1UP? キノコ!
注意!
主人公はクルクルパーです。ほんまもんのパーです。
よい子のみんなはマネして怪しげなキノコを食べたりしないでください。
ダンジョンの上に建てられた学園。
授業カリキュラムは全て、胸躍る冒険と探索のための剣術や魔法の授業に占められていて、生徒は装備を整え、クラスメートでパーティを組んで、ダンジョンを探索する。
そんな素晴らしい環境に加えて、雲野シゲルの幼馴染暁シズカは学園一の美人で最強の剣士、家は県内最大の金持ちだが、それを嫌味にすることなく、常に己を正し続けるその凛とした表情に男子はおろか女子まで熱狂。
ただ、問題は雲野シゲルはここの生徒ではなく、キノコ系の薬とダンジョンから持ち帰ったブツのブローカーをする用務員で、もう二十九だということだ。清く、正しく、いやらしくをモットーに一日の半分は怪しげなキノコを煎じて飲んで、ハイになったり、トリップしている。シズカも二十九で剣術科の教師をしていて、一クラス受け持っている。
でも、とにかく幼馴染は美人なんだろとおっしゃる向きもいる。確かに暁シズカは高校時代、『踏んで欲しい美少女グランプリ』で三年連続トップを守り、現在は『踏んで欲しい女教師グランプリ』でついに殿堂入りを果たした。
だが、マンガやアニメのなかの〈架空の妹〉と現実の〈妹〉のあいだに越え難い相違があるように、幼馴染も同じこと。おうちに帰るまでが遠足なのと同じで、デレるところまでがツンデレです。ツンしかなかったら、ただの人格攻撃に過ぎませんよ。
シゲルは今のところ、ぎりぎり合法だが来月にはどうなるか分からない幻覚キノコをゴリゴリ乳鉢ですりながら、小中高、それに幼稚園のころの記憶を総動員して考える。
暁シズカにデレがあったか?
その日の昼前、雲野シゲルはヤクの取引――正確にはヤクルト・レディとの取引を終えて、ルンルン気分だった。その気になったらメールしてと秘密のアドレスをもらい、いやあ参ったね、とニヤニヤしながら、用務員室へ戻ると、暁シズカが彼の仕事場兼住居である学園用務員室のドアの前で仁王立ちしていた。シゲルは前へ踏み込む予定だった足を宙に浮かせたまま、後ろの足を起点にぐるっと一八〇度まわって、引き返した。
経験が逃げろと警報を鳴らしていた。幼馴染として過ごした日々は伊達ではない。
シズカがあんな顔して立っているということは精神世界の負の因果がめぐりめぐって、この物質世界に表出しようとしているサインなのだ。
心当たりは星の数。ひょっとすると、この学園の女子を相手にシゲルが撮り貯めたミニスカートとニーハイソックスが作り出す至高の絶対領域をロー・アングルから攻めまくった画像ファイルが見つかったのかもしれない。シゲルがこの学校に就職する前のこと、レトログッズのブローカーをしていたとき、秋葉原の怪しげな中古ゲーム屋で出会った万年ビタミン不足男に未使用未開封のゲームギアとワギャンランドを一緒に都合してやった礼として、スマート・フォン撮影時の音が出ないよう改造してもらって、可能となった夢のアルバム・コレクションだ。シゲルとしてもその扱いには特に気をつけ、『ドナウ河の風景百選』と名づけたフォルダにしまっていたのだが、それがバレたのかもしれない。いや、あるいは――。
こんなことばかり考えているとパラノイアになる。
ともあれずらかることだ。すたこらさっさ。
すると、彼が来た道、というか全国の教育施設で見かけるビニール引きのつるつるした床に刀が一本刺さっていた。これはシズカの愛刀でいつ、ここに刺さっていたのか、シゲルにさっぱり理解できなかった。だが、抜き身の日本刀が一本、お昼前の柔らかい日光が差し込む廊下の真ん中に深々と刺さっているという光景は言語に絶する狂気を秘めていて、そこを突破できるほどシゲルのメンタルはタフに出来上がっていなかった。コンニャクみたいにブルブル震えるメンタルからなけなしのカスみたいなクールさを総動員して、スマホのイヤホンを外し、いつもどおり、どうってことないふうに肩をすくめ、フレンドリーに笑いかけながら言った。
「ハーイ、暁センセ。元気? 今日も――」
「ダンジョンに潜る。ついてこい」
女騎士風のきりっとした口調。女騎士とオーガという組み合わせは陵辱エロ同人の世界ではテッパンであり、シゲル自身、これにハズレな思いをさせられたことはなかったが、それでも、有無を言わせず、自分をダンジョンへ引きずり込もうとするシズカの言動には待ったをかけたくなる。
あれ? そもそも、オレ、待ったをかける権利ってあるの? ここに来るまで、シゲルはアングラ漫画の生き神さまロバート・クラムのバンド、R・クラム・アンド・ヒズ・チープ・スーツ・セレナイダーズの『マイ・ギャルズ・プッシー』をききながら、ボーカルがプッシーと唄うところを一緒になって「プッシー!」と狂ったように叫んでいたのだ。マイナスからスタートを切るのはいつものことだが、いきなりダンジョンへ来いと言われるほどひどいことをしただろうか? やろうと思えば、プッシーとは英語で子猫の意味だ、決して××××のことではない、と言い張ることもできるが――。
「ええと、ダンジョンね。ダンジョン。理由は教えてもらえるの?」
「パーティが一組、昨日から帰ってこない。槙田たちのパーティだ。だから、探しにいく」
「へえ、戻ってきてない。そいつぁ、どうもよろしくないねえ。でも、オレと何の関係があるの? あ、いや。そりゃあ、かわいい生徒の皆さんが五体満足戻ってくることはいいことだけど、生徒がダンジョンで一晩過ごすのって別に珍しいことじゃないでしょ? それとも、泊りがけ冒険届が出されてないとか? 不純異性交遊が心配? オレ、他人の不純異性交遊を説教できるほど立派な大人じゃないんだよね。それにダンジョンに行くなら、魔法科の住吉とか、レンジャー科の葛西とかいるじゃん。そいつらのほうが絶対に頼りになると思うけど?」
