理想(ユメ)と現実(ウツツ)
時刻は夕方。空が茜色から暗くなろうとしている頃。本来なら俺は家へと帰って夕飯の準備をしているはずだった。しかし俺は今、自宅ではなく普段はあまりお世話になるような場所ではない場所にいた。
若干、座り心地の悪いソファに腰掛けため息を吐く俺に一人の男性が話しかけてきた。
「悪いね、良君。君にまで迷惑かけちゃって」
そう言ってその男性、国持信行さんは苦笑いを浮かべた。信行さんは以前『俺達』がお世話になった人で、警部の階級を持つ優秀な刑事さんだ。俺はというと、そんな信行さんの職場である多神ヶ原警察署の廊下で『ある人物』が来るのを待っている最中である。
「それで天野は?」
「照美ちゃんなら簡単な事情聴取を受けているところだよ。一応彼女は被害者だからね」
「何があったんですか?」
俺が待っている相手、天野照美が警察署にいると信行さんから連絡があったのだ。天野とは前回、とある出来事があって以来深く関わることになったのだが、まさか警察に厄介になるなんて夢にも思わなかった。信行さんから「彼女を迎えに来てやってほしい」と言われ何故か迎えに行くことになったのだが、詳しい経緯を聞いていなかったので尋ねることにした。
「最近、書店や図書館で痴漢被害が出ていたんだけど。その犯人を照美ちゃんが捕まえたんだ」
凄い大捕り物だったよと笑う信行さんの話はこうだ。
天野はほぼ日課となりつつある書店へと足を運び何を買おうか吟味していた。そんな天野の隣に一人の男性が立ち、目の前の棚にあった本を取って読み始めたのだそうだ。歳は四十代後半。中年太りが目立つ男性の足元には大きな荷物鞄があったが特に気にすることなく天野は同じように本を手に取り目を通していた。しかし、しばらくしてお尻のあたりに違和感を感じて視線を向けると、その男の手がピッタリと自分のお尻を触っているではないか。天野が眼光鋭く睨みつけても相手は素知らぬ顔で、むしろ自分は本を読んでいるだけだと言わんばかり態度で本に目を通している。頭にはきたが余計な揉め事は避けたかった天野は場所を移動して再び本を読んでいたのだが、しばらくすると再び男が隣に立ち同じように天野のお尻を触り始めたのだそうだ。勿論、手には目の前の棚から取った本を開いており視線はその本へと注がれている。自分は本を読んでいるだけ。悪い事は何一つしていないと思わせるように視線を動かし、しかしその手は撫でるように天野のお尻を触り続けていた。コイツは確信犯だと判断した天野は一計を案じた。というか、トラップをしかけたのだ。
天野は再びその場からとある書籍棚へと移動し本を読み始めた。案の定、男も天野の側へとやって来て本棚から一冊の本を取り出し目を通し始めた。否、それはあくまでポーズであって本の内容なんて頭には入ってはいないだろう。適当な本を読むふりをして痴漢行為をするのが男の常套手段なのだろう。それこそが天野の狙いだとも気付かずに。
しばらくして男の手がお尻を触り始めた次の瞬間、天野はその手を掴み大声で叫んだ。
「この人痴漢です!誰か来て下さい!」
突然の事に驚く男を他所に、天野の声で書店の店員並びに数人の客が何事かと集まり始め、その人達に天野は今までされたことを正直に話した。周りからの非難の目に対し男は「これは誤解だ」「自分はこの本を読んでいただけだ」と持っている本を見せ自身の潔白を訴えた。おそらく今までもそうやって危機的状況を乗り切ってきたのだろう。
