1-7:学校へ行こう!
龍の記憶の上では昨日以来のことであるが、三十年ぶりに訪れた八分儀中学校は見違えるようだった。
当時の八分儀中学校は、老朽化のせいでコンクリートがむき出しになっており、その上をヒビ割れとツタが覆っていた。内装だって何の工夫もない四角四面の造りだった。お世辞にも綺麗だとは言いがたく、特にトイレは「臭い、汚い、暗い」の3Kが揃った最悪の環境だった。
一変して、2017年の八分儀中学校はスタイリッシュに様変わりしていた。まず、校舎の輪郭からして違う。SF漫画で見たような近未来的な流線型のフォルムの教室棟があり、その中央にはかつて存在しなかった立派な時計塔が構えている。
タイルの敷き詰められたお洒落な歩道を進んで校門をくぐると、校舎の中もまた生まれ変わっていた。
「……まぶしい」
校舎に入った龍の第一声だった。かつての薄暗い雰囲気はまったく感じられず、ガラス張りのエントランスホールが、明るい蛍光灯に照らされている。もう閉門時間が近いので人はあまり見当たらない。その静けさが一層清潔感を際立たせていた。
「こんな学校に通いたかった……」
自然と本音が口を突いて出た。かつての八分儀中学校が嫌いなわけではない。雑多で、思い出のたくさん詰まったブン中だってもちろん大好きだ。しかし、生まれ変わった姿を目の当たりにしてしまうと、羨ましいと思わざるをえなかった。
「そんなに感動するものなんですか?」
隣を歩くしいがあきれたように言う。
「当たり前だろ。寝て起きたら実家がリフォームされてたようなもんだぞ」
「でも、龍さんはもう住めないんですよね。かわいそうに……」
「あ?」
龍はいつもどおりの声色で喋っているが、一方しいは小声だった。
霊感のない一般人は幽霊である龍を認識することができない。だから人目のあるところで一来寺のときと同じテンションで会話していては、しいが虚空に話しかけるイタい子だと思われてしまう。
その辺りはしい本人も心得ているようで、龍をまるでいないもののように振る舞いつつ、唇をほとんど動かさずに小声でしゃべる技術は一流だった。
触手に蹂躙されたしいは、あの後にまた服装を変えていた。もう一着持っていたという学校指定のセーラー服だ。肩にかけた大きなショルダーバッグに、除霊のための道具がたくさん詰まっているらしい。
「このまま例のトイレに直行するか?」
龍が尋ねると、しいは「いいえ」と答えた。
「除霊する前に、行くところがあります。教頭先生のところです」
「なんでまた」
「学校の責任者から書類にサインをもらわなきゃいけないんですよ。除霊師であることは基本的に秘密ですが、限られた人にだけ明かすことになっています」
「案外堂々としてるのな。夜の学校に忍び込んだりするもんだと期待してたんだけど」
「お金をもらう仕事ですから。契約関係はきちんとしないと、うちが餓え死にしてしまいます」
「中一なのにしっかりしてるね……」
「世知辛いもんです」
そんなことを話しているうちに、二階にある教務室の前までたどり着いた。
しいは「失礼します」と扉をノックして、おずおずと中へ入っていった。龍もその背後についていく。
ほとんどの生徒が帰った後もまだ作業している教師たちの横を通り、教務室の奥へ歩いていく。ひょっとして龍の知っている先生がいるかもしれないと期待してみたが、流石に三十年も経っていれば見知らぬ顔ばかりだった。
いくつかのデスクの上には薄いテレビのようなものが置いてある。お咎めなしなところを見るに仕事で使うものらしい。スマートフォンと同じでこの時代の必需品なのだろうか。
しいは、窓を背に座っている太ましい眼鏡の男の前で立ち止まった。
「教頭先生、お待たせしました」
「ああ、来たかね」
教頭は薄いテレビから目を離し、椅子ごと身体をこちらに向けた。
しいがショルダーバッグからクリアファイルを取り出して差し出すと、教頭は何も言わずにそれを受け取った。どうやら、除霊をすることはあらかじめ伝えてあったらしい。
教頭は太枠で囲まれた空欄に文字を黙々と書き込んでいく。最後に印鑑を押すと、書類を二枚に剥がして片方をしいに返した。
「はいよ、よろしく頼むね」
「ありがとうございます」
書類をカバンにしまうしいを上目遣いで見ながら、教頭が口を開いた。
「今日は丹治さんがいないんだね」
しいの動きがピタリと止まる。表情が引きつっているのが見えたが、すぐに笑顔を作った。
「はい……。わたしだけでやらせていただきます」
「ふうん」
数秒、沈黙が流れる。
「君は除霊師だけど、うちの生徒でもあるからね。危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ。二人目の犠牲者を出すわけにはいかないからね」
「き、気をつけます。ありがとうございます」
