変わる日常
白井は祥子の強姦未遂ならびに殺人未遂で駆けつけた警察に現行犯逮捕され、その数日後に香津子さんの殺害でも再逮捕された。白井はさらに多くの女性を襲っていたと白状したらしく、警察はさらなる余罪があるとみて現在捜査中とテレビで知ることとなった。
白井に襲われた祥子はその日入院することになったが翌日には無事に退院することが出来た。
俺と天野はというと、信行さんから事情聴取という形で「無茶をするな!」と説教を食らうこととなったのは内緒である。
「なあ、天野。少し休まないか?」
先を行く天野に提案したが返ってきた言葉はおおかた予想通りのものだった。
「何よ。もうへばったの?情けない」
そう言って天野は肩にかかった鞄を持ち直しながらさらに歩調を速めた。
どこまで俺の肉体を酷使するつもりだ、この女は。両脇に荷物を抱えながらなんとか天野に追いすがる。
香津子さんの事件も無事解決し共同生活も終了したのだが、その後に思わぬ重労働が待ち受けていた。祥子は自分の荷物を持って家に帰ってくれたのだが、天野は自分の荷物の他に大量の本を部屋に残しており、俺は休日にその本の山を天野の家まで運ぶ羽目になってしまったのだ。俺に負い目があることをいい事に、天野は一向に手伝いもせず現在、本の運搬を三往復も繰り返している有様だ。
「なあ、天野。俺が悪かった。いい加減、機嫌直せよ」
「イヤ。ひとのファーストキス奪っておいて、この程度で許せる訳ないじゃない。それにツカサには私に貸しがあったでしょ?」
もう何度目になるか分からないほどの謝罪をしているのだが、図書室での一件も持ち出し天野は一向に許してくれる様子がない。いろんな意味での疲れで溜息が重いものになってくる。
「俺も香津子さんがあんな事するなんて思わなかったんだよ」
我ながら情けないが言い訳を口にする。まさか告白してキスまでされるなんて予想できなかったのだ。そんな俺を天野がジロリと睨んできた。
「あの子の気持ちに気付かなかったツカサが悪い!アンタ自身が無自覚だから、なおのことタチが悪いし」
「そんなこと言われても・・・」
情けない話だが、今までモテた事が無いので返答に困ると言うのが本音だ。天野はそんな俺の言葉など聞こえないといった様子で歩き続けている。そんな天野の背中を追いがら俺はポツリと呟いた。
「初めて告られたけど、返事が出来なかったなぁ・・・」
突然の事に動揺し、俺が返事を返す間もなく香津子さんは成仏してしまった。俺はそのことがどうしても気がかりだった。
しかし、そんな俺に「いいんじゃない」と天野が声をかけてきた。
「アンタからの返事なんて最初から聞くつもりは無かったと思うわよ?そうじゃ無ければ成仏なんてしてなかったと思うし」
「どういう事だよ?」
天野の後ろを歩きながら尋ねると、視線を前に向けたまま話し始めた。
「明海さんにとって重要だったのは『恋をすること』そのものだったのよ。それが彼女の『夢』だったんでしょ?」
素敵な恋がしたい・・・それが成仏する直前に俺が聞いた香津子さんの夢だった。
「彼女はこの数日の間にアンタの事を好きになった。その気持ちをどうしても伝えたいと思うようになり最後に想いを伝えた。そこで満足して成仏したのよ。最初から返事なんていらなかったのよ。もしかしたら、犯人を捕まえる事よりもそっちの方が彼女の未練だったのかもね」
そういうものなのだろうか。しかし想いを告げて彼女が成仏した事実がある以上、そうなのだろうと納得するしかないだろう。ひとまずこの件は解決したと判断して良さそうだ。
「でもさ、まさか香津子さんが柔道の実力者だったとは思わなかったよ」
香津子さんの事で気になったことがもう一つあったので口にしてみた。天野の機嫌が幾分か良くなったので、完全に話題を逸らそうという考えもあったのだが。
「そう?私はすぐに気付いたわよ」