しかし、今回はいつもとは状況が異なった。男の訴えに対し「嘘を吐くな!」と周りにいた全員が一斉にツッコミを入れたのだ。思惑が外れて困惑する男。そんな男に天野が更なる追い打ちをかけた。
「そんなの嘘です!だってその人の持っている本は――」
一呼吸を置いて天野は声を高らかに言い放った。
「BL本よ――っ!!!」
夕方の書店に天野の澄んだ声が響き渡った。
「まあその後に男の鞄から盗撮用のカメラも発見されたからお縄には出来たんだけどね」
そう言って信行さんは何とも表現しにくい表情を浮かべていた。その気持ちはわかります。
「犯人にとって最も屈辱的な捕まえ方をしたってところが、いかにも天野らしいですね」
そんな話を聴いて俺もリアクションに困った。確かに言い逃れは出来ないだろうけど、なんちゅう痴漢撃退法だ。いくら知らなかったからと言ってもBL本の書籍棚まで痴漢行為をしに行った犯人も大概だが。
「そう思うかい?照美ちゃんも今は、少しだけど丸くなったんだけどね」
そうなのか?信行さんの言葉に俺は首を傾げたくなった。と言っても天野との付き合いが短いので反論するに足る材料を持たないのが今の俺の現状なのだが。何も言えずにいる俺に信行さんが鞄と紙袋をそっと置いた。
「照美ちゃんの荷物、君が預かっていてくれないかな?僕はまだやり残した仕事があるんだ」
こっちの返事を待たずに信行さんは踵を返して行ってしまった。残された俺の視線は天野の荷物に注がれた。
鞄の中身を見るつもりはない。彼女のプライベートを見るのは失礼だ。しかし紙袋の方はどうだ。中身はおそらく大量の本であろう。天野のプライベートとはいえ中身を見ても許される範囲であろう。そもそも何故俺が天野を迎えに行かなければならなかったのかも謎だ。夕方の時間を潰された穴埋めは必要だ。ここには俺しかいない。天野がいつ戻って来るかも不明だ。見るなら今だ。俺は紙袋に手を伸ばし、その中身を覗き込もうとしたときだった。
「ちょっと、ツカサ。アンタなにやってんのよ!」
突如聞こえてきた声と共に人影が視界に割り込んできた。そこには一人の女子高生の姿があった。長くストレートな黒髪に白く透き通った素肌。加えてすれ違ったら必ず振り向くであろう美貌を携えたその姿は間違いなく俺が待っていた相手そのものだった。
「あっ、天野!?」
突然の事で驚いたが、どうやら事情聴取を終えた天野が俺の手から紙袋をひったくったようだ。天野は紙袋を抱きしめながら眼光鋭く俺を睨みつけてきた。
「なに勝手に人の荷物を漁ってるのよ、この変態!馬鹿!サイテー!!」
清楚な見た目からはかけ離れた罵詈雑言を言い放つ天野。ここには俺達以外は誰もいないので普段の猫かぶりモードではなく素の性格が丸出しになっているようだ。
「悪かったって。どんな本を買ったのか気になっただけだよ」
「そんなのアンタには関係ないでしょ!女の子のプライバシー侵害すんじゃないわよ!」
非はこっちにあるので謝罪をしたが、天野の怒りは収まる様子が無い。いや、怒っているというよりも焦っているように見える。何か見られたら困る本でも買ったのか?