「これは責任の問題だ、雲野」
「え、責任? え、なんの?」
「お前には学園付き薬剤師として、ダンジョンへ潜るパーティ全てに帰還用のキノコ製剤を配布する義務がある」
「へ? なにそれ? 初耳。いや、タダイマ・トリュフはこれまで売ってきたけどさ、それを買うかどうかは生徒の自由意志じゃなかったっけ? ほら、うちの校風は自由を重んじるから――」
「学園事務局からの通達を呼んでいないのか? メールと紙で配られただろう?」
メールで配られても、シゲルに読めるわけがない。学園事務局のメールは全て迷惑メール指定してシャットアウトしている。なにせ、事務局のメールはあれをしろ、これをするな、でないとぶっつぶすぞ、といった至極迷惑なことばかり言ってくるのだから、迷惑メールに指定しても別に問題はない。紙のほうはどうしただろう? そういえば、あれは一週間前、学校の裏手で大麻が自生していると勘違いしてハイになり、よく分からん雑草を手でぐちゃぐちゃにした後、紙で巻いてジョイントにして吸って気持ち悪くなってゲロを吐いたが、あのときの紙、ひょっとすると、タダイマ・トリュフに関する何かの連絡だったのかもしれない。
「とにかく」とシズカ。「お前はダンジョンからの帰還用キノコ薬を渡さなかった」
帰還用キノコ薬というのは通称タダイマ・トリュフと呼ばれるキノコで、ドラクエのリレミト、世界樹の迷宮でいうところのアリアドネの糸にあたる。ダンジョンのなかでタダイマ・トリュフを煎じたものを飲むと、あたまがぐわんぐわんしてちょっとしたトリップのあと、学園にあるいくつかの庭園の一つに生えているオカエリの樹と呼ばれる樹の根元に気づいたら立っている。学生たちにきいてみるとダンジョンの外で飲むタダイマ・トリュフはただのキノコ汁なのだが、一歩ダンジョンに踏み込んだ途端、それは非常にトリッピーな飲み物に変わるそうだ。ダンジョンの一番弱いチビ鬼にも勝てないシゲルはダンジョンへは決して足を踏み入れなかったが、それでもタダイマ・トリュフのトリップ話をきくと、ちょっとダンジョンに入ってみたくなる。なにせ、シゲルは三歳のころ、家の裏手のジメジメしたところに生えたひょろっと長い白いキノコを生のまま食べ、宇宙艦隊の提督として地球の外へ三分間ほどトリップして以来、ハイになるためなら何でも鼻から吸っている。カレー粉と熱帯魚用の粉末薬剤をまぜたエスニック・スペシャルなんかも、キノコにマンネリを感じたら今でもやってみたりしている。せんべいの袋に入っている『これは食べ物ではありません』と書かれた乾燥剤を粉にして鼻から吸ったときは頭蓋骨が全焼するかと思うほどひどい目にあったが、あるマゾヒストがこれにどっぷりハマって、お礼にヴィンテージもののゾンビアロハをくれたのはいい思い出だ。
気づくと、学校の中心にある大きな樹がある広場に来ていた。というより、引きずられていた。その樹の根元の洞に何かの石版がはまったダンジョンへの門がある。
すっかり戦装束を整えたシズカが刀の目釘を確かめているのを見て、こりゃいよいよ本気らしいということが分かると、シゲルはドドメ色の脳細胞をフル回転させて、このドツボから逃げる言い訳を考えた。
「あのさ。今日、ケーブルテレビで名探偵ポワロを三連続でやるんだわ。デヴィッド・スーシェのやつ。ヘイスティングス大尉も出てくるやつなんだわ。富山敬の吹き替えでさ。すげえよね。オレ、予約し忘れちゃったから――」
「いいから来い」
シズカは四つん這いになって逃げようとするシゲルの襟首をつかむと、そのままダンジョンのなかへと引きずり込んだ。
ダンジョンというものがある。
少しは知恵の働くものならば、それを活用しない手はない。
ダンジョンから持ち帰られる貴重品の数々は世に役立てられているし、タングステンや原油が見つかってダンジョン投機がブームになったりする。
だから、茸江市のダンジョンの上に学園がつくられ、そこの生徒たちが探索からチームワークの大切さを学ぶというのも悪くないコンセプトだった。というのも、茸江市で唯一のダンジョンは昭和レトロ風のダンジョンで持ち帰るお宝も不思議な宝石や魔獣の牙などではなく、東芝が東京電気と名乗っていたころにつくられたマツダセレクトスイッチやマニア垂涎のマッチ箱図柄を収めた赤いモロッコ革のスクラップブック、信号機マニアが殺してでも奪いに来るバタン式交通整理器といった具合で、いい年をした大人が本気を出すようなものではない。
そんなダンジョン学園にシゲルが流れ着いたのは、まさにトリップだった。
かなり質のいいロシアもののAVが大量に流れ込んで、ロシアものにあらずんばAVにあらずとまで言われた年のこと、東京の薬科大学である種のキノコから抽出する覚醒物質についての卒論を提出し、大手製薬会社の研究職に内定していたシゲルは、まだ合法だと思って飲んだマジックマッシュルーム・ティーのせいでパクられてしまったのだ。寮の部屋にいたはずが、気がつくと警視庁庁舎のまん前で裸になっていたのだから、言い逃れはできなかった。大学と警察、そして卒論に目がくらんだ教授の悪巧みが数次元に渡って絡みついた結果、卒論を教授の名義にして内定取り消し、大学は中退、そのかわり起訴はしないという裏取引を提示され、ブタ箱行きをまぬがれることができるなら三回まわってワン!だってやってのける、それもスタニスラフスキー方式で本物の犬にかなり忠実なワン!を涎を垂らしながらやってのけるつもりだったシゲルは喜んで、全てを差し出した。