天野の返事に俺は面食らった。思わず「なんで?」と返してしまった。
「だってアンタが乗っ取られた時、背後にいた私の気配にすぐ気付いたじゃない。武道の心得があるってすぐに分かったわ。あと姿勢や動作が宇梶君によく似ていたし」
なるほど言われてみればそうかもしれない。俺が台所にいた時だって、香津子さんは背後に誰が来たのかすぐに言い当てていたし、思い返してみれば宇梶と雰囲気がよく似ていた。
「もし彼女が助けてくれなかったら、はっきり言って危なかったわ」
饒舌に語る天野を見ながら俺は密かに安堵した。どうやら上手く話題を逸らすことが出来たようだ。他にも気になることがあるし、もう少し話題を振っても良いかもしれないな。
「まさか白井先生が犯人だなんて思わなかったよ。俺はてっきり菅原先生が犯人だと思っていたし」
そんな俺に天野は呆れた様子で溜息をついた。
「菅原先生じゃ明海さんを絞殺するのは無理よ。あの背丈じゃ背後から首にネクタイを掛けるのは難しいんじゃないかしら。運動も苦手そうだし」
確かに彼の背丈では高身長で柔道の実力者である香津子さんの首にネクタイをかけるのは難しそうだ。体育教師だった白井みたいに運動が出来れば別だけど。「それに」と言って天野はさらに言葉を続けた。
「吉田が言っていたじゃない。あの子が許可を取った先生って菅原先生だったんでしょ?」
そうなのだ。祥子が校舎に入れたのは菅原先生が許可を出してくれたからなのだ。祥子は菅原先生に香津子さんの友人だと名乗り、亡くなった彼女の学び舎を見学したいと言って多神西の校舎に入らせてもらったのだそうだ。菅原先生は笑顔で許可してくれたらしい。
さらに天野の口から彼が女子更衣室前をうろついていた理由も明らかになった。
「実は多神西校で盗撮の被害が多発していたらしいのよ。菅原先生、生徒を守るために見回りをしていたらしいわ。もしかしたら白井の事を疑っていたのかもね」
天野の推理は当たっているだろう。あの時、菅原先生は白井に敵意の視線を向けていたし疑うような素振りも見せていた。きっと間違いないだろう。真面目で生徒想いの良い先生なのだろう。疑ったりして申し訳ないと思った。
「まあ、私は最初から白井が怪しいとは思っていたけどね」
「そうなのか?俺は生徒想いの先生だと思っていたけど」
天野の言葉に俺は驚いた。最初見た時、白井は怪我をした女子生徒を保健室まで運んでいたし、心配して肩を貸してもいた。まさか犯人だなんて思いもしなかった。
しかし天野はそんな俺に「甘いわね」と言って得意げに胸を張った。
「あの男、必要以上に女子生徒と密着しようとしていたし、偶然を装ってお尻を触ろうとしていたのよ。それに私の事を舐めるように見ていたからね。いやらしいったらありゃしない!」
そう言って天野は憤慨した。思い返して見ればその通りなのかもしれない。俺の目には親身になって生徒を思いやる先生に見えていたが、天野の目には不必要に女子生徒の身体を触る変態教師に見えていたのだ。女性ならではの着眼点だ。
「スゴイな天野。全然気づかなかったよ」
「そんな事無いわよ」
予想に反して落ち着いた声で返事をしながら天野は俺の手から本の入った袋を一つ取り上げた。どうやら手伝ってくれるらしい。
「謙遜するなって。香津子さんも成仏できたんだし、天野のおかげで救われたんだから」
「そうね、確かに明海さん『だけ』は救えたわね。『彼女』は救えなかったわ」
そう呟く天野の声は淡々としていた。その言葉に俺は言葉を詰まらせた。
白井が連行されていく時、その背中には幽霊少女がピッタリと張り付いて離れる様子がなかった。彼女は「許さない」と何度も何度も呟き続けていた。そのとき俺は彼女の口の端が歪んだ笑みを浮かべていたところを見た。この光景を俺は忘れることは出来ないだろう。
「なあ,天野。あの二人、これからどうなるんだ?」
