1-3:胸に決意を抱いて
かくして、丹治の娘と第一印象最悪な出会いを果たしてしまった龍は、死んだ日の出来事を一来寺の客間でつらつらと語り、ようやく彼女の名前を教えてもらえるところまでこぎつけたのである。
寺誉しい。
珍しい苗字とはまた違った方向性で珍しい名前だ。ふんわりした響きの言語センスが、なんとなく堅物の丹治のそれではない気がする。
ともあれ、身の上話に同情してもらい、最低限の信頼を得られたことで龍は心底ほっとしていた。
「ほんの少しだけ、龍さんのことがわかった気がします」
しいはお茶菓子の煎餅を遠慮がちにつまみながら言った。
セーラー服から薄桃色の和服に着替えた彼女は、さながら雛人形が等身大になったようなあどけなさを纏っていた。
「こう言ってはなんですけど、とってもリア充だったんですね」
「え。なに?」
耳慣れない単語で評価されたことに不安が生じる。それはポジティブな意味の言葉なのか。
「りあじゅう、ってなんだよ」
「あっすいません。昔はなかった言葉ですよね。スポーツをやっていて、趣味があって、仲の良い友達がいて、家族が揃っていて……いい感じの女の子もいたんでしたっけ?」
「お袋の早とちりだよ。浮いた話はなかった」
実際、龍は生まれてこのかた彼女ができたことは一度もなかった。まだ十五歳なのだから焦る必要も無いと余裕をかましていたのだが、人間いつ死ぬのかわからないのだからもっと貪欲になっていれば良かったと今は思う。
それにしても、しいがずいぶん些細なところまで聞き取っていたらしいことに、ちょっと驚く。
「そ、そうですか……。とにかく、リア充っていうのはリアルの私生活が充実しているっていう意味です。あ……もちろん褒めてます!」
改めて他人から客観的に評価されると、生前の自分は恵まれていたらしいということを実感する。
あまり自分のことを認知する機会などなかったものだから、なんとなく漫然と日々を過ごしていた。
「でも、死んで三十年も経ったら全部パーだ。俺にはもう何も残ってない」
龍は軽い調子でお手上げの格好をとった。実際のところはあまり気に病んでいないが、今の龍に『りあじゅう』の評価は不適当だ。少なくともそう思った。
「そう、全部パーですよね!」
「……なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
「あっ、いやっ、嬉しいなんて思ってないです! 全然! すごく気の毒です……」
しいは慌ててかぶりを振った。
嘘くせえ。
「ただ今は非リアのわたしと同じなんだなって思うと、なんていうか……親近感が……」
「いい性格してんなおい」
「ひいっ」
……この子、気弱なだけじゃなくて、実はかなりの根暗なのでは?
『ひりあ』もなんとなくニュアンスで意味を察することができた。自己評価の低いしいが、自分と同じカーストまで下がった龍を同一視して安心している。そんな風に見て取れた。
同時に、『ひりあ』と自分を卑下してしまうような環境にしいを置いている丹治を、こっそり責めたくなる。あいつはちゃんと娘のことを見てあげているのだろうか。というより、そもそもどんな家庭を築いたのだろう。
「龍さんも知りたいことが山ほどあるって言ってましたよね。なんでも聞いてもらっていいですよ」
しいが話題を変えてくれたのでちょうどよかった。質問は数え切れないほどあるが、まずは興味の矛先が向いていることを尋ねてみることにする。
「じゃあ早速なんだけど。しいのお母さんってどんな人なの?」
「え……?」
「ほら、下世話な話だけどさ。丹治が誰と結婚したのかってやっぱ気になるじゃん。今の寺誉家ってどんな感じなのかなって」
軽い気持ちで聞いたのだが、ところが、これが極大の地雷だった。
せっかく龍への警戒心を解いて微笑んでいたしいの表情が、その言葉を聞いた途端に暗くなったのである。
うつむいて、湯のみに注がれたお茶をじっと見つめながら、しいはこぼす。
「お母さんの名前は綾。お父さんと中学高校の同級生だったそうです」
その名前が出てきて、龍はしいの様子を気遣う余裕もなく、弾かれるように前のめりになった。
「綾!? ひょっとして御堂筋綾か!?」
「あっ、はい。旧姓は御堂筋だったと聞きました。ひょっとして、龍さんも知り合いだったり?」
「知り合いも何も、綾は同じクラスのダチだよ!」
御堂筋綾――実直で優しい人柄の、クラスでも人気者の女子だった。
龍と丹治、そして綾の三人は、中学校に入学してしばらくしてから意気投合するようになった。三人とも、とあるカンフーアクション俳優のファンだったのである。
丹治は除霊師の修行の都合でなかなか一緒にいられなかったから、必然的に映画の話題は二人でしゃべることが多かった。龍と綾が付き合っているとお袋が勘違いしたのも無理からぬことだったのだろう。
