待ち人来る
質問したい。幽霊や精霊、悪魔や神といった存在や、超能力に呪術、魔術といったオカルトの類を信じているのかと。この質問をすると、理由は様々だが『信じる』人と『信じない』人の二種類の人間に分けられるだろう。
加えて『信じる』人の中でも、狂信的なまでに信じる人もいれば、日々の生活のアクセント程度に信じる人。『信じない』人の中でも、存在そのものを全否定する人もいれば、一部分だけ信じない人など、程度によって細分化することが出来る。
俺はというと、ある一部に関して『信じる』側の人間だ。その理由だが、それは後で説明するとして『信じる』『信じない』、その理由について――例えば幽霊に限った話で言えば、多くの場合『視える』『視えない』といった理由が挙げられると思う。
『視える』から『信じる』。『視えない』から『信じない』・・・これはあくまで一般論だ。
ここで断っておくが、俺は『視えない』からといって幽霊を信じちゃいけないとは一言も言っていない。というのも、かく言う俺も幽霊の存在を『信じている』のだ。
俺が『信じている』ものと言うのは、他でもない幽霊の類の事なのだが、残念ながら俺は『視える』人間ではない。しかし、俺はその存在を『信じている』――
俺には他の人には無い少し特殊な事情があり、それが理由になるのだが・・・それは追々分かることになるだろう。
なにせこれは、俺、阿澄良の少し特殊な物語なのだから
昨日の夜にタイマー予約をしておいた炊飯器から炊き上がりを告げるアラーム音が流れてくる。
蓋を開けて茶碗と弁当箱に適当な量を盛り付けてから、昨日作った肉じゃがの残りを必要な量だけレンジで温めておく。すでに温めておいた味噌汁は弱火のまま待機だ。
続いて卵三個をボールに割り入れカラザを取り除いてから、砂糖と塩、だし汁を入れて菜箸でかき混ぜる。その間にフライパンを火にかけておくのも忘れない。十分にフライパンが温まったのを確認したら、油を適量ひいてから卵液を流し込む。「ジュッ」という音と共に卵が固まり始め、焦げるか焦げないかを見極めながら菜箸を使って巻いていく。それを何度か繰り返してだし巻き玉子が完成すると、レンジから肉じゃがが温まったことを告げるアラームが流れてきた。
時間ピッタシ・・・完・璧!
得意げにそんなことを思いながら朝食の器と弁当箱に肉じゃがと一口大に切った出汁巻き玉子を盛り付け、適当にちぎったレタスとプチトマト、湯掻いたブロッコリーも盛り付けていく。味噌汁の入った鍋も火を止めてから中身をお椀に盛り付ける。
「朝食ならびに弁当完成っと!」
弁当には粗熱を取っておくため蓋はしないでおく。出来上がった朝食と弁当の出来栄えに俺は満足気に笑みを浮かべながら朝食を居間へと持って行った。
朝食を食べながら朝の情報番組を見ていると、見知った場所が画面に映し出された。
「岐阜県 多神ヶ原市で明海香津子さん16歳が今朝未明、自宅より14㎞離れた公園で遺体となって発見されました。首には何かで絞められたような痕があり、また、所持品には荒らされた形跡がなく、警察は――」
ニュース原稿を読み上げる声と同時に遺体発見現場として映し出された公園は通学路としてよく通る場所だった。
「マジかよ・・・この近くじゃないか!」
味噌汁をすすりながら、そんなことを呟く。画面は被害者の顔写真と共にその人物が通う高校を映し出していく。どうやら被害者はここら辺の高校に通う生徒だったようだ。
身近な場所での痛ましい事件に少しだけ胸の辺りがチクリとした。しかしそれも朝食が進むにつれて次第に消え失せていき、俺は登校の準備を済ませてテレビの電源をオフにした。
鞄を手にした俺は靴を履いてガラガラと引き戸を開けた。
「行ってきます!」
そう言って返事をする者がいない家を出た俺は、玄関に鍵をかけてから歩き慣れた道を進み始めた。暖かな風が頬を撫でていく。高校を進学してから一年と少し。すっかり見慣れた風景だが、俺はこの通学路を歩くのが好きだった。
幼い頃に交通事故で両親を亡くしてから、俺は父の弟にあたる叔父さん夫婦の家で暮らしていた。叔父さん達は良くしてくれたし感謝もしている。だけど俺は高校進学を期にそれまで暮らしていた叔父さんの家を離れ、かつて両親と暮らしていた家で一人暮らしを始めることにしたのだ。決して叔父さん達が嫌になったわけではない。独り立ちがしたかったのだ。
父さん、母さん・・・俺は元気にやってるよ。そんなことを思いながら足を運ぶ。
桜の花が咲き始めてから幾日か経つ道――近くには『西高桜』と呼ばれる通りもある――通りを歩きながら、俺はニュースで流れた公園の傍にさしかかった。普段は犬の散歩やジョギングをしている人がいる、それなりに広い公園なのだが、殺人事件の影響からかその姿は見当たらない。