「どうなるもなにも、あのままよ。彼女はアイツが死ぬまで離れるつもりなんて無いでしょうね。その後は分からないわ。満足して成仏してくれればいいけど、自我を失って彷徨い続けるってパターンも考えられるし」
俺の質問に天野は前を向いたまま答えた。絶句する俺を一瞥して天野が再び口を開く。
「自分の存在を捨ててでも晴らしたい恨みだったんでしょ。それだけ恨みの力は強いってことよ。あんたも見たでしょ、明海さんのご両親を?」
再び香津子さんの家を訪れた俺達をご両親は暖かく迎えてくれた。憔悴しきっていた二人が元気を取り戻したのは良かったと思う。しかし二人を見て何といえば良いか――根本的な部分が解決されてないような気がしてならなかった。ハッキリ言って、瞳に『闇』が渦巻いていると呼べるような暗い雰囲気を感じたのだ。二人は娘を殺した犯人を恨んでいたのだ。
「犯人を恨むのは当然でしょ。むしろ、あの二人にとっては良かったと思うわよ。恨みの感情が生きる糧になったってことよ。そもそも、人が殺された時点でハッピーエンドなんてある訳無いじゃない」
確かにそうかもしれない。しかし香津子さんはそんなことを望んではいなかった。しかしそれを彼らに伝える術は俺達には無い。彼女はもう『この世』にはいないのだ。そしてそんなことを言う天野の表情は俺のいる位置からはやはり読めそうもなかった。
「そうそう。アンタに言おうと思っていたんだけど、明海さんが殺された動機が分かったわ」
落ち込む俺に天野が意外なことを言い始めた。同時に俺は白井が言っていた言葉を思い出した。アイツは香津子さんが『脅してきた』と言っていたのだ。
「ずっと気になっていたのよね。明海さんが白井を脅すなんて考えられない。そもそも白井って明海さんのクラスの担当じゃないし、接点なんてほとんど無かったらしいのよ――不本意だけど、吉田から聞いたわ――。でも白井は警察にも彼女が『脅そうとしていた』ってほざいていたのよ」
確かにそうだ。生前の香津子さんは男性恐怖症で男とはまともに接することは出来なかったはずだ。
「だから考えられる可能性は一つ。あの男の『勘違い』って線ね」
勘違い?と首をかしげる俺に天野は驚愕なことを言い出した。
「幽霊少女だった彼女が襲われた現場に明海さんは偶然居合わせてしまった。当然、その現場には白井もいたはずよ。白井からしてみたら自分の事がバレたかもしれないって思ったでしょうね。勿論、白井はその事を確認しようとしたはずよ。でも明海さんは白井の事を避け続けた。本人は男性恐怖症だから避けただけなんだけど、白井は彼女が自分を避ける本当の理由を知らない。しかも自分が犯した犯罪は警察に露見していない。そんな状況で白井がたどり着いた結論は・・・もう分かるでしょ?」
「まさか・・・!」
なんてことだ。つまり白井はとんでもない勘違いをしてしまったことになる。香津子さんが自分を脅すと思い込んでしまったのだ。つまり彼女は自信のトラウマのせいで勘違いされたうえに殺されてしまったことになるではないか。そんなの、あまりにも理不尽すぎる。
「俺、香津子さんから男性恐怖症になった経緯を聞いたんだ・・・」
俺は以前に聞いた香津子さんのトラウマについて天野に話した。一通り聞いた天野は「なるほどね」と納得した。
「子供にとって親からの言葉って与える影響は大きいのよね。ご両親にとっては何気ない一言だったんだろうけど、明海さんにとってその言葉は『呪い』になってしまったのね」
呪い――的確な言葉だと思う。その言葉によって香津子さんは男性恐怖症になり、そのせいで白井に勘違いされて命を奪われてしまった。つまり香津子さんは・・・
「言っとくけど、明海さんが死んだのは白井のせいよ。その一点だけは変わらないわ。そもそも明海さんもご両親もこんな未来になるなんて思ってもいなかったんだし、タラレバの話をしてもしょうがないじゃない。一番悪いのは罪を犯した白井ただ一人よ」