大学から放逐されたシゲルが新社会人として食い扶持に選んだのは合法キノコ、その名も『1UPキノコ』のネット販売だった。スーパーのタイムセールで一パック八十円まで下がったシメジを乾かして、カキ氷用のメロンシロップをスプレーして緑色に染めたものを売った。写真で見る限り一UPキノコは細くよじれて怪しげで煎じて飲めば魂が体から脱け出して、インドの精神世界へのトリップを約束してくれるように見えた。もちろん、もとはただのシメジなのだから、こんなもの煎じて飲んでも、ハイになれるはずがない。だからといって詐欺にも問われない。シゲルはあくまで一UPキノコのことは合法キノコと称している。実際、シメジが法律で禁止されたというニュースはきいていないから、彼のキノコ・ビジネスはあらゆる角度から見て安全で結構な額のリターンを約束してくれた。
このキノコ・ビジネスが破綻したのは、シゲルが売人の第一鉄則『商品を自分で使うな』を破ってしまったからだ。というのも、1UPキノコはかなり売れた。製造が間に合わないくらい売れたし、かなりの数のリピーターがついた。ひょっとして、シゲルの知らない化学反応が乾燥シメジとメロンシロップのあいだで発生し、トリッピーな物質を合成したのではないかと思い、シゲルは自分で一UPキノコを試してみた。気づくと、商品は空っぽになってしまっていた。禁断症状で狂ったシメジ中毒者たちがどうやったか知らないが、シゲルの居所をつきとめ、シゲルの腹を切り裂いて、まだ未消化の1UPキノコを取り出してやろうとナタを研ぎ始めると、シゲルは大急ぎで身を隠した。
シゲルは自分の嗜好が売人向きではないと分かり、宗旨変えをした。手持ちの現金を元にレトログッズのブローカーを始めたのだ。手始めに扱ったのは日本初の漫画キャラクター玩具『ノンキナトウサン』の首振り人形を五十セットほど。シゲルがブローカーとして成功したのが、生まれつきのものか、摂取し続けたトリッピーな物質の数々のおかげなのかは今となっては分からないが、とにかく三年後にはレトログッズ業界の大物ブローカーになった。
ある日、とっておきのキノコが近々非合法になるときいて、シゲルは手持ちのストックを散々煮詰めてかなり濃密なシロップにして紅茶に注ぎ込み、飲んだ。そして、まるっと一週間の記憶が消え、気づいたら、久々に再会した幼馴染、暁シズカとともにダンジョン学園の職員となっていた……。
暁シズカ。
レベル58。HP400。MP150。ジョブ、ソードマスター。
武器……タングステン製の刃渡り三尺の太刀(攻撃力370)。
装備……学園指定近接戦闘用スーツ第一種改(防御力240)。
技……居合い術『村雲』『東雲』。斬り技『燕返し』『稲妻上段』などなど。
雲野シゲル。
レベル2。HP17。MP0。ジョブ、ラリった用務員。
武器……道を歩いていたらもらった焼き肉チェーン『ブッチャーズ』のプラスチック団扇(攻撃力5)。
装備……魔界村からバイオハザードまでゲームに登場した全てのゾンビのコンセプトアートをプリントしたヴィンテージもののゾンビアロハ(防御力マイナス999。アロハにうるさいシゲルの秘蔵品。もしちょっとでもキズがついたら、ホントに死んでしまう)。
特殊装備……非常用キノコ・ティーが入った魔法瓶。
学園指定近接戦闘用スーツというのは体のラインが結構もろに出る良い感じの衣裳。目の保養とまではいかないが、まあ、気休めにはなる。
問題はゾンビアロハだ。このアロハを見ているだけで、ゲームに出てきたゾンビの歴史が手にとるように分かるという幻のアロハなのだ。スーパーの衣料品売り場で買ったフリーサイズのざっくりパナマ帽と相性抜群で、こんなダンジョン探索で着ていいものではない。今日こそヤクルト・レディのアドレスをゲットしてやると思って着たのだ。
とはいえ、もう後戻りはできない。ダンジョンの入口のすぐそこにはワープゾーンがあって、冒険者が行ったことのある階層までタダで飛ばしてくれる。
今、シゲルたちは地下十一階にいた。
そこは昭和四十年代のアーケード商店街がジャングルみたいに草まみれ蔓まみれになった感じのダンジョンだった。奇妙なことに地下十一階にもかかわらず、蔓と蔓のあいだや崩れた壁の隙間、頭上の枝葉の重なった天井からはヤコブの階段と呼ばれる神々しい光が斜めに差し込んでいる。ひょっとすると、キノコでトリップした頭にだけ知覚できる救いの光なのかもしれない。その光を浴びたアロハは無限の守りを手に入れ、永遠に傷つくことを知らない……。
シゲルがその光をゾンビアロハにまんべんなく浴びせているとき、シズカは立ち止まり、先に広がる闇へ一瞥くれると、静かに腰を拳ひとつ分だけ落とし、左手の親指で鯉口をくつろがせ、柄に右手を添えた。それが血みどろゲロゲロの戦いの合図だと本能で知っているシゲルは大急ぎで道の端に退くと、団扇をバタバタ鳴らしながら、「ハイ、砂肝一本ありがとうございやす」とがらがら声で無害な焼き鳥屋に変身することにした。
暗がりにぼんやりと白っぽいが現れた。それがジャングルと化した昭和の町並みに不釣合いな真白なテーブルクロスをしいたテーブルだと分かると、フワフワした声がきこえてきた。
「あら、暁先生。雲野さんも」
その声をきいて、シズカがフーッと安堵の息を吹き、構えを解いた。
「倉科先生。あなたでしたか」
倉科ミドリは紅茶カップを置いて、ニコニコ笑って答えた。
「一人じゃないなんて、珍しいですね、暁先生。それに雲野さんがダンジョンにいるので驚いてしまいました」
「ども、倉科センセ。相変わらずいいチチしてますね。農林水産大臣賞もらえちゃうかも――うぎゃ!」
シズカの鞘のこじりがシゲルの脇腹を強く突いた。
「今度やったら、学園のセクハラ・コンプライアンス会議にかける」
「あはは、相変わらずみたいですね。雲野さんは」