寄り道でもしてみるか。少しの野次馬精神に抗えなかった俺は公園へと足を踏み入れた。
公園にはテープが引かれて中に入れないようになっているばかりかビニールシートがかけられた箇所もあり、おそらくそこが遺体の発見現場だったことを容易に想像させた。脳裏にテレビに映し出された女子高生の顔が頭をよぎる。
明るく元気なイメージを受ける被害者の女子高生。明るい未来が待っていたはずの彼女の人生は、突如何者かの手によって奪われてしまった。チクリとした痛みが再び胸に広がっていく。
被害者の女子高生に対する同情と、そんな彼女を殺害した犯人に対する怒りがこみ上げてきた時だった。
(イヤだ・・・イヤだ・・・・・)
「えっ?」
突如聞こえてきた声に俺は思わず辺りを見回した。しかし周りには俺以外に誰もいない。おかしいなと思っていた俺に、『それ』は突然やって来た。
「―――ッ!」
全身の毛が逆立つような感覚が俺を襲う。同時に身体は金縛りに遭い動かなくなった。
「ま・・・さか・・・・・!」
絞り出すように呟く俺の脚を『何か』が這い上がってきた。首が動かせないため視線だけで足元を見るが何も無い。しかし『何か』が俺の脚を這い上がっていってるのは確かだった。その『何か』が脚から腰、背中へと上がっていくと、俺の身体は糸が切れた操り人形のようにグラリと崩れ落ちた。
「はあ・・・、はあ・・・、はあ・・・・・」
両手をついて荒い呼吸を繰り返す。金縛りはすっかり解けたが、両肩が重く僅かだが頭痛もした。この感覚は、やっぱり・・・
「クソッ・・・『また』かよ!」
悪態をつきながら軽く舌打ちをした。寄り道なんかするんじゃなかった。身体は重いが、こうしていても仕方がない。俺は立ち上がり、出かける時とは打って変わって重くなった脚を引きずるように歩き出した。
最悪な気分でしばらく歩いていると背後からチリンと鈴の音が聞こえてきた。その音だけで誰だか分かる。首だけ後ろを振り向くと、毎度おなじみの顔がそこにはあった。
「おはよう、リョウちゃん!」
茶色みがかった黒髪を鈴付きの髪留めでポニーテールにした少女が笑顔で俺に挨拶する。ちなみに『リョウちゃん』というのは俺のあだ名だ。
俺の名前は『良』と書いてツカサと読むのだが、こいつは子供のころから俺の事を『リョウちゃん』と呼んでいる。正しい名前を呼ばせることは諦めたが、高校生にもなって『ちゃん』付けは恥ずかしいからやめろと言ってもこいつはいっこうに俺のことを『リョウちゃん』と呼んでくる。俺としてはヤレヤレである。
「祥子か・・・」
おはようと声をかけてから視線を前方に戻すと、幼馴染である吉田祥子は俺の隣まで小走りをしてからこちらに合わせるように速度を落として歩き始めた。
微妙に痛む頭に顔をしかめながら歩いていると、隣の祥子がスマホをいじりながら難しそうな顔をしているのが目に留まった。
「どうしたんだ、祥子?何を見てるんだよ?」
少しでも気分を変えようと祥子に話しかけてみると「これだよ」と言ってスマホの画面を俺に見せてくれた。画面には『あなたの運勢』と書かれたアプリの表紙が映し出されていた。
「今日の運勢を見ているんだ。リョウちゃんのも調べてみるね」
そう言って祥子は画面を素早い指使いで画面をタップし俺の生年月日を入力し始めた。しばらく隣で眺めていると祥子が難しい顔で画面を睨みはじめた。
「どうしたんだ?」
「・・・リョウちゃんの運勢、あまり良くないみたい。今年は女性関係に悩まされるって」
気分転換どころかかえって悪くなってしまった。その時ふいに頭痛が酷くなった。顔をしかめる俺の異変に祥子がすぐに気が付いた。
「どうしたの、リョウちゃん。具合悪いの?」
「ちょっと頭痛がするんだ。多分、『アレ』だ」
幼馴染という関係は便利だ。俺の言葉に祥子がハッと気付いたらしく、顔を耳元に近づけ声を潜めた。
「もしかして・・・また、『例のアレ』?」
軽く頷くと「ちょっと待ってね」と言って祥子が俺の顔を――というかその後ろ辺りに目を向ける。その視線の先にある存在に・・・
少しの間を置いて、目を凝らしていた祥子が溜息をついた。
「間違いないね・・・リョウちゃん、今朝テレビに映った公園に入ったでしょ?」
「ああ。何で分かるんだよ?」
一緒に歩いている間、祥子には公園に寄ったことなど伝えてはいない。
「だって、リョウちゃんの背後に殺された女子高生の姿が見えるんだもん。ダメじゃない。リョウちゃんはそういうのに憑かれやすいんだから」
