらな何か。

 だが明香にとっては、どちらから流れてくるものも同じように息苦しくて必死に喘ぐしかない。

 意識も自我も失いそうになったとき、後ろからふわりと温かなものが明香の体に寄り添った。

 ふっと力が抜けた彼女の瞼に強く温もりが押しつけられる。

 それは瞳を灼くような熱を与え、耳、喉とつづき、現れたのと同じようにふわりと消えた。

 それと同時に、落ちていた体がどこかへ降り立った。



 明香はそろりと眼を開けた。

 最初に目に入ったのは沈む直前の太陽と空だ。

 光と赤と橙、そして夜を連れてきた紫と紺色。遠く山の稜線が黒く塗りつぶされ、雲の影が赤く染まり、気の早い星が遠慮がちに輝き始めている。

 その空の入り交じった色彩は、空気が澄んでいるのを感じさせるほどの透明感があった。

 東京ではそうそうお目にかかれないような風景美に、明香は無性に泣きたくなった。

 体の中に溜まって凝ったものが、身のうちからすべて流れだしていくようで、光が地平線の彼方に消えていくのをうっとりと眺めていることしかできない。

 だから背後であがった低い唸り声にも反応が遅れ、振り返ったときには目の前に獣の凶暴な顔と鋭い爪が迫っていた。


 ーーああ、死んだな。


 どこか他人事のように思った。






 ***






「少しはお姉ちゃんたちを見習いなさい」

 それが母の口癖だ。そう言っては溜め息をつき、仕方ないと首を振る。


「もう少し真面目に頑張れ」

 生真面目な顔で父が言う。その顔を真っ直ぐ見返すのは難しい。


「好きなことを、やればいいのよ」

 姉はそう言っていつも肩を叩いてくる。その姿は活き活きとして眩しく感じていた。


「うん、分かってる」

 だから明香は、三人の言葉にいつもそう返すのが精一杯だった。


 通う高校は偏差値が悪くないという程度の、普通の学校。部活にも入らず、どうしても入りたい大学があるからと勉強を頑張っていた姉の影響で、明香も高校二年ながら予備校に通っている。

 下駄箱で靴を履き替えて、同じ帰宅部の学生に混じって校門に向かう。


「お姉ちゃん!」


 学校の敷地から出る直前、明香を呼び止めたのは一つ年下の妹だ。

 健康的に焼けた肌と男の子のように短く切った髪がよく似合う妹は、まっすぐに明香のところまで走ってくると、明香の鞄を握ってぜーはーと深呼吸をした。


「萌花」

「よかった、間に合った! これから予備校でしょ?」

「そうだけど、萌は今日は部活でしょう? 朝に、確かレギュラー決める大事な日だって言ってたじゃない」


 萌花は陸上部で、一年生だがすでにかなりの成績を出している。今日の走りで良いタイムが出せれば、次の大会でレギュラーに入れてもらえそうだと言っていた。

 実際に彼女は陸上部のユニフォームを着ていた。

 剥き出しの肩やしなやかに引き締まった足が、萌花の活き活きとした力強さを現している。


「そうだよ。すっごく大事な日なの。だからお姉ちゃんにあれをやって欲しくて」

「あれ?」

「魔法の言葉」


 妹の幼い言い方に明香は苦笑した。

 萌花は昔からなぜだか、輝く一番上の姉よりも、冴えるものを何も持っていない明香に懐いていて、同じ学校にまで入学してきた。

 もちろん妹は可愛いが、そんなに慕われる理由が明香には分からなかった。

 この魔法の言葉もことあるごとにねだってくるが、それだって何の変哲もない普通の言葉だ。

 明香はじっと見つめてくる萌花の瞳をまっすぐ見返した。


「萌なら大丈夫。絶対出来るよ」


 何度口にしたか数え切れないほど言ってきた、なんのひねりも無い言葉。

 けれど萌花は、明香の言葉を噛みしめるような顔をしたあと、ぱっと晴れやかな笑顔を浮かべた。


「ありがとう! 絶対レギュラー取ってくるから、帰ったら褒めてね!」


 そう叫んだあと、自信に満ちた顔でグラウンドのほうへ走り去っていった。

 明香はその姿を目を細めて見送って小さなため息をつき、自分も予備校に向かうべく今度こそ校門を抜けた。



 予備校は地下鉄に乗って数駅のところにある。一度家に帰ることも出来るが、そうするともう一度外に出るのが億劫になりそうで、明香はいつも予備校に直行して自習室を使っていた。