表面上は、教え子を気遣った優しい言葉。しかしその裏に、実績のある丹治が不在であることへの失望が透けて見えた。
教頭が机に向き直ったので、しいはお辞儀をすると、教務室から退室した。
「はあ……。やっぱり、お父さんと違って期待されていないんでしょうか」
退室するなり、しいは声を潜めることも忘れて憂鬱そうに愚痴った。
「俺たちで見返してやればいいんだ。元気出せって」
「そうですね……ええ、頑張ります」
「じゃ、出発だ」
二人は校舎中央を突っ切る渡り廊下を通って、件のトイレがあるという教室棟までやってきた。
教室棟の廊下の中央は、時計塔に合わせて出っ張った広い空間になっていた。男性用、女性用および車椅子用の広いトイレがあるほか、その隣に、丸テーブルと椅子の置かれた談話室のようなスペースが設置されていた。
談話室の椅子の一つに、セーラー服の女の子が座っていた。
水色のシュシュで結ったツインテールに、いかにも強気そうな猫目。膝上よりもはるかに丈の短いプリーツスカートから伸びた細い足が、行儀の良いとは言えない姿勢で組まれている。
女の子は退屈そうにスマートフォンの画面を触っていたが、しいを見つけるとニヤッと笑って立ち上がった。
「遅かったじゃん。怖くて逃げ出したのかと思ったよ、インチキ除霊師」
しいが一歩後ずさった。「あいつが島霧鈴愛?」と尋ねると、かすかにうなずいて肯定の意思表示をしてくれた。
改めて島霧鈴愛をまじまじと見つめる。……というのも別に下心があるわけではなく、龍は彼女の姿になぜか見覚えがあったのだ。三十年前に鈴愛は生まれてもいないのだから、間違いなく今日が初対面であるはずなのに、どこかで出会ったことがある気がしてならない。
既視感の正体にもう少しで届きそうなところで、鈴愛の心ない言葉に思考を遮られる。
「ね、替えの下着はちゃんと持ってきたの?」
「なっ……!!!」
しいが耳まで真っ赤に茹で上がった。その様子を見てますます笑みを広げた鈴愛が追い打ちをかける。
「楽しかったよねー、春先にクラスのみんなで行ったお化け屋敷」
「あ、あぁあ、あれは島霧さんが無理やり……」
「大泣きしながら係員さんに連れ出されて、下がびしゃびしゃになってて。あの時の男子たちのいやらしい顔!! 今思い出しても超ウケる!」
「~~~~~~~~~~!!!!!!!」
「ねえ、あんなチャチいお化け屋敷で何が怖かったの? 除霊師だから、本物の幽霊が見えちゃったの?」
黙ったまま小刻みに震えるしいを、龍は横から肘で小突く。
「おい! 言われっぱなしでいいのかよ!」
「ただのお化け屋敷で恥ずかしいことになったのは……ホントのことだから……」
「ったくよお、そうじゃねえだろ……」
しいは縮こまるばかりで一向に反論しない。売られた喧嘩ならば手を出すことに躊躇いのなかった龍にとって、彼女の態度は見ていてひどくもどかしかった。
「……しゃーねえ、これっきりだぞ」
龍は大仰にため息を吐く。そして鈴愛のそばに立つと、手に握られているスマートフォンを--勢いよく奪い取った。
「えっ!??」
「龍さん!?」
鈴愛としいが同時に目を剥いた。
きっと今、鈴愛の視点からは、スマートフォンが突然自分の手から離れて、宙に浮かんでいるように見えているだろう。さっきまでの余裕の態度はどこへやら、「何!? なんなのこれ!?」と慌てふためいている。
龍はそのままスマートフォンを床に落とした。鈴愛が拾おうとしゃがんだところで、今度は背後から、短いスカートをたくし上げてやる。
「いっ------!!」
鈴愛の顔が羞恥で歪んだ。やたらめったらに腕を振り回し、そこにいるはずのスカートめくりの犯人を探ろうとする。
しかし当然、腕は龍の身体をすり抜けるばかりで当たることはない。鈴愛の顔がどんどんこわばっていく。
「ちょっと……寺誉さん! ぼーっと見てないで! なんなのこれ!」
しいはしばらく唖然としていたが、やがて我に帰るとクスクスと笑いだした。
「島霧さんに憑いてるんだよ。本物の幽霊が。わたし、除霊師だから見えちゃうんだ」
「うそ……」
「でもすごい。島霧さんは怖い目にあってもお漏らししないんだね。尊敬しちゃう。あ、かわいい下着だと思うよ、それ」
今度は鈴愛の方が顔を赤くする番だった。
もう十分だろうと龍が手を放すと、鈴愛はすぐさまスカートの裾をぎゅっと下まで押さえつけた。
「幽霊はもうどこかに消えたよ。さ、『花子さん』のところへ行こう?」
「ま、待って、まだ心の準備が……」
すっかり取り乱した鈴愛は尻目に、しいは女子トイレへ歩いていく。道すがら、こっそりと龍に声をかけてきた。
「スカートめくりは現代じゃセクハラですからね。またやったら怒りますよ」
そう口を尖がらせながらも、しいはこれまでになく良い笑顔だった。