1-4:鏡の花子さん
「問題の霊障事件は、わたしの中学校で起きているんですけど」
しいは切り出した。
「『トイレの花子さん』は知っていますか?」
龍はすぐにうなずき返した。
「有名な怪談だな。誰もいないはずの個室トイレに呼びかけると、花子さんが「はーい」と返事をする……だっけ……」
こめかみに人差し指を当て、しかめ面をする。あらすじは大雑把に知っていたが、細かいところを覚えていなかった。特定のトイレでなければならないとか、呼びかけ方にも決まりがあるとか、ややこしいルールがあった気がする。
「でも、あんな怪談をまともに信じてる奴なんていないだろ」
龍は率直な意見を言った。
「俺はブン中……八分儀中学校に通ってたけど、トイレの花子さんどころか、学校の七不思議だって一つもなかった」
龍が『花子さん』を知ったのは、学校の怪談を集めた児童書に載っていたからだ。実際に学校で噂になったことは一度もなかったはずだ。
とはいえオカルトの世界に足を突っ込んでしまった今、実は『花子さん』の幽霊も本当に存在するのではないかと、心のどこかで疑い始めていた。
ところがしいは「はい。『トイレの花子さん』を本気で信じてる人間は、まあ、いません」と龍の言葉を肯定した。
「わたしの学校もブン中なんですよ。ブン中は地元校なので、我が家の除霊師が代々、定期的に浄化してきました。だから霊障の発生件数がとても少ないんです。もちろん、『花子さん』の幽霊がいたこともありません」
龍たちの住んでいる阿賀夢市には、いくつかの地区ごとに市立中学校がある。その中でも特に歴史が古く、そして特に物理的に荒れている学校が、ブン中こと市立八分儀中学校だ。
荒れているといっても、それは龍の通っていた三十年前の話であり、しいが言うには半年前の改築工事で校舎が綺麗になった前後から、治安はかなり改善されたという。
「実はその改築工事が今回の事件と関係があるんです」
しいは神妙な顔つきで人差し指を立てる。
「確かに『トイレの花子さん』は誰も信じなかったですし、霊自体もいませんでした。しかし、数週間前から新しい噂がまことしやかに囁かれるようになりました。『鏡の花子さん』です」
「『鏡の花子さん?』」
「はい……。それはこんな噂です」
そして、しいは語り始めた。新しい『花子さん』の怪談を。
***
むかしむかし、女子便所の一室で花子さんが自殺をしました。
成仏できなかった彼女の魂は、狭くて臭い個室に縛り付けられてしまいました。
花子さんはずっと孤独でした。ですから、友達を欲しがりました。
個室のドアを三回叩かれ「花子さん」と呼ばれれば、一緒に遊ぶために声の主をひきずりこんでいました。
しかし時が経ち、花子さんの根城はある日失われてしまいました。
校舎が改築され、便所も清潔に生まれ変わったのです。
狭くて臭い和式便所は、ウォシュレット付きの洋式トイレになりました。
明るい場所にいられない花子さんは行き場をなくしました。
***
「ちょ、ちょ、ちょ、しい、ストップ!」
「どうかしました? これからが肝心なところなのに」
きょとんとした様子のしいに、龍は息を荒げてつっこむ。
「ウォシュレットって……怪談にウォシュレットってなんだよ!!!」
「龍さんの時代はウォシュレットがなかったんですか? ウォシュレットというのは――」
「知ってるよ、ちょうどトイレ業界が売り出し中の新機能だったから! そうじゃなくて、急に話の雰囲気変わりすぎだろ! 真面目に怪談やってたのに、ウォシュレットはないだろ……キレイすぎだろ……」
龍が頭を抱える一方、しいはやれやれと大袈裟に首を振った。
「龍さん、事件の現場は改築したての学校なんです。キレイでセイケツな場所なんです。『怪談は暗くて汚くあるべき』なんて常識に囚われていては除霊師失格ですよ」
「……わかった。わかったから続けてくれ……」
***
新しいトイレには、花子さんにとって都合の良いものもありました。
鏡です。等身大ほどもある大きな鏡が設置されたのです。
花子さんは鏡の世界へ逃げ込みました。そこが彼女の新しい居場所になりました。
やはり花子さんは孤独でしたが、自分に呼びかける人物を仲間にする方法はもう使えません。
一方、ドアで現実世界と切り離されていた個室と違って、鏡と現実の境界線はもっと曖昧です。
鏡の世界と現実世界が表裏一体となったとき、二つの世界は交わることができるのです。
そこで花子さんは、自分と容姿の似ている女の子が鏡の前に立つことを待ち望むようになりました。
……いつかそっくりさんが現れたとき、迎えに行って鏡の中へひきずりこむために。
***
「――というのが、『鏡の花子さん』の噂です。要は、女子トイレの鏡の前で『花子さんにそっくり判定』を受けてしまったら鏡に引きずり込まれるというのです」
しいは語り終えると、専門家らしく解説を付け加える。
「この怪談のキモは、花子さんの容姿が一切語られていないことです。だから、どんな格好をすれば、どこまで似ていればそっくりさん判定されるのかが不明なんです」
「なるほどな。いつ自分が犠牲者に選ばれるのかわからなくて、恐怖心を煽られるってわけか」
「はい。みんなも最初は真に受けていなかったんですが、だんだん不安がる子が増えてきて……。あっ、わたしは別に怖くないですからね! 男女共用の車椅子用トイレを使ってるのも、女子トイレを避けてるんじゃなくて、あそこが快適だからってだけですからね!」
「苦しい言い訳をありがとう」
生暖かい微笑みを返してから、改めて龍はうなった。
怪談としての完成度はともかく、女子生徒を無差別に怖がらせる一点ではよくできている。
トイレという身近に利用せざるを得ない場所が舞台だから、どうしても意識してしまう生徒も出てくるかもしれない。
「それでも、気になることがある」
「なんでしょう?」
「聞いた限り『トイレの花子さん』が前提の話みたいだけど、ブン中に『花子さん』の幽霊がいないことは丹治が確認したんだろ。噂が広がったとしても、ただ怖がられるだけで終わりじゃないのか」
そう指摘したのだが、しいはきっぱりと否定する。
「いいえ……。噂が多くの人間に語られると、その言葉が霊力を介して真実になってしまうことが稀にあります。除霊師の間では、そうやって生まれた霊を言霊と呼びます」
「言霊ねえ」
「集合的無意識、哲学兵装とも言われています。信じる人間が多く、場所が局所的であるほど、言霊は生まれやすいんですが……」
しいは言葉を詰まらせた。
「わたしは『鏡の花子さん』が言霊になったことに気づけませんでした。でも、仕方ない面もあるんです。鏡の世界に引きずり込まれた被害者が出るまで何も兆候がない怪談ですから、よっぽど霊感の鋭い除霊師でなければ事前に察知できなかったでしょう」
「ちょっと待て。被害が出るまでわからないのに、今こうして問題になってるってことは、まさか」
龍の指摘は当たっていた。しいは膝に乗せた小さな拳で、和服のすそをぎゅっと握る.
「はい……。犠牲者が出てしまいました。わたしのクラスの子が一人、花子さんに連れ去られたんです」