その時だった。ひったくった際に敗れたのだろう。天野の腕の中から袋に入っていた本が数冊地面に落ちた。
「「あっ・・・」」
同時に声を上げた俺達の目に『ローズ・ヒップ』と書かれたタイトルと共に二人の男が半裸で抱き合っている表紙が飛び込んできた。これはいわゆるBL本と呼ばれる類の本ではなかろうか。しかもシリーズ物らしく、同じような表紙が数冊見受けられる。
沈黙の中、見ると天野の頬が次第に赤みがかってきていた。成程。これを見られたくなかったからあんなに焦っていたのか。
「ちっ、違うの!これは違うのよ!」
まだ何も言ってないのに天野が必至な形相で言い訳を始めた。
「あの痴漢をおびき寄せる時に読んでたら意外と面白かったから・・・続きが気になって・・・シリーズになってるから全部買っただけで・・・別に普段からこういうのを買っている訳じゃないし・・・ハマったとかじゃないから!」
必死に言い訳をしながら縮こまる天野。成程な。読んでてハマったわけだな。別にBL本を買ったからって特にからかうつもりなんてなかったのだが、こうして言い訳をする天野がちょっと可愛いと思ってしまった。信行さんが言っていた『丸くなった』というのはこういう事なのかもしれない。微笑ましく思い小さく噴き出していると、天野が恨めしそうに睨みつけてきた。
「何がおかしいのよ!良いじゃない。私がこういう本を読んだって!」
「悪かったって。そう怒んなよ。ちなみにこれって何巻まで出てるんだよ?ていうか、どんな話なんだ?」
天野をなだめつつ気になったことを訊いてみると、途端に天野の目が輝きだした。
「敵対する二つの国の王子、アルグレイとダージリの愛の逃避行を描いた感動巨編よ。この二人がバラの花びらが舞う闘技場で出会うシーンが超感動的だったのよ!まさか好きになった相手が敵国の王子だなんて、この時の二人は知らなくて・・・もう、切ないったらありゃしなかったわ!ちなみに全部で一九巻まで出ていて、第二〇巻は今年の八月に発売される予定よ!」
さっきまでとは打って変わって力説する天野に俺は若干引いてしまった。なんだ、そのいろいろとツッコミどころ満載な内容は。ていうか、無駄に超大作だな。しかもそこまでチェック済なのかよ。相当ハマってんじゃねえかよ、オイ!
「それでね、お互いが敵国の王子だって気付いて二人は国を捨てる決断をするんだけど、その時に協力してくれた二人の執事が王子達を逃がすために命を落としちゃうのよ。その二人が死に際に王子達に愛の告白をするシーンは泣きそうになったわ!」
別に聞いてもいないのに、さらに話に熱がこもっていく天野。いろいろな意味でややこしくなっていく本の内容もさることながら、天野の目が洒落では済まない程に真剣になっていくその姿に恐怖すら感じていた時だった。
「キャ――――――――――ッ!!!」
突然、建物内に響き渡る程に大きな悲鳴が聞こえてきた。なんだろうと思っていた矢先、目の前の天野の表情が一瞬で変わり、すぐさま飛び出すように駆けていった。呆然と見ていた俺も我に返りその後を追いながら天野に尋ねた。
「何やってんだよ!」
「ちょっとした野次馬心よ。アンタは気にならないの?」
走りながら目の色を変える天野に俺は呆れながらもその背中を追いかけた。確かに気にならないと言えば嘘になる。悲鳴が聞こえてきたのは廊下を曲がった先。そこで何かが起きたのだろう。俺達がその地点を曲がった次の瞬間、全身に得体のしれない感覚が駆け巡った。
息が苦しい。それに全身を這い回るなんとも言えないこの気分の悪い感覚・・・これは――
「どうしたの、ツカサ?急に止まって」
いつの間にか足を止めていた俺に天野が振り返った。
「いや・・・なんていうか・・・この先、変な感じがしないか?」
今のこの感覚を説明しにくいので上手く言葉に出来ずにいると、天野が怪訝な表情を見せた。
「はあ?いきなり何言ってんの?」
「お前には分かんないのか?この気配が!」
反論する今の俺には全身にまとわりつくこの気配の気持ち悪さがはっきりと伝わっていた。俺の訴えに天野の表情がさっきまでとは打って変わり、何かを探るような目つきへと変わっていった。
少しして、天野の目が驚くように見開いた。
「確かに『なにか』がいるわね。それにしてもアンタよく気付いたわね、こんな弱々しい気配」
「そうなのか?俺にははっきりと分かるんだけどな」
そう言った天野の言葉に俺は首を傾げるしかなかった。天野にとっては弱いものでも俺にとってははっきりと感じる気配なのだからしょうがないじゃないか。