「清く、正しく、いやらしくがモットーなもんで」
フワフワした声に癒しを求めずにはいられない。『蜂蜜色のカーディガンが似合うふわふわ美人コンテスト』堂々一位の倉科先生は魔法科で召喚魔法を教えていた。倉科先生の召喚魔法講座は根強い人気を持つが、それはその召喚魔法が古代の邪神とか黄金の竜を召喚するのではなく、キャラメル・タルトとカモミール・ティーをアンティーク・テーブルと一緒に召喚できるからだ。倉科先生の授業を真面目に受けたパーティはダンジョンでちょっとしたティー・パーティを楽しめる。シゲルは倉科先生に最高にハイになれるキノコを召喚魔法で取り出せるかたずねたことがあるが、倉科先生曰く出せるキノコで一番いいものは傘がやや開きすぎた松茸でそれも一日に三本が限度だという。
「とってもおいしいシフォン・ケーキとマフィンが出てきたの。食べます?」
「はいはい。いただきます」
シゲルはシズカに制止されるよりも前に、素早くテーブルの席についた。シズカは先を急ぎたがっていたが、倉科先生ににっこり微笑まれたら断れない。ビリー・ホリデイも『君微笑めば』で歌っている通り、倉科先生が微笑めば世界中が倉科先生と微笑む。
「倉科先生」とシズカ。「槙田たちのパーティを見かけませんでしたか?」
「槙田くんたちのパーティ? うーん、見かけてないですね。でも、さっき野見さんたちのパーティを見ました。駅の向こう側です。あの子たちにきいてみたらどうでしょう?」
「そうしてみます。雲野。行くぞ」
「え? でも、まだブルーベリー・マフィン食べてない」
「いいから来い!」
『カジノ』のロバート・デ・ニーロのようにブルーベリー・マフィンに執着しながら、未練たらたらに蒸気機関車の操車場を横切った。中央の回転台の上には蒸気機関車を使った天然フラワーアレンジメントがどっしり乗っかっていて、やばいキノコを服用していないのに、どぎつい色彩の乱れ打ちがシゲルの視神経へと攻撃を開始した。操車場の半分は頑丈な樹木でがんじがらめになっていて、そこを越えた先には学生たちが経験値稼ぎに使っている駅舎があった。
野見恭子たちのパーティはプラットホームにいて、ちょうど小鬼の群れを倒し終えたところだった。ダンジョンでは倒した敵はドロンと消える。シゲルはその際に出る紫の煙にトリップ効果があるのではないかと常日頃疑っていた。
このパーティは物理攻撃に偏重していて、五人のうち四人が剣士や闘士のような肉体労働万歳ジョブで、最後の一人はニンジャだった。教師たちはもうちょっとバランスを考えたらどうかと何度かアドバイスしたが、ブルドーザーのごとく敵を蹂躙しぺんぺん草一本残さないというのがパーティの信条だったので、パーティがバランスを少しでも魔法使いのほうに振り分ける気配は絶無といってよかった。
「ぺんぺん草一本残さないって言ったって、そこらじゅう草だらけじゃん」シゲルが言った。「さっき操車場を通ったけど、相変わらず樹ばっか。吸ってもラリれない草ばっか。ゾンビアロハが汚れないようにするのにすんごい神経使ったよ」
「ぺんぺん草はあくまでたとえばの話っす」砂鉄入りのグローブをはめた野見恭子が答えた。
シズカがシゲルをどかしてたずねた。
「お前たち、槙田たちのパーティを見なかったか?」
五人が五人、どうだったか思い出そうとしている。が、地下十一階にはいろんなパーティがいて、その印象がコーヒーに垂らしたミルクのように渦を巻き、宇宙のナゾのように回想に対して結界を張ろうとする。
そもそも物理攻撃に偏重したパーティというのはそんなに記憶力は良くない。期末テストで決まって赤点を取る。円周率を三・一四でなく三で教えられた手合いだ。先生たちがパーティメンバーを組みなおせというのは、魔法使いを入れれば、少しは成績が上がるのではないかという期待を込めているのだ。
シゲルは助け舟を出すことにした。
「じゃあさ、十二階に下る階段付近で経験値かお宝稼ぎしてるやつらが誰だか分かる? もしなんだったら、ほら、プロテイン飲んでみなよ。頭シャッキリするかも」脳みそまで筋肉でできているパーティにとって、プロテインはトリップキノコなのだという誤解がシゲルに深く根づいていた。
「あっ、大丈夫。それならプロテインなしでも分かるっす。関島たちのパーティがずっと頑張ってたっす」
「へー、関島か。あそこも偏ったパーティだよなあ」
呪術士とアサシンばかりを集めた関島のパーティは地下のスナックの入口を模した下り階段のそばで小鬼を倒して周囲を探索し、また小鬼を倒すのルーチンを淡々とこなしていた。
「槙田たちのパーティを見なかったか?」
黒っぽい服。フードをかぶり、ぼそぼそした声で言うには、自分たちがここで経験値稼ぎを始める少し前に槙田たちは降りていったという。
「でも、今は十二階に降りないほうがいいです」黒服のみなさんがささやくような声でアドバイス。「何かおかしいんです」
そう言いながら、パーティ・リーダーの関島が取り出したのはダンジョンで拾えるマミヤフレックスCという六×六判二眼レフカメラ。いや、これにはさらにもう一つレンズがついているから正確には三眼レフということになる。一つはファインダー用のビューレンズ、一つは撮影用として、三つ目のレンズはなんだろう? レトログッズ・ブローカーとしての記憶をフル回転させるがマミヤ光機が三眼レフカメラを出したという話をきいたことがない。
「それで十二階への階段を覗いて見てください」
そういわれ、シゲルとシズカはカメラの上から覗いてみた。場末のスナックを植物を使って五十年間痛めつけたような下り階段が見える。関島がツマミを一ついじくると、ファインダーから第三のレンズへ切り換わり――、
どひゃあ!