そう呟いた天野の表情はやはり分からないが、今の言葉で頭に浮かんだ考えがどこかへ行ってしまった。ひょっとして天野は俺のことを励ましたのだろうか。俺が香津子さんの事で悪い考えを正してくれたのだろうか。多分そうだろう。今のが天野なりに『気を使った』つもりなのかもしれない。
「無理するなよ」と言いたかったが、その言葉を俺はすんでの所で飲み込んだ。言ったところで悪態交じりでとぼけられるのがオチだと思ったからだ。
今回の一件で一番打ちひしがれているのは天野だと思ったのだ。最初は俺や香津子さんを救うために動いてくれた。その目的は果たされた。しかしそれ以外――幽霊少女や香津子さんの両親――は救えなかった。おそらく天野は全員救いたかったのだろう。しかしそれは叶わなかった。天野の背中を見て俺はそう感じたのだ。俺に表情を見せないように歩いているのは、そういう事なのではないだろうか。
しかしそれは思い上がりだ。俺にはない能力を持っているからって、出来る事には限りがある。全員を救うなんて出来はしない。そもそも幽霊少女は自分の意志でああなったのだし、香津子さんの両親だって心情を考えれば当然の結末になったともいえる。天野の悔しさは、はっきり言って筋違いだ。それでも天野は気になってしまうのだろう。そんな彼女に俺は何が出来るのだろうか・・・そんなことを考えている内に俺達はいつの間にか天野のマンションに辿り着いていた。
「これで全部ね」
部屋の前まで本を持っていくと天野はありがとうと言って荷物を受け取った。その背後の廊下にいくつもの本が平積みにされているのが見える。どんだけ本好きなんだよ。
「なにはともあれ、ありがとうな天野。じゃあな」
「あっ。待って、ツカサ!」
帰ろうとした矢先、天野に呼び止められ俺は振り返った。天野は肩にかけた鞄から何かを取り出すと、それを俺の前に差し出した。
「一日遅れたけど、これ。誕生日プレゼント」
天野の手にあったのは綺麗にラッピングされたプレゼントと思しき包みだった。包みを受け取ってから俺は思わず「えっ?」と漏らしてしまった。
「何で俺の誕生日知ってんだよ、お前?」
俺の誕生日を知っているのは伯父さん夫婦と祥子の家族だけで、天野には教えた覚えがないはずだ。そんな俺を前に天野の口から意外な言葉が出てきた。
「多神西に行った時、叔父さんからメールが来たでしょ?その内容と、あとは吉田の部屋にあったツカサへのプレゼントを見てね」
多神西に潜入した時にもらったメールは叔父さんからの誕生日を祝うためのお誘いのメールだったのだ。どうやらそれを天野に見られていたらしい。それと、祥子が白井に捕まった時にあいつの部屋にはすでにプレゼントが用意されていたのだろう。
俺が昨日もらったそれには「ハッピーバースデイ、リョウちゃん」の文字と共に俺の誕生日が書かれたメッセージカードが添えられてもいた。祥子の髪の毛を探しているときに偶然それを見たのだろう。
「どうだった?吉田からプレゼントをもらって、何か進展はあったの?」
そう言ってイタズラっぽく笑みを浮かべる天野。
「どうも何も、昨日は普通にプレゼントをもらっただけだぞ?まあ俺を驚かそうと思って大分前から真剣に選んでくれてたみたいだけどな」
昨日祥子から呼び出された俺はプレゼントとして神社のお守りと何故か嬉子さんお手製のお赤飯と一緒にエプロンをもらった。どうやら今まで帰りが遅かったのは俺に内緒でプレゼントを選んでくれていたらしい。その気持ちが素直に嬉しかった。そんな俺の返答に天野はひどくつまらなそうだった。
「うわっ・・・なんて言うか、吉田も難儀よねぇ」
そう言って天野に遠い眼を向けられた俺はなんて言えばいいのか分からなかった。
「まあ何はともあれ、これでアンタ達との共同生活も本当に終わったのよね」