「まあ、いいわ。急ぎましょう」
ここで立ち止まっていても仕方がないので、天野に促され俺は悲鳴があったと思しき部屋へと足を踏み入れた。そこには信行さんを含む数人の男女がいた。
まず目に入ったのは。床にへたり込んでいる女性――おそらく彼女が悲鳴を上げた人物であろう。そしてそれを取り囲むように数名の警察官。つまりこの部屋には俺と天野以外は全員警察関係者ということになる。
「いっ・・・居たの、あそこに。日江井君が!」
血の気の引いた顔で女性が俺達のいる部屋の入り口を指さしながら叫んだ。
「また日江井が!?でもアイツは・・・」
女性の言葉に周囲は怪訝な顔でお互い見合わせている。なんだろう、この雰囲気は。
「何してるんだ、二人とも。ここは関係者以外は立ち入り禁止だよ。早く帰りなさい」
様子を眺めていた俺達に気付いて信行さんが声をかけてきた。まあこの状況では完全に俺達は部外者だから当然の行動だろう。信行さんに追い出された俺達は再び廊下へと戻された。
「ここまでみたいだな、天野。そろそろ帰ろうぜ」
これ以上、俺達がいても邪魔になるだけだ。そう天野に言ったのだが、なぜか天野はその場を動こうとはしなかった。
「何言ってんのよ。まだこれからじゃない」
「何がこれからだよ。後は警察に任せればいいだろう?」
ここは警察署で信行さんをはじめとする刑事やその関係者がいるのだし何も問題はないはずだ。しかし天野は意外なことを口にした。
「『ただの警察』には無理よ。この事件は完全に私の領分よ!」
「えっ、それって・・・」
それはつまり、今現在起こっている出来事は幽霊の仕業ということだろうか。俺の考えを読んだかのように天野が「十中八九間違いないわ」と答えた。
「さらに言えば、今回の騒動はさっき言ってた日江井って人の仕業よ。あの場にいた人達の口ぶりだと、その人はもうこの世にはいないわ」
確かにそうかもしれない。ただの同僚ならその場にいただけであれだけ取り乱す事なんてないはずだし、すでに死んでいることを匂わせる発言もあった。そうと分かれば俺のすべきことはただ一つだ。
「よし分かった。せいぜい頑張れよ。俺は帰って夕飯の準備をしておくからよ」
そう言って俺は踵を返した。産まれつき幽霊に憑かれやすい特異体質持ちの俺がいても邪魔なだけだろう。こういう専門的なことは文字通り専門家がやるべき事だし、邪魔者はとっとと退散するべきだ。
しかし帰ろうとする俺の襟首はなぜか天野に掴まれてしまった。
「何言ってんのよ。アンタも手伝うのよ」
「はあ?なんで!?」
何故俺が。抗議する俺に臆することなく天野が説明し始めた。
「アンタが感じた弱い気配はその日江井って人のものである可能性が高い。私じゃ探知出来ない以上、それが出来るアンタの協力が必要不可欠よ」
あんまりな言い分に俺は絶句した。なんだその理屈は。いくらなんでも勝手すぎる!
「ふざけるな!なんで俺が――」
天野に抗議しようとしたその時だった。再びさっき感じた嫌な気配がしたのだ。しかもそれはすごい速さで強くなってきている。これは・・・こっちに近づいている!
「危ない、天野!」
咄嗟に俺は天野を庇うように廊下の端へと追いやった。その背後でさっきの気配が通り過ぎていくのを感じた。どうやら危険は去っていったようだ。
「大丈夫か、天野?」
「ええ。どうやら通り過ぎただけのようね」
俺に押された天野も事情を正しく理解したようで、抗議の声を上げなかった。
「この警察署内をうろついているみたいだな。天野は何も感じなか――」
ムニっと掌に何か柔らかな感触がした。掌に収まりきらないこのボリューム。そして柔らかく弾力もあるこの感触。なんだろう・・・凄く嫌な予感がする。恐る恐る視線を向けると、俺の右手が天野の左胸を思いっきり鷲掴みしている光景が広がった。どうやら天野を庇った際に触ってしまったようだ。
「いや、違うんだ。これは――」
弁解をしようとした次の瞬間、ドスっと鈍い音と共に天野の拳が俺の鳩尾へと炸裂した。
「グエっ!」
呻き声と共に俺は腹を抑えて蹲った。
「ねえ、ツカサ」
そんな俺の頭上から天野の声が聞こえてきた。
「このまま痴漢の現行犯で警察に突き出されるか、喜んで私の手伝いをするか好きな方を選んでほしいんだけど。もっとも、どっちを選ぶのがアンタにとって得なのか、考えるまでも無いとは思うけど」
そう言って天野はニッコリと微笑んだ。その姿だけを見ればとても魅力的な光景だろう。しかし今の俺の目には悪魔の微笑にしか見えなかった。なんて女だ。完全に脅迫じゃねぇか!