 利用している地下鉄の出入り口は、人通りの多い交差点のそばにある。

 作りはいたって普通の出入り口だが、そこには一つだけ他とは違う特色があった。


「おはよう、シロ。あ、こんにちはかな」


 明香は小さく笑って、入り口近くで寝そべる老犬のぱさついた毛並みを撫でた。

 この地下鉄の入り口にふらりとやってきてはふらりといなくなる、不思議な犬だ。

 撫でられた犬が、少し白く濁った瞳で見上げてくる。

 白に茶色や灰色の混じった、あまり器量のよくない雑種だ。人に飼われていた時期が長いのか人懐っこく、歳のせいもあって大人しい。

 彼をシロと最初に呼んだのは、明香の友達だった。

 友人が昔飼っていた犬の名前だそうで、同じように器量の良くない雑種だったという。

 そう言って笑った友人の表情に深い親愛を感じて、動物を飼ったことがない明香にはとても印象的だった。

 本当の名前は分からない。きっと通りかかる人それぞれが好きに呼んでいるのだろう。


「ご主人さまは、まだ迎えに来てくれないの?」


 明香はシロの耳元を撫でた。

 明香の勝手な想像だが、彼はここで捨てられたか、主人が地下鉄に乗ったまま帰ってこなかったのだろう。ひたすら入り口から階段を見ている姿は切ない。

 ぺろりと手の平を舐められて、明香は我に返った。

 もう一度シロの頭を撫でて、予備校に行くべく重い腰をあげる。


「いってきます」


 シロからの返事は尻尾の一振りだ。

 明香は一気に階段を駆け下りた。

 もしあの場所にシロがいなかったなら、予備校に行くのはもっと憂鬱だっただろう。行きと帰りで二回、彼に会えると思えば少しは慰めになる。

 ただ黙って寄り添ってくれる体温は、明香にとってどこか救われる心地がするのだ。

 行きたい大学があった姉と違って、明香には行きたい大学も進みたい進路もない。

 だから講義も寝ているか窓の外をぼうっと眺めていることが多く、どちらかというと無駄な時間を過ごしている。

 もちろん明香もこれではいけないと思っている。

 高いお金を払っての受講なのだから真面目に聞かなければいけないし、もしそれができないなら辞めるべきだ。

 けれど勉強することが当たり前だと思っている両親に言い出すことは難しく、ただ流されるままに通い続けていた。

 かといって、明香の両親はなによりも勉強を優先しなければいけないと思っているような学力主義ではない。

 萌花のようなしっかりとした意思と行動を示していれば、ちゃんと理解してくれる。

 講師の声を右から左に聞き流しながら、明香は自分の持つペン先を見つめた。

 その先にあるノートはいまだ白紙だ。緩く持ったペンが気紛れに歪んだ線を書く。

 姉は好きなことをやればいいのだと言うが、それがあるのなら既にやっていると思う。やりたいことがあるのなら、父の言うように真面目に取り組みもしよう。

 けれど見つからないのだ。姉や妹のように目をキラキラさせて打ち込めるようなものと巡り会えないのだ。

 見つけたいと言って簡単に見つかるようなら、もっと世界中のみんなが瞳を輝かせていることだろう。

 好きなものを見つけるというのは案外に難しい。それを持っている人は幸せで幸運だ。

 そして、そんな人たちは好きなものを見つけられない人を理解できない。

 お姉ちゃんたちを見習いなさい。そう母は言うけれど、誰よりもそう思っているのは何も持っていない人間、つまり明香自身だ。

 だからあまり比べないで欲しい。溜め息を吐かないでほしい。羨ましい以上に妬ましくなりそうで怖い。

 気付けばボールペンを強く握っていた。いつのまにか押しつけていたペン先から黒いインクが広がっていく。

 明香は講師に気付かれない程度に息を吐いて、窓の外に目を戻した。

 既に日は沈んで外は暗い。窓は明るい室内を映して、明香は自分の顔を捉える。