シゲルは思わず叫んだ。時空の歪み? 手の込んだイタズラ? キノコのやりすぎで脳みそがついに末期症状をむかえたのか? そこに見えたのはウィザードリィ以来、受け継がれてきた〈本物〉のダンジョンへの入口だった。冷たく黒光りした石に縁取られたアーチのなかへ下り階段が右へカーブしている。入口の左右には決して消えることのない松明がガーゴイルの形に切り出した受け台に据えられていて、それが冷たく濡れた石に不吉な赤黒いギラギラを投げかける。このダンジョンに何かヤバいものが巣食っていることはアインシュタインでなくても分かる。
「だから、ぼくら、ここで他のパーティに今日は十二階に降りないほうがいいって教えているんです」
関島がそう言った。
「わかった。すまないが、もう少しここで他のパーティに忠告をしておいてくれ。わたしたちは下に降りて、槙田たちを探しに行く」
「オレ、死んだじいちゃんと約束しててさ。マジなダンジョンの下り階段は絶対に降りないって、じいちゃんの手を握って約束したんよ。じいちゃん、オレがそう約束すると泣いてくれてさ。やっぱり死んじゃった人との約束は大切にするべきだよね。崇り怖いし」
いや。こっちを睨みつける暁シズカのほうが百倍怖い。ひょっとすると、本物のダンジョンよりも怖いかも。
スナックへつながるはずの階段のコンクリート部分がだんだん切り出した石にとってかわられ、小さなランタンが壁からぶら下がり、第三のレンズで見たあの本物の雰囲気に足どころか体全体を突っ込んだくらいになったとき、暁シズカが唐突に言った。
「なぜ、もっと真面目に生きない?」
「真面目に生きてるよ。真面目にふざけてる」
シゲルは自分が二十九の無精鬚を生やしたおっさんであることも忘れて、片目をパチンと閉じて、茶目っ気たっぷりに舌をちょろっと出してみたが、シズカはクスリともしない。
「お前には立派な人間になれる素質があった」
「え? なにそれ? まるでオレの葬式みたいじゃん。弔辞? 勘弁してよ、センセ。ただでさえヤバいダンジョンへ行こうっていうのにさ」
「藤堂先生はお前には素質があると言っていたんだぞ」
うわ、思い出したくない記憶が4K画質で甦る。小学二年のころ、既にキノコでこっそりハイになるために猫背になり始めていたシゲルは、暁シズカの勧めというか命令というか脅迫というか、とにかくいろいろあって藤堂道場で居合いと礼儀作法を習わされたことがあった。あれはフルメタル・ジャケットのリメイクで日々の暮らしの辛さが増した分だけ、キノコの服用量も増えた。あのトラウマものの一年間を記憶から消去するため、粉末コーラやフライドポテトのシーズニングを鼻から吸ってみたし、キノコもかなり強いやつをやったが、どれだけ頭をクルクルパーにしても、地獄の居合い道場での出来事はシゲルの最も深いところに刻み込まれ、決して消えようとはしなかった。
「やろうと思えばできるのだ。国立の薬科大にだって現役で合格できただろう?」
「入試の前後二週間の記憶がないんだよね。もう、入試なんてどうでもいいや、って思って、とっておきのキノコをドクター・ペッパーで飲み下したら、すっかりラリっちゃってさ。なんか試験会場のあった教室の大型暖房装置がおれに答えをささやいてくれた気がして、そいつの言うとおりに書いたら、おれ合格してたんだよ」
「野見から関島たちのことを聞き出して、この手がかりをつかんだのはお前だ」
「つまり、オレ、自分で自分の首を絞めるどころか圧力釜に飛び込んで、こんがりフライにされたってこと? いえーい、オレ、最高にバカじゃん」
「そうやって自分を卑下して楽しいか?」
「今日はやけに絡むねえ。センセ。でも、オレなんかの心配するより、槙田たちの心配したほうがいいんじゃない? だって、このダンジョン、力尽きたらモモンジャが外に蹴り出してくれるようなアフター・ケアは期待できないしさ」
「わかってる」
十二階のダンジョンは真っ黒な石と壁から突き出した松明が続いた迷路でカビ臭く、湿っぽく、ちんまりかわいらしいキノコも生えていた。
「ひょ、ひょっとして、これってマジックマッシュルーム?」
「行くぞ、時間を無駄にできない」
「でも、これを使えば、チカン……じゃなくて時間の壁を越えられるんだけど」
円柱に支えられた廊下やら広間やらをうろうろしていると、スコップの形をした学園の校章バッジが落ちていた。あと他に落ちていたものは典型的なダンジョンのモンスター、ぶった切られたゴブリンの死骸とオーガの死骸。これが二匹ずつ。こっちのダンジョンは死がリアルらしく、いつもの昭和なダンジョンみたいに倒した敵がどろんと消えたりしない。血みどろゲロゲロのままだ。ゴブリンのものと思われる棍棒にはギザギザした刃が埋め込まれていて、先端には肉食恐竜の鉤爪みたいなものがくっついている。人種差別に燃えるバイカー・ギャング団が被差別対象を殴るのに使いそうな危険な武器を見て、シゲルはタダイマ・トリュフを呑み込んで、地上へ帰りたくなった。
が、その肝心のトリュフはシズカの腰のポーチのなかにある。指紋認証式だからポーチをひったくっても、シゲルにはどうしようもない。シゲルに開けられるのはクレジットカードを隙間に差し込んで、ドアノブを叩けば開く程度のドアに過ぎない。