しかしこっちに落ち度がある以上、俺の選択肢は一つしか無かった。
警察署内の廊下。そこを二人で歩きながら俺はため息を吐いた。もう何度目だろうか。
「辛気臭い顔するんじゃないわよ。私の胸を揉んだのにお咎め無しにしてあげたのよ。感謝してほしいところよ」
それをネタに脅迫されたんですけど。鳩尾殴られたんですけど。お咎め有ったと思うんですけど。喉元にある不満を寸での所で飲み込んだ。多分、今の俺は自分でも情けない表情をしていると思う。そんな俺を横目に天野はジト目で俺を睨みつけてきた。
「まったく、そういう猥褻行為は吉田にしてあげなさいよ。あの子だったら喜んで触らせてくれるわよ。あっ、でもあの子の貧相な胸じゃ触り甲斐はないわね」
「何でそこで祥子の名前が出てくるんだよ?そんな事するかよ!ていうか、さり気にアイツの胸のことディスってんじゃねえよ。アイツ自分の胸がまな板だって気にしてんだから」
当人が聞いたら怒り出しそうなことを言う天野に即座にツッコミを入れた。いくら祥子と仲が悪くても言って良い事と悪い事がある。ましてやそれが本人が一番気にしている胸の事なら尚更だ。たとえそれがどうしようもない程に残酷な現実だとしてもだ。
「アンタが一番吉田の事をディスっているように聞こえるんだけど。ていうか、アンタ達って本当に何もないわけ?キスも?」
尚もしつこく聞いてくる天野に「ねえよ!」と答えた。確かに祥子は天野とは違った魅力があるだろう。しかし友人としての付き合いが長いせいか『そういった』関係になるという想像が出来ないというのが本音である。
俺の返答に対して天野は意味深な笑みを浮かべながら顔を寄せてきた。
「なるほど。つまり、アンタにとっては『あれ』がファーストキスだったわけね」
そう言ってフッと息を吹きかけられ俺はビクッとした。見ると、天野は悪戯っぽく笑みを浮かべながらこっちを見ている。そんな仕草すら絵になる程に天野は美人なのだ。ていうか、お前だって当事者だろうが。『あれ』は完全に事故のようなものだが、俺と天野は間違いなくキスをしたという事実だけはしっかりと残っている。
「ああ、そうだよ。悪かったな!その様子だと、天野は気にして無いようで安心したけどな」
あの時はかなり取り乱していたが、こうして人をからかえるようになったという事はつまりそういう事なのだろう。俺の反論に天野は一瞬ビクッとしたがすぐさま「そうね」と返事した。そして何やら小声でブツブツと言い始めたが、俺にはその声は聞こえなかった。
「あんな事されて平気な女がいる訳ないでしょ、このバカ。まあ、朴念仁だから吉田の気持ちにも気づいてないんでしょうけど」
なぜか不機嫌な様子の天野だったが、すぐさまいつもの調子に戻って俺に尋ねてきた。
「そんな事より、どうなのよ。日江井さんを見つけるにはアンタだけが頼りなんだからね!」
「そんな事言われたって、向こうが速すぎて探すのが難しいんだよ」
どういう訳か俺にはその日江井さんの気配が分かるらしく、こうして探し回っているのだが、肝心の本人の動きが速くて捜索は思いのほか難攻していた。勿論、天野も気配を探してはいるのだが俺と同じで収穫はゼロのようだった。
「ホント、残像でも見えそうな位すばしっこいわね。早く除霊しないと地縛霊って厄介なのよね」
「地縛霊?」
天野の発言に首を捻る俺。それに気づいた天野がすぐさま説明してくれた。
「特定の場所から離れられない霊を地縛霊って言うんだけど、何かの理由で死んだ人の魂がその場所に憑いてしまってその場所でいろんな怪奇現象を引き起こすのよ。自殺の名所とか何故か交通事故が多発する場所ってあるでしょ?あれってそこで死んだ地縛霊が引き起こしている場合があるのよ」