その言葉を聞いた瞬間、胸にチクリとした痛みが走る。そんな俺の目の前で天野が「じゃあね」と言って扉を閉めようとしたその時だった。
「天野、待ってくれ!」
気付いた時、俺は扉に手をかけ叫んでいた。目の前で天野が驚いた様子で「どうしたの?」と小首をかしげている。正直な話、俺もなぜ天野を呼び止めたのか分からなかった。「えっと」と呟きながら俺は咄嗟に思いついた言葉を口にした。
「その・・・気が向いたらで良いからさ、また晩飯食いに来いよ・・・」
天野が目を見開いてこっちを見つめている。俺は何でこんな事を言ったのだろうか。疑問に思いながらも口は自然と動き、言葉を紡いでいった。
「なんて言うか、その・・・一人だと料理するのに張り合いが無いし、誰かと一緒だと賑やかで楽しいっつうか・・・」
事件が終わり天野達がいなくなってからというもの、何故か作る料理が簡単な物になり一人で食べても味気なくなった気がしていた。
心にぽっかりと穴が開いたような感覚・・・そうだ、これは寂しさなんだ。適当に言い訳をしながら「ああ、そうか」と納得した。なんだかんだ言いながら、俺はあの共同生活が楽しかったんだ。それが終わってしまって寂しいんだ。両親を亡くしてから俺は一人でも大丈夫、一人でも生きていけると思って生きてきた。叔父さんの家を出て一人暮らしを始めてから今までそれが当たり前だと思っていたけど、やっぱり一人は寂しい。それに今回の事で落ち込んでいるであろう天野を励ましたいと思ったのもある。はたしてこれが天野を励ますことになるのか微妙なところではあるが。
そんな想いを籠めた俺を前に天野はしばらく無言を貫いていたが、やがてこちらを探るように上目づかいに見つめながら口を開いた。
「ねえ、ツカサ。それって、もしかして私を口説いてるの?」
悪戯っぽく笑みを浮かべる天野を前に俺の顔がカッと熱くなった。確かに言われてみれば、そう聞こえなくもない発言だったと思う。
「ばっ、バカ野郎!何言ってんだよ。俺はそういう意味で言ったんじゃ無くて!」
「あ~あ・。私に浮気するなんて、吉田が可愛そう」
「なんで祥子が出てくるんだよ。そうじゃなくて!」
取り乱す俺をからかう天野。クソッ!なに動揺してんだ、俺!
「あのなぁ、天野。俺はただ――」
「なんてね・・・いいわよ」
ポツリと呟いた天野の言葉に俺は呆けたように「えっ?」と呟いた。見ると天野は横目でチラチラと俺の事を窺う素振りを見せていた。
「出来れば晩御飯だけじゃなくて、お弁当も作って欲しい・・・」
そう天野の口から言葉が漏れた。よく見ると、その頬に僅かに赤みが差していた。
「ここ最近、コンビニのお弁当が味気なくなっちゃったし、アンタの料理が食べられなくなるのもなんか惜しいし。食費はちゃんと払うから。だから・・・」
また作って。恥ずかしそうに天野がそう呟いた。もしかして天野も俺と同じ気持ちだったのだろうか。天野も両親を亡くしている身だ。俺は最初、コイツの事を『孤高』と評していた。いつも一人でいる事が多いが、やはりどこか寂しいと思っていたのかもしれない。そんな天野の心を推し図ることは出来ないが、とりあえず・・・
「ああ、いいぜ。腕に縒りを掛けてやるよ!」
俺の返事に天野の顔に安堵の色が浮かんだような気がした。最初見た『孤高』の姿をした転校生でも呪符を使う霊能力者でもない。何処にでもいる普通の女の子の姿がそこにはあった。
俺は天野からのプレゼントを取り出した。
「これ開けてみていいか?」
天野がどんなプレゼントを用意してくれたのか気になり尋ねると「いいわよ」と許可してくれた。お言葉に甘えてラッピングを丁寧に外すと一冊の小説が顔を出した。
「これって・・・」
「おすすめを教えてくれって言ってたでしょ?」
俺は思わず天野の顔を覗き込んだ。まさかあの時の会話を・・・?