 肩に着くか着かないか程度のボブ髪の少女。

 昔から変わらない髪型、どうして伸ばさないのと友達に聞かれて、初めて姉と同じロングストレートになるのを避けていたことに気づいた。

 三姉妹の中で、姉と明香が母親似で、萌花が父親似である。けれど姉に似ていると言われたことはほとんどない。顔の作りは似ているのに、姉の方が断然綺麗だ。

 誰だったかに外面は内面から滲み出るものだと言われたときは、さすがに傷ついた。

 言い返せない自分にさらに落ち込んだ。


「馬鹿みたい」


 窓に映っている自分に向かって小さくつぶやく。

 結局気分が沈んだだけの予備校が終り、帰路につく。この道を行きながら明香が思うのは、帰りたくないということだ。

 いつからか、家にいるのが辛くなっている。家の中に居るのがいたたまれず、惨めだ。

 家族との関係が悪いわけではない。だが、姉や妹のキラキラするような会話を聞くのが、どうしても苦痛だった。

 いつも表情の浮かない明香に、思春期だと笑ったのは叔父だったか伯母だったか。

 その通りかもしれないが、それだけだと思われるのは気分が悪い。


「シロに会いたい」


 ぽつりと呟いた明香は、足早に電車に乗った。

 あの艶のないぱさぱさの毛並みを撫で回して、仕方ないなというように手を舐めて貰って癒されたい。

 駅に着いて降りようとした明香は、後ろから突き飛ばされてたたらを踏んだ。


「ああっ……!」


 しっかりと閉めきっていなかった鞄から筆箱が飛び出し、落ちた衝撃で蓋が開いてホームに中身が散乱する。

 明香にぶつかるようにして電車を降りたサラリーマンを思わず睨むが、逆に自分が沢山の目から迷惑そうに見られているのに気付いて、慌てて俯いた。

 急いで散らばった物を拾うが、手伝ってくれる手は一つも現れなかった。

 明香が顔を上げたときには周りに人の気配が無く、発着を告げるテロップもとっくに終わっている。

 いっそ八つ当たりにも近い大きな溜め息を吐いて明香は鞄を抱え直した。

 人の居なくなったホーム内を歩き、改札を出る頃には前方に人の姿も見えてくる。

 外に出る階段の下からかっぽりと口を開けた出口を見上げると、いつのまにか雨が降り始めていたらしく、小さな雨音が聞こえてきた。

 今日の朝の天気予報では、雨の確率は低かった。

 明香はもちろん傘を持ってこなかったし、そういう人は多いのだろう。一度出入り口で立ち止まったあと、みな駆け出していく。

 これではシロも今日は居ないかもしれない。

 がっかりしながら階段に足を掛けたとき、明香以外に唯一、階段に残っているふたり連れの女子高生の向こう、蛍光灯の人工的な光に照らされた白い影が見えた。


 白と茶色と黒のまだらな毛並み、おぼつかない足並み、主人を捜すよぼよぼの瞳。


 シロの姿に、明香は一気に心が躍って階段を駆けた。


「やだー、雨降ってんじゃん。天気予報の嘘つきー」

「ちょー最悪。傘持ってきてないのに」


 女子高生たちの文句が頭上から降ってくる。

 空を見上げていた彼女たちは、雨に濡れて一層みすぼらしくなった生き物に気づかず、ひとりの足が犬に触れた。


「──……!」


 痩せた体が落ちてくる。

 明香は音にならない悲鳴を上げて階段を駆け上がった。

 だが、その手が犬の毛に触れることはなかった。

 雨に濡れた階段に足を滑らせた明香は、手すりに掴まる余裕もなく、体は宙に舞った。









「あれ?」

「どうしたの?」

「うん、いま何かにぶつかった気がしたんだけどー」

「えー何それ。気のせいでしょ」

 そう言って振り返っている少女を、もう一人の少女が叩く。

「だって誰も居ないじゃん」



 ホームへと続く階段には、誰の姿もなかった。






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