「それって、いずれはこの警察署も自殺の名所とかになったするのか?」
天野の口からさらりと物騒な話が出て、俺は身震いした。
「その人が死んだ理由にもよるからなんとも言えないけど、日江井さんがこの警察署に憑いているのは間違いないわ。早く見つけて手をつけないと、いずれそうなる可能性はあるわね」
その口調から事態が急を要するのだと分かった。
その時だった。背後からまたしても日江井さんの気配が近づいてきたのだ。しかもさっきよりも速いスピードでだ。天野はまだ彼の存在には気づいていない。しかしこのままではぶつかってしまう!俺が声をかけようとした次の瞬間、
「二人とも危ない!」
突然聞こえてきた声と共に俺と天野は何者かに腕を掴まれ壁際へと引き寄せられてしまった。その背後で日江井さんの気配が通り過ぎていくのを感じながら俺は腕を掴んだ相手と対面した。
「信行さん!」
そこには信行さんの姿があった。まあ、ここは警察署だから当たり前なのだが。
「二人ともこんなところで何をしているんだい?もう帰ったとばかり思っていたんだけど」
小さくため息を吐きながら信行さんは苦笑した。
「二人とも、もう遅い。早く帰りなさい」
「そんな事より、一つ聞いてもいいですか?」
突然、天野が割って入ってきた。そしてその口から意外な言葉が飛び出してきた。
「信行さん。あなた、霊が見えていますよね?そうでなければ、さっき私達を助けることは出来ませんでしたから」
俺は驚きの視線を信行さんに向けた。確かにさっきの行動は日江井さんの姿が見えていなければ出来ないことだ。
「あれ、言ってなかったっけ?」
そんな俺達を前に信行さんの返答はあっさりとしたものだった。その態度に俺は勿論、天野もあっけにとられた。
「うん、見えてるよ。さらに言えば、以前、阿澄君に憑いていた女子高生の霊も見えていたし、捕まえた犯人に憑いていた女子高生も見えていたね」
淡々と語る信行さんに天野が「なっ!?」と声を上げた。天野が何を思っているのか。何を言いたいのかは直ぐに分かった。しかし、
「言っておくけど、『なぜ何もしなかったのか』って質問はなしだよ?」
信行さんは先回りをするように天野の言葉を遮った。こちらの考えはお見通しだったようだ。
「僕は見える『だけ』の人間だ。照美ちゃん達のような特別な力を持っている訳じゃない。僕にだって出来ないことはあるよ。君達にも出来ない事があるようにね」
続けざまに出てきた言葉に天野は完全に出鼻をくじかれてしまった。その様子を見ながら俺は妙に納得してしまった。確かに俺だって見えるだけの人間だ。出来る事なんてたかが知れている。むしろ天野と比べたら出来ないことの方が多いくらいだ。信行さんの言い分は正論で反論できないものだった。
「それで、君達は日江井君の事を解決するつもりなのかい?当事者としてはありがたい事なんだけどね」
もうこの話は終わりだと言わんばかりに話題を変える信行さんを前に、天野は不満を押し殺すように「そのつもりです」と答えた。
「分かった。じゃあ、僕から君へ正式に依頼するよ。日江井君を除霊してくれ。報酬は後払いでいいかな?」
コクリと頷く天野とニッコリと微笑む信行さん。二人の間で何かしらの契約が結ばれた瞬間だった。天野はクルリと回れ右をして俺を見つめた。
「さあて、依頼されたからには本腰入れないとね。ツカサ、頼むわよ。事件解決の鍵はアンタの働き次第よ!」