しかし、槙田たちもとんでもない面倒に巻き込まれたものだ。十一階で経験値を稼いで、十二階でアイテムの材料でも稼ぐつもりだったのが、とんだことになったと思っているはずだ。だが、槙田たちを探しにここまで降りてきたシゲルはもっと深刻なトラブルにはまり込んでいる。武器と言えば、コックの格好をした牛が自分の仲間をぶっつぶしてカルビやロースを切り分けている図柄の団扇だけ。それに――、
「伏せろ!」
突然、そう言われたのだが、そう言ったのはシズカか、それとも自分の脳みそのなかで育ちつつある肉体乗っ取りキノコの仕業か。とにかく、本能はゾンビアロハを汚さないよう注意して屈むことを体に命じた。屈んでちょうど一秒後にシズカの抜き放った刀が丸くなってしゃがんでいるシゲルの頭上をほんの数センチで跳び過ぎていき、空飛ぶ一つ目の化け物――アーリマンだっけ?――を目玉ごと横にスライスした。
シゲルとシズカは十字路の真ん中にいて、前後左右からぎゃあぎゃあわめくゴブリンが群れでやってきていた。ゴブリンといっても肌は紫とか緑ではなく、褐色の毛が生えていて厚手の布の簡単な服に骨や牙の首飾りをして、ナイトキャップに似た三角錐の布帽子をかぶっていた。だからといって、その手に握られた凶悪な武器の数々を見過ごすことはできない。
こういうときは現実逃避に限る。複数持ち歩いているミニ水筒のなかでも、グレード5のキノコ茶を水筒から直飲みにした。すると、体が軽くなって、口も軽くなってきて、驚いたことに上機嫌にまでなってきたではないか。
「あのさ、オレ、大学のとき、キノコとアルコールを併用してすげー気持ち悪くなったことがあってさ」
シゲルがこう話しているあいだにもシズカは分厚いナタでかかってきたゴブリンを一刀のもと斬り捨てている。
「それでね、駅前にストリート・ミュージシャンがいて、ギターケースを開けてるわけよ。小銭とか入っててさ、そこにヘドぶちまけたら、すげー怒ってさ」
四方八方を跳び回るようにしてゴブリンを斬って斬って斬りまくるシズカが叫んだ。「その話、今じゃないとダメか!」
「それでさ、オレ、怒り狂ったミュージシャンたちの追跡を振り切るのに女子便所に逃げ込んだんだ。きゃあ、エッチとか言われるかなと思ったけど、誰もいなかったんだよねえ。チェッ、ラッキースケベはなしかよ。だから、この状態も女子便所を使えば、万事解決。ね、タメになったでしょ?」
三十分の死闘の末、ゴブリンは三十ほどの骸を残して、東西南北来た道を逃げ去っていった。シズカは肩で息をしている。シゲルは奇跡に眼をパチクリしている。あれだけ血みどろゲロゲロなことが起きたのに、ゾンビアロハにはキズもシミもない。
「こいつぁいいや。ゴキゲン」
次の瞬間、シズカのアイアンクローがシゲルの顔面に見事に決まった。
「今度、わたしが戦っているときに女子便所うんぬんの話をしたら、脳みそ握りつぶす。それをそのキノコで舞い上がった頭にしっかり言い聞かせろ」
「はいはいはいはいはい! だから、手ぇ離して!」
それからシゲルは顔面のパーツがぐぐっと押されて中央に集まったような錯覚に襲われながら、シズカとともにダンジョンを歩いた。ダンジョンのモンスターにはモンスターなりの掟があるらしく、それはジャングルのゴリラの掟に似ている。一人でゴブリン三十匹斬りをやってのけたシズカにボスゴリラの地位が与えられた。シゲルはその寄生虫といったところ。ともあれ、ゴブリンは遠巻きに見ているだけで襲いかかるまでにはなかなかの勇気をいる状況に追い込まれた。
十二階をくまなく探して槙田たちがいないとなると、階段でさらに下に降りていく。
モンスターに襲われシズカが斬り捨て、シゲルはゾンビアロハをゴブリンやアーリマンの返り血から守るべく、見えない自分を相手に一人バスケットボールをしているかのごとくシャカシャカ動きまくり、地下十七階まで降りたところでようやく槙田たちのパーティを見つけた。
翼が生え、口から火を吐く大きなドラゴンのおまけつきで。
天井が見えないくらい高い大きな部屋はドラゴンが獲物を存分にいじめるためにつくられたに違いない。
槙田、柏、仁山、粕谷、保阪の五人は大怪我こそしていなかったものの、満身創痍でHPもMPも尽きかけで、これがFFならリセットして、物理で殴り殺せるくらいまでレベルを上げてリターンマッチを仕掛けるところだが、現実はそうはいかない。特にタダイマ・トリュフのないパーティには――、
「タダイマ・トリュフなら」とジョブ魔法剣士の槙田が言った。「ありますよ。ほら」
「あれ?」
「タダでくれたじゃないですか」
キノコの短所はときどき記憶がごっそり抜け落ちるところだ。そして、いま思い出した。ある日、用務員室前にタダイマ・トリュフがどっさり置かれていて、それを片っぱしから煎じ薬にして配ったことを。
つまり、この本物のダンジョンではタダイマ・トリュフの効果が打ち消されている。
つまり、シゲルたちは目の前のドラゴンを倒さないといけない。
シズカはもう覚悟を決めて、ドラゴンと生徒たちのあいだに身を置くと、鞘を放り捨て不退転の覚悟。
一方、シゲルはダンジョンに入ってからここに至るまでに不吉な死の星である〈死亡フラグ〉を自分が立てていないか、キノコの靄でかすんだ頭に命じて確かめさせた。オレ、この戦いが終わったら結婚するんだ、とか、ここはオレに任せろ、すぐに行く!とか言ってないかな?