「私、記憶力は良いのよ」
そう言って胸を張る天野に俺は思わず笑みがこぼれた。
背中を見るだけだった俺と天野との間を柔らかな春の風が吹き抜けていった。
数日後の昼休み、弁当を食べ終わった俺は鞄から一冊の小説を取り出しページをめくり始めた。ハードカバーの小説で手に持った感触はずっしりと重い。
「なんだ、良。小説なんか読んでどうしたんだ?」
俺の机までやって来た空人が怪訝な顔で俺を眺めている。俺はきりの良い所まで視線を走らせてから「まあ、ちょっとな」と言った。
その時、ちょうどタイミングを同じにして教室が僅かにざわつき始めた。俺達が教室の入り口に視線を向けると、最近になって『おなじみ』となった光景がそこにはあった。
「ヤッホー、ツカサ!進み具合の程はどうかしら?」
そこには俺に向かって小さく手を振る天野の姿があった。呼び捨てで呼ぶことで俺との親しさをアピールするように天野は教室中の視線などお構いなしにこっちまでやってくる。
共同生活を終えてからも食事を作るようになって数日。天野は昼休みになるとなぜかこっちの教室までやってくるようになり、しかも俺の事を「ツカサ」と呼び捨てで親しさをアピールするようになってきた。おかげで周囲からの視線は痛くなる一方で、宇梶達のマークもさらに厳しいものになってきている。
そんな事など気にも留めずに天野は肩越しに小説のページを覗き込んできた。俺と顔を並べて読書をする天野に周囲からどよめきの声が上がった。
「何よ、まだそこまでしか読んでないの?いい加減、早く感想を聞かせてよ」
不満そうに頬を膨らます天野に空人が「やあ」と声をかけた。
「もしかして良が読んでいる小説って、天野さんのプレゼントだったりして?」
探りを入れる空人に天野は戸惑う素振りも見せずに「そうよ」と答えた。
「この前、ツカサの誕生日に私がプレゼントした物なの。前にお世話になったお礼も兼ねてね」
その言葉に周囲からのどよめきがさらに増した。皆の視線がこちらに集中する中、天野を見ると形の良い唇でニヤリと笑みを浮かべている。コイツ、ワザとか!
俺は暇を見つけては小説を読んでいるのだが、なにしろ700ページにもわたる長編なため一向に終わりが見えてこない。にもかかわらず天野は感想を聞かせろとしつこく催促するため、仕方なく学校にまで持ってきたのだが、どうやら失敗だったようだ。
「ちょっと天野さん。リョウちゃんになんの用かなぁ?」
そんな俺達の所へ祥子が乱入してきた。祥子は天野相手に完全に敵意をむき出しにしており、教室が僅かな緊張感に包まれる。
「あら、私が用も無しに彼に会いに行っちゃいけないのかしら?」
対する天野も迎え撃つ気満々のようで、余裕の笑みを浮かべながら祥子に受けて立とうとしている。
オイ、やめろって!そんな想いを籠めて両者に視線を送るが二人は一向に睨み合いをやめようとはしない。教室中がそんな俺達三人の事を食い入るように見つめており、中でも空人は完全に面白がっている様子だった。視線で助けを求めるが、空人の返事は親指を立てたグッドの合図だけだった。テメェ、後で覚えてろよ!