結局、最後は俺かよ!不平不満はおおいにあるが、そんな事を言っても無駄なので俺は無言で頷くしかなかった。
「・・・それで。本当に『ここ』で間違いないのね?」
そう言って、目の前の扉を見つめながら天野は不機嫌そうに尋ねてきた。
「間違いない。日江井さんの気配はここから来ている」
「しかし驚いたね。まさか阿澄君にこんな特技があるなんて」
頷く俺と感心する信行さんを前に天野の不機嫌オーラが更に濃くなった。
「何でよりにもよって『ここ』なのよ!」
そう言って天野は目の前の扉―――男子トイレを指さしながら叫んだ。日江井さんの気配を追っていた俺達は遂に彼をここまで追い詰めたのだ。それがたまたま男子トイレだっただけなのだ。天野は男子トイレの扉を前に一向に動く様子がない。入りたくない気持ちは分かる。
「でも確かに気配はここから来ているし・・・」
「彼の除霊には照美ちゃんの協力が必要不可欠だから・・・」
俺と信行さんの視線に天野の拳がプルプルと震えだす。そんな天野に信行さんから更なる追い打ちがかけられた。
「照美ちゃんもプロなんだから報酬を貰う以上、文句を言える立場じゃないでしょ?」
その言葉に天野が俯き肩を震わせた。
「ア―――――――ッ、もう!分かったわよ!行けば良いんでしょ。行けば!」
そう叫んだ天野は扉を開け放ちドカドカと入っていった。
扉の向こうは言わずと知れた男子トイレだ。俺と信行さんはともかくこの中に天野がいるというのがなんとも・・・いや、やめておこう。
「ちょっと、いないじゃない!こんな屈辱を味合わせておきながら『実は嘘でした』なんてことはないわよね?もし、そうだとしたら・・・」
目の前の天野の背中から不穏な気配が立ち昇ってきている。このままでは俺の身が危ないので祈る気持ちで気配を探ると、ある場所から日江井さんの気配が強く感じられた。
「あそこにいる。あの個室の中だ!」
そう言って個室トイレの扉を指さすと、二人が同じように視線を向けた。
「あそこにいるのね。さっさと終わらせるわよ!」
「あの個室は・・・」
信行さんが何かを言おうとする中、天野が勢いよく個室トイレの戸を開けた。そこには半透明だが一人の男性の姿があった。年齢は二十代だろうか。警官の制服を着ており便座に腰掛けた状態で頭を抱えていた。
「違う・・・違う・・・こんなはずじゃなかったんだ・・・・・」
そう呟きながら頭を左右に振っており、そのはずみで彼のこめかみ辺りが俺達の目に飛び込んできた。
「えっ・・・!」
「やっぱりね・・・」
驚く俺とひとり納得する天野。彼のこめかみは赤黒く変色しており奇妙な形で陥没していたのだ。彼の身に一体何があったのか。なぜ死んだのか。その理由がすぐに分かった。
「日江井さんの死因は自殺ですね?」
天野の言葉に信行さんが小さく頷いた。そして事の詳細を話し始めた。
「日江井君とはそれほど面識はなかったんだけど、彼を一言で言えば正義感の強い人間だったよ。警察を正義の味方だと信じて疑わない、理想の高い人間だったんだ。だけど世の中はそんなに甘いものじゃない。この仕事だって汚れていると言える部分だってある。彼は現実を目の当たりにして、それに絶望してしまったんだ。そして自ら拳銃で・・・」
そう言って信行さんは顔を伏せた。
「正義感の強い人間ほど、この仕事には向かない。勿論、理想を高く持つことは悪いと言っているわけじゃないし正義感は持つべきものだ。でもそれと同じくらい現実もちゃんと見ないといけないんだ。彼はそれが出来なかったんだ」
そう呟く信行さんがどんな表情をしているのかは俺のいる位置からは見えなかった。信行さんが今なにを考えているのかも分からない。