そして、綾が丹治に想いを寄せていたことを、龍は知っていた。
あるとき、綾から恋愛相談を持ちかけられたのだ。
「ねえ……。茶化さずに聞いてほしいのだけれど」
あれは龍が死ぬ一ヶ月ほど前のことだった。綾は真剣な口調だった。
「寺誉くんってどんなアプローチが一番効果的だと思うかしら?」
度肝を抜かれたのを覚えている。
綾はいわゆる大和撫子な性格で、恋愛ごとにも奥手なイメージがあったから、丹治に特別な好意を抱いていることも、それを正面切って龍に相談してきたことも衝撃的だった。
龍の方も綾を異性として好いていたかと問われれば、どちらかといえばノーだった。だから――もちろん多少下心のある目で見てしまったことがあるにせよ――快く相談に乗った。
そのときに知ったのは、綾の家庭は異性交遊に否定的だということと、そのハードルを乗り越えてでも丹治と結ばれたいという彼女の強い想いだった。
綾が願いを遂げて丹治と結ばれたという報告を聞いて、龍は素直に祝福した。何せ記憶の中では二人の恋もつい最近の出来事なのだ。
言われてみれば、しいにも綾の面影がハッキリと受け継がれている。
細くしなやかな眉、キューティクルの艶やかな髪質に、年齢相応以上に膨らんだ胸などは綾にそっくりだ。
「……どこ見てるんですか」
ジト目で睨まれて龍は我に帰った。
「あ、あはは、すごいじゃないか。綾が丹治を好いていたのは俺も知ってるよ。そっか、そっかあ。あの二人がなあ」
うんうんと一人頷く龍とは対照的に、しいの表情は沈んだままだ。
「あの……龍さん」
「どうした?」
「言わなきゃいけないことがあるんです」
しいは目を閉じて、大きく深呼吸をすると、意を決した様子で口を開く。
「お母さんは、五年前に死にました」
「えっ……」
絶句する。その瞬間、世界の時が止まったように感じた。
「悪霊に殺されました。……龍さんと違って、死んだっきり、もう戻ってくることもありません」
しいの目から一筋の涙がこぼれた。
一来寺の家屋の一室に備えつけられた綾の仏壇には、立派な装飾が施されていた。
煌びやかすぎない、厳かな格の感じられる宝具が理路整然と並べられている。龍は仏教に詳しくないが、死者を丁重に弔う意思がその仏壇からは感じられた。
仏壇の中央に立てかけられた写真から、生前の綾がこちらに笑いかけていた。
亡くなったのが今から五年前だから、四十歳ごろのときに撮った写真だろうか。記憶にある綾の姿をそのまま素直に大人に成長させたような見た目だ。ほうれい線と白髪が垣間見えるが、柔和そうに見えて強い意思のこもった瞳は中学生のときのままだった。
「あれほど動揺するお父さんをわたしは見たことがありませんでした」
しいは仏壇に向かって念仏を唱えた後、ぽつぽつと語り出した。
「どんな因果かはわかりませんが、ときどき想像を絶するほど強力な悪霊が現れることがあります。あの日、”あれ”が現れた場所はこの一来寺でした。ちょうど季節の祭事の最中で、一般の方もたくさんいました。お父さんは、皆さんを守るのに精一杯でした」
当時を思い出そうとするしいの目は虚ろで、何かに怯えていた。
「わたしはまだ八歳で、無力でした。”あれ”は、わたしに毒手の狙いを定めました。お母さんは幽霊が見えないのに、そのとき、わたしをかばって……」
「しい」
「……悪霊に殺された人間の魂は消滅します。多分、龍さんは本当に運が良かったんだと思います。お母さんの魂は、成仏することさえなくこの世から消えてしまいました」
「綾を殺した悪霊はどうなったんだ?」
「取り逃がしたと父は悔やんでいました。除霊することはおろか、身を守ることさえ満足にできなかったんです。今もまだどこかで……」
肩が震え、顔が青ざめていた。
なぜしいが幽霊を極度に恐れるのか、龍はその原因の一端を知った気がした。
龍は拳を痛いほどに握りしめ、一つの決意を胸に宿す。
「しい。君が俺を蘇らせたのは、困りごとがあって悪霊と戦ってほしいからだったな」
「はい……。お父さんは今、大事なお仕事で家にいません。わたしは除霊師の才能が本当に無くて、一人ではどうにもならないんです。でも、どうしても解決したいことがあるんです。助けたい人がいるんです」
「俺には悪霊と満足に戦えるだけの力があるんだろうか?」
「龍さんは、ものに触ろうと思えば触れますよね。現世の物体に物理的に干渉できるのは、強力な霊だけです。少なくとも、低級の悪霊は相手にならないと思います」
「そうか……」
龍は言葉を切る。力があるならば、その先には。
「……もしも悪霊と戦い続けていれば、綾の仇にもいずれ出会うんだろうか」
「龍さん」
しいがハッとして顔を上げた。その見開かれた瞳をまっすぐに見つめ返す。
現世に幽霊として蘇った風鳴龍がなすべきことを、いま見出したのだ。
「待たせて悪かった。君の頼みごとというのを、詳しく聞かせてほしい」