「もしかして二人って付き合っているの?だったら私も遠慮させてもらうけど?」
開口一番、天野の言葉に周囲の視線が俺と祥子に向かう。その視線に祥子は顔を真っ赤に染めて「そ、それは・・・」と口籠る。
「いや、俺達は付き合ってる訳じゃないぞ」
「リョウちゃん!」
困っているようだったのでキッパリと否定をしたのに何故か祥子に睨まれてしまった。一応、助け船を出したつもりだったんだけどなぁ。
「ということは、私が彼に会いに行っても吉田さんにとやかく言われる筋合いじゃないわよねぇ?」
皆がいるため祥子の事をさん付けし、完全に猫かぶりモードで天野が追撃する。
「それとも、彼と話すにはあなたの許可がいるのかしら?『ただの幼馴染』で教室が同じクラスメートって『だけ』のあなたに?」
天野は当たり前の事を言っているのに、何故か祥子の顔が沈んでいっている。その様子に天野は勝ち誇ったかのようにニヤリと笑みを浮かべていた。その顔を俺にしか見えないようにしている辺り、とてもしたたかで腹黒い。なんて女だ。みんな騙されている!
「そんな事よりツカサ。早く感想を聞かせてくれない?あっ、吉田さんも一緒にどう?」
そう言って天野は勝利宣言を掲げ、祥子はほとんど何も言えずに撃沈した。
俺達のやり取りを見守っていたクラスの連中も勝負ありとみて思い思いの時間を過ごそうとし始めた時だった。
「何よ・・・」
俯いたままだった祥子の口からそんな声が漏れた次の瞬間、
「何よ!リョウちゃんとキスしたぐらいで恋人面しないでよね!」
教室が静寂に包まれた。
しかしそれも数秒後には阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
「なっ・・・なぁっ!!!」
「ちょ、祥子。お前、何言ってんだよ!あれは事故みたいなものだって何度も言ってるだろうが!」
もう何度目とも知らない説明をする俺に空人が「ちょっと待て」と間に入ってきた。
「今の話マジなのか!?てっきり吉田さんの勘違いだと思っていたけど・・・」
しまったと思ったがもう遅い。クラスメートの視線が一気に俺へと注がれ、教室がにわかに殺気立った。
慌てて事情を説明しようとしたが、射殺しかねない勢いの視線を前に俺は反論を封じられてしまった。こうなっては天野に事情を説明してもらうしかないのだが・・・
「なっ、なっ、なっ・・・!」
ダメだ!祥子が落とした爆弾が相当に予想外だったのだろう。さっきから天野は言葉らしい言葉を発していない。今の天野がマトモなことを言える状況ではない事は明らかだ。そうなる前に落ち着かせようとしたが間に合わなかった。
「なに誤解招くようなこと言ってんのよ!あれは私を無視して向こうが勝手に・・・こっちは完全に被害者よ!」
天野がやっとの想いで出した言葉は最悪だった。これじゃ俺が無理やり迫ったみたいになってんじゃねぇか。どっちが誤解を招いているんだよ!
教室の喧騒が一層激しさを増すなか、二人の言い合いはさらに続いた。
「なによキスくらい!私なんかリョウちゃんと、どどどっ同衾した事だってあるんだからね!」
「なんで状況をややこしくするようなことを言ってんだよ、お前は!それにあれはお前が勝手に潜りこんできただけだろうが!」
「でもリョウちゃんがお布団の中で私を抱いてくれたのは事実でしょ?」
「紛らわしい言い方をするなぁ!」
ツッコミを入れる俺を他所に、更なるカミングアウトに教室が再びざわつき始める。
「何よその程度。私なんかコイツに押し倒されて胸揉まれてるんだからね!しかも全裸まで見られてるし!いい?全裸よ、全裸!胸もアソコも全部!アンタみたいに胸に顔を埋められたりお尻揉まれたりとは訳が違うのよ!」
「お前も張り合うな!これじゃ、俺が見境なしの変態野郎になってんじゃないか!」
ふたりを相手に訂正が追い付かないなか、祥子が声を張り上げた。
「見られたんじゃなくて見せたようなものじゃない!バスタオル姿でリョウちゃんに抱きついている所、私ちゃんと見ているんだから!」
細かな状況説明するんじゃない!とんでもない状況が出来上がっているじゃないか!