「照美ちゃん、今すぐ彼を祓ってくれ。僕にはここで働く人達を守る事しか出来ない」
信行さんの懇願に天野が静かに頷いた。天野は一歩前へ進むと左手の人差し指と中指を伸ばして縦と横に複数回交互に腕を振った。
「救急如律令!」
天野が叫ぶと目の前にいた日江井さんの姿が次第に薄れていき最後は完全に消えてしまった。気配を探っても何も感じられない。完全にこの場から消え去ってしまったのだ。
「除霊完了っと。ここに戻ってこれないようにお札を貼っておきますね。ツカサ、手伝って」
そう言って天野は懐から数枚の呪符を取り出した。これが天野が霊能力者の仕事をする時に使うアイテムで、俺は何度かそれを見ている。俺は天野に言われるがまま部屋の四方のなるべく目立たない所に呪符を貼りつけた。
こうしてこの警察署で起きていた怪事件は解決したのだった。
すっかり辺りも暗くなった道を俺と天野は並んで歩いていた。
「今日の夕飯はどうする?」
隣を歩く天野に尋ねる。最近では天野が俺の家で夕飯を食べてから自分の家に帰る事がすっかり日常になっている。
「もう遅いし遠慮しておく・・・・・こんな時間に食べたら太るし」
最後の方は聞き取れなかったが天野がやんわりと断った。それで俺達の間での会話は無くなってしまった。
沈黙の中、俺はさっき信行さんがコッソリ教えてくれた言葉を思い出していた。
「本当は僕の息子に迎えに来てもらうつもりだったんだけど、照美ちゃんが君に迎えに来て欲しいって言ったんだ」
俺がなぜ天野を迎えに警察署まで呼び出されたのか。その理由を信行さんが教えてくれた。そして彼はこうも言った。
「照美ちゃんとは妻を通じて知り合って、一週間くらい家で暮らしてた事があるんだ。誰かに頼る事をあまりしない子でね、僕は引き留めたんだけど『これ以上はお世話になるのは申し訳ないって』一人暮らしを始めちゃったんだ」
なんでも信行さんの奥さんは霊能力者である天野の上司の立場にいる人なのだそうだ。以前から天野と信行さんの関係が気になってはいたが、そういう繋がりがあったというわけだ。
「なんでも自分一人で解決しようとするきらいがあって、どうにも危なっかしくてね。まあ、彼女の生い立ちを考えると無理からぬ話なんだろうけど、妻も心配しててね」
詳しい事は知らないが天野も俺と同じで子供の頃に両親を亡くしている。信行さんとその奥さんはそんな天野の事を常に気にかけているようだった。
「そんな照美ちゃんが君には少なからず心を許している。とても良い事だけど保護者としては複雑な気分だね」
どうにも掴み所のない人だが、少なくともその言葉に嘘偽りはないと思った。
「彼女の事、よろしく頼むよ。あっ、でも君達の仲が親密になったら、僕が焚きつけたってことで恨まれちゃうのかな?」
最後の言葉の意味は分からなかったが、俺は天野の事を託されたのだと分かった。
とは言われても、俺に何が出来るのだろうか・・・
「ねえ、ツカサ!ちょっと聞いてんの?」
考え事をしていた俺に天野が声をかけてきた。どうやらずっと俺の事を呼んでいたらしい。
「ああ、悪い。なんだよ、天野?」
「なんだよじゃ無いわよ。ちょっとアンタに相談したい事があるの」
不機嫌そうに話す天野の言葉に俺は驚いた。
天野が俺に相談?何かのドッキリじゃないだろうか。動揺する俺に天野の口からさらに驚く発言が飛び出した。
「ねえ、ツカサ。アンタ、私の仕事を手伝う気はない?」
成り行きから照美の仕事を手伝うことになった良。一体、どんな怪事件が彼に待ち受けるのだろうか?