「ここはわたしに任せて、生徒を避難させろ!」
おおっと、シズカが死亡フラグを立てた。
「え? でも、センセ。そいつ相手に勝てる?」
「少し時間を稼いだらすぐに行く!」
もう一本立った。でも、殺しても死なないようなシズカだし、本人がああ言っているのだから、お言葉に甘えよう。
すたこらさっさ。
十七階から十六階、十六階から十五階と生徒五人と一緒に上がっていく。ドラゴンの恐ろしげな咆哮がガンガン響いてくるので、ザコモンスターたちは尻尾を股にくるりと巻き込んで、モンスター専用の避難場所へ逃げている。そこはラウンジになっていて、騒ぎが収まるまで、グレープフルーツマルガリータなんて飲んじゃって、ゴブリン♂とゴブリン♀がカウンターの端と端から見つめあって、いい感じになっちゃって、子どもなんかこさえたりして――。
「雲野さん! 着きました!」
ハッと気づくと、そこは昭和レトロ風のダンジョンの地下十一階で関島たちの闇色パーティが突然の闖入者に眼を白黒させているところだった。生きて帰れると分かって泣き出す生徒も出るくらい。
シゲルは全身に張っていた緊張の糸が緩むのを感じた。タダイマ・キノコを使って、地上に戻り、大急ぎで用務員室に戻れば、ポワロは見過ごしても、そのあとのCSIは見られる。そのあとは学園の敷地で野生の大麻を探して散策するなり何なり好きにすればいい。
「槙田」と、シゲル。「お前はパーティの連中を連れて、タダイマ・トリュフで戻れ。戻って、地下十二階には降りてはいけないことを全職員に伝えて、生徒たちにも徹底させろ。関島たちはすまないけど、ここでもう少し見張りを頼む。やばくなったら逃げろ」
「いいですけど、でも、雲野さんは?」
「十七階にもう一度降りる。大丈夫、すぐに戻るさ」
うわ! シゲルは心のなかで叫んだ。オレってば死亡フラグ立ててる!
十七階に戻る途中、モンスターに出会わずに済んだので、ダンジョンの各階には避難モンスター用の快適なカクテル・ラウンジがあるという仮定が事実としてかたまりつつあった。それが脳みその左半分が考えていることで、右半分はお前バカか! 死ぬぞ! 戻れ、戻れ!と絶叫していた。
右半分の脳みその言っていることが正しいのは間違いない。それでも十七階に戻ったとき――ドラゴンが倒れているシズカを消し炭にする前にやってこれたときには自分の馬鹿げたドン・キホーテ的な勇気に感謝した。シゲルは自分のなかではオレはサンチョ・パンサな男なのだと思っていた。自分以外の全世界というドン・キホーテについていき、そんなに難しくない素朴な格言で自分と世界がはまりかけているドツボを的確に表現しつつ、最後まで付き合ってやる。
ところが今じゃオレがドン・キホーテ。
「おい、そこのトカゲ野郎!」
炎を吐く直前、ドラゴンの動きが止まり、その縦に裂けた瞳がシゲルを睨みつけた。
トカゲ野郎ではなく、ドラゴンさんと呼びかけるべきだったかなと少し後悔しているあいだ、ドラゴンはバーベキューの優先順位を組み変えて、シゲルから焼くべく、体の向きを変えたが、その大きな爪の生えた足が動くたびにドシンドシンと震度6ばりの縦揺れがして、見えない暗闇の天井から漆喰カスのようなものがパラパラと落ちてくる。
ここは『レオン』のスタンスフィールド捜査官のごとく、一言「シット」とセリフをキメて迫り来る炎に飲み込まれることにしよう。おお、思ったより簡単に死を受容できた。もっと泣きじゃくって命乞いしたり、ウンコ漏らしたりするかと思ったが、いいぞ、オレ。すっげー落ち着いてる! これも日ごろのキノコ摂取の賜物か。
キノコ。
そうだ。魔法瓶に非常用キノコ・ティーが入っていた。
ドラゴンの口に溜まっている炎が牙のあいだから抜け出て、上唇を覆っている鱗を焦がしているのを見ながら、シゲルは自分の死に水を取るつもりでキノコ・ティーを飲んだ。どうやってつくったのか、中身が何なのか分からないときに使うスペシャル・トリッピーというくくりの味がして、まだこんなに温かい。最初の一口の飲み込んで三秒も経たないうちに、たぶん人生最後になる片道のトリップが始まった。
天国というのはダンジョンとそう変わらない、ジメジメした暗い石の部屋でできているらしい。仰向けになったままシゲルはがっかりした。もっと、こう、浴びただけでハイになれる光に満ち溢れていると思っていたのだ。
「それにしても、迎えはまだかな? こうして死んできてやったんだから、なるべく美人の天使をお迎えに寄こしてほしいものだ。ガイコツの死神とかじゃなくて」
ブツブツ文句を言っていると、
「シゲル! お前はすごいぞ!」
と大声で話しかけられ、肩をつかまれると、上半身が引っぱり上げられ、がくがく揺すられた。その拍子にいつの間にか握っていたシズカの刀がシゲルの手から落ちた。
「やはり藤堂先生は正しかったな。あの剣技、本当に本当にすごかった!」
熱っぽい声の出元とシゲルの肩をしっかりつかんでいる手が暁シズカであると知るのに十八秒かかった。頭にもやがかかっていて、少し気持ち悪くもあったし、そもそもシズカが自分のことをシゲルと呼ぶことはウン十万年ぶりだったし、何よりもこの雲野シゲルを暁シズカが褒め称えるなど、絶対にありえないことなのだ。
そのことにシズカ自身も気づいて、ハッとして肩をつかんでいた手を離したので、シゲルは危うくそのまま倒れそうになるところだった。
「ま、まあ、あのくらい、わたしだけでも何とかなった。お前が来てくれなくても――でも、その、なんだ――嬉しかったぞ」
あれ? これってデレ? 二十年越しのツンデレ成立?