呆れる祥子に「悪い」と言って頭を下げる。そんな俺に祥子は「しょうがないなぁ」と肩をすくめた。
「今日の放課後、神社に寄っていってね。祓ってあげるから」
「ありがとう、助かるよ」
「任せといて!リョウちゃんは私が守るから!」
祥子はどこか誇らしげに胸を張った。
俺は産まれつき幽霊などの『この世ならざる者』に憑かれやすい特殊な霊媒体質を持っているらしく、両親が健在だった頃からこの体質に日々悩まされていた。それは両親も同じで、突然『何か』に憑かれて奇行をおこなう俺を前に途方に暮れていたと叔父さんの口から聞かされていた。
息子の体質に困っていた両親に叔父さんは「お祓い相談をしている」と言ってとある神社を紹介してくれた。それが祥子の実家でもある『吉田神社』だった。両親が藁にもすがる想いで俺を連れて行くと、憑いた幽霊はたちどころに消え失せてしまったらしい。
息子が元に戻ったと喜ぶ両親に、神社の神主である祥子の親父さんは「この子はこれから先、このような事態に何度も遭遇することになります。何かあれば、いつでも来てください」と言ったそうだ。
以来、何かに憑かれる度に両親は吉田神社に俺を連れて行き、祥子の親父さんに祓ってもらっていた。その時から祥子とは付き合いがあり、現在では俺のお祓いを担当してくれるまでになっている。親父さん曰く、同世代である娘の方が常に一緒にいる事が多く、加えて祥子は幽霊などの姿が視えるため対処がしやすいだろうとの配慮だそうだ。事実、俺は祥子に何度も助けてもらっているので、頭が上がらない部分もあった。
祥子が再びスマホの画面を眺めながら口を開いた。
「今日のラッキーアイテムは手帳だって。制服のポケットに入れておいた方がいいね」
「また占いかよ」
「験を担いだほうがいい時もあるんだよ。学校の生徒手帳でいいから、ちゃんと胸ポケットに入れておくの!」
どうして女子は占いが好きなのだろうか。祥子に強く言われた俺は溜息をつきながら鞄の底に押し込まれていた生徒手帳を取り出しブレザー制服の胸ポケットに入れた。そうこうしている内に俺達の目の前には学び舎である多神ヶ原高校の校門が見え始めていた。
「大丈夫、リョウちゃん?」
痛む頭を押さえる俺に祥子が心配そうに声をかけてくる。痛みそのものはたいしたことは無いのだが、持続的に続くので気分はあまりいいものではない。あとで保健室に行って痛み止めを貰った方が良いかもしれないな。
重い脚を引きずりながら校門を通り抜けたところで、俺の肩を誰かが叩いてきた。振り返ると高校に上がってから知り合った友人が人の良さそうな笑顔で挨拶をしてきた。
「よう、良!なんだお前、具合でも悪いのか?」
「空人か。まあな」
「おはよう、田門君」
祥子に挨拶をされ、友人である田門空人がシルバーフレームの眼鏡をキラリとさせながら口を開いた。
「おはよう、吉田さん。相変わらず良とは仲がよろしいようで」
冷やかし交じりの言葉に祥子は顔を赤らめ、僅かに俯いてしまった。
「もう、田門君ったら、からかわないでよ。恥ずかしい・・・」
「そうだぞ、空人。祥子の奴、困っているじゃないか」
恥ずかしがる祥子を前に俺が抗議をするが、空人はさらに口を開いて冷かしてきた。
「そうは見えないんだけどなぁ?傍から見てれば、具合の悪い夫を支える献身的な妻って感じにも見えるし」
「つっ、妻って・・・もう、田門君ったらヤダッ!」
さらに顔を赤くして空人をペチンと叩く祥子。痛む頭を押さえながらそんな二人のやり取りを見ていると、空人がこちらに顔を近づけ祥子に聞こえない声で尋ねてきた。
「ていうか、お前らって実際どこまで進んでるんだよ?情報通としてはそっちの方が気になるんだけどなぁ」
自ら豪語するだけあってか、空人は様々な情報に精通している。俺もその情報に助けられたことがある口だ。
「どこまでって・・・別に、ただの幼馴染でそれ以上は無いぞ?祥子だって俺のことは何とも思ってないだろうし」
俺も声を潜めて応えると、空人が信じられないと言った顔で目を見開いた。
「お前、それマジで言ってんのか?ていうか、吉田さんに対して何も思わないわけ?知らないだろうから言っとくけど、吉田さんって男子達の間じゃ人気上位に入ってんだぞ?僕に吉田さんのこと聞きに来る奴だっているし」
「そうなのか?そんなの初耳だぞ!」
空人からの思わぬ情報に俺は少しだけ驚いた。確かに祥子は学級委員を務めたりしている関係から同級生から頼られているが、まさか祥子がそんなに注目を集めているとは知らなかった。言われてみれば、祥子と一緒にいる時に男子からの視線を感じたことが何度かあったな。
「