「あんな黒っぽくてテカテカしたグロテスクなモノが目の前でビクビクしてるところ見せられたらビックリして抱きつきたくもなるわよ!言っておくけど、アイツすっごく大きかったんだからね!」
お前はちゃんと状況を説明しろ。卑猥な状況に聞こえるじゃないか!さらにとんでもない状況が追加されたじゃないか.こんなのR指定だよ!
二人の言い争いはさらに続いているが、もはやそれどころでは無かった。俺に向けられる視線が洒落では済まなくなってきている。まるで汚い物でも見るかのような女子の視線と、嫉妬に狂い死にしそうな男子の視線・・・特に後者はもはや殺意のレベルに到達しようとしていた。
「お前・・・なんて言うか、スゴイな」
空人がドン引きした様子で呟いたのが聞こえたが返事を返せる状況ではない。
「は・・・はは・・・は・・・・・」
ここまで追い詰められると人間は笑う事しか出来なくなるらしい。
そんな俺の肩を誰かがポンポンと叩いてきた。振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた宇梶とアマテラスの会会員と思しき数人の男子生徒の姿があった。
「阿澄君。俺達と一緒に来てもらおうか?」
宇梶ならびに会員達は全員笑みを浮かべてはいたが、誰一人その目は笑ってなどいなかった。
「えっと・・・もしかして、日の輪裁判ですか?」
恐る恐る尋ねる俺に宇梶達はそろって首を左右に振った。
「その必要は無い。すでに判決は下っている」
肩に乗った宇梶の手に力が籠められて痛みが走った。宇梶の後ろで会員達がボキボキと指を鳴らしたりシャドウボクシングをやり始めている。
なるほど・・・裁判をすっ飛ばして全員での袋叩きが確定したわけですか。
「さあ、阿澄君。我々と一緒に――」
「イヤだ―――――――――――――――――!!!」
俺は宇梶の手を払いのけ、会員達の腕をかいくぐりながら教室から転がり出た。廊下に出て全力で走る俺の背後から、轟音のような足音が聞こえ反射的に振り返った。
結果から言えば振り向くべきではなかった。俺の目に飛び込んできたのは、
「逃がすなぁ!!!奴を殺せ――――!!!」
宇梶の絶叫と共に会員と教室にいた男子のほぼ全員がこちらめがけて殺到している光景だった。天野だけではなく祥子のファンもいるようだ。その姿はまさに百鬼夜行!全員、鬼の如き形相で俺の事を追いかけてきている。
「おのれ阿澄良ぁ!貴様よくも天野さんを!!!」
「テメェ!いくら幼馴染だからって吉田さんになんて羨ましい事しやがるんだ、この野郎!!!」
マジだ!あの目はマジで俺を殺そうとしている!あの群れに捕まったら確実に死ぬ!
「ヒィッ!」
情けない悲鳴を上げながら俺は走った。ただひたすらに走り続けた。
「コラ――!!お前ら廊下を走るんじゃない!!!」
途中、大黒の怒号が聞こえてきたが、そんな言葉に耳を貸す余裕などあるはずが無い。
すいません先生!今回だけは見逃してください!こっちの命がかかっているんです!心の中で叫びながら俺は懸命に走り続けた。廊下を歩く生徒達をかわし、俺はひたすらに逃げ続けた。腕も脚も肺も心臓も、身体のあちこちが悲鳴を上げるが、それでも俺は悪鬼の群れから必死で逃げ続けた。
「俺は無実だ――――――――!!!」
その日の昼休み、俺の声は校舎中に響き渡ったという。香津子さんが成仏して平穏な日常に戻れたと思っていたが、そうではなかったようだ。
俺の女難の日々は当分の間、続きそうだ・・・