だが、それを深く考えることはできなかった。横を見ると、目の前にはドラゴンの巨大な首が転がっていたからだ。
胴体のほうの切り口は部屋の反対側を向いて、クランベリージュースみたいに血をドバドバ噴出している。
何だか、体がベトベトして――、
「ぎゃああ! なんじゃ、こりゃあ!」
ヴィンテージゾンビアロハが竜の返り血でどす黒くなっているのを見るなり、シゲルはそう叫んで、卒倒した。
ダンジョンから生還し、その日の夕方には眼が覚めたが、それでもシゲルの記憶はそこから先、二週間ほどが消えてなくなった。とっておきのキノコをやったせいもあったし、もう二度とゾンビアロハに袖を通すことができないという現実から逃避しようとする生存本能の采配もあったのだろう。タダイマ・トリュフを配るだけのルーチンワークで日々が過ぎていった。
記憶がしゃっきりしたその日の昼休み、槙田たちがわざわざ礼を言いにきた。というのも、礼は助けてもらって、すぐに言ったのだが、シゲルは完全にパーになっていて覚えていないだろうから、目が覚めた瞬間を狙って、礼を言いにきたのだという。
「それと、ごめんなさい。雲野さんの宝物、台無しにしちゃって」
「へーき、へーき」と言うシゲルの額に汗がドッと流れた。トラウマはまだ克服できていない。
入れ代わりに今度はシズカがやってきた。実技授業を終えたばかりらしく、肌が赤らんで見えた。アマゾンドットコムの箱を手にしていて、それを渡してきた。
「大切にしていたアロハを台無しにさせた詫びだ。開けてみてくれ」
「ほいほい。でも、みんな大袈裟だなあ。たかがアロハ一枚にオレがそんなにやられるほどヤワに見える?」
「手が震えているぞ。大丈夫か?」
「え? あ、これ。最新式のエクササイズ」
箱のなかには……なんと! タバスコアロハだ! 『ソプラノズ』でジェイムズ・ギャンドルフィーニがストリップクラブ〈バダ・ビン〉の事務室でぐうたらするとき必ず着ているアロハマニア垂涎のヴィンテージ! しかも、ホンモノ! これを着たジェイムズ・ギャンドルフィーニの写真とサインがしてある。早速袖を通してみると、予想通りブカブカ。だが、これは最高なアロハだ。
「マジで嬉しいよ。夢みたいだ。オレ、まさかトリップしてないよね。これ、ちゃんと現実だよね? ありがと、シズカ!」
「別に礼を言われるようなことではない。それと……シズカと呼ぶな。恥ずかしい」
と、言いながら、シズカは少し眼をそらした。
「貸し借りをゼロにしたかっただけだ。お前を喜ばせようと思ったわけではない」
わっ! シズカがデレた! 二十年越しのデレ期到来?
あれ? デジャヴ? こんなこと前にも言われた気がする?
そうだ、キノコで霞がかかった記憶を手繰り寄せると、確かにドラゴンを倒した直後にも、こんなふうなことがあった。
いや、ひょっとすると、高校のときも、中学のときも、幼稚園に通いだす前にもこんなことがあったのかもしれない。キノコのやりすぎで忘れただけかもしれない。
ということは、暁シズカはずっと昔からきちんとツンデレ幼馴染をやってきていたのかも?
なんだかシゲルはシズカに賠償金を払わないといけない気がしてきた。
だから、
「まあさ、オレもここの職員なわけで、生徒が無事であることにはやっぱり責任感じたよ。もし、オレに出来ることがあったら、何でも言ってちょ」
と、言ったのが、まずかった。
「そうか。じゃあ、ダンジョンに潜る。ついてこい」
「え? なんで?」
「この二週間、政府と学園で調査をした結果、この学園のダンジョンにはああした本物のダンジョンにつながる歪みがあることが分かった。それを見つけ次第、調査するためのパーティをつくることになった。現在のところ、メンバーはわたしとお前だけだ。だから、来い」
「あっ、無理! だって、オレ、レベル2だし。ジョブなんかラリッた用務員だもん」
「お前のジョブは竜騎士に変更になった」
「はぁ? なにそれ!」
「ドラゴンを倒して返り血を浴びたとき、少し口のなかに入っただろう? 倒したドラゴンの血を飲んだものはその力を得ることができる。血液検査などの結果、お前の現在のジョブは竜騎士と呼ぶべき状態であることが分かった。これは特殊な固定ジョブだから変更はできない。分かったらついてこい」
「でもさ、おれ、これからワイドショー見て、芸能人の三角関係で頭のなかぐちゃぐちゃにしなくちゃいけないしさ。だから――」
「いいから来い!」
「いーやーだー!」
シゲルは両脚をつかまれて引きずられるようにしてダンジョンへと連れて行かれた。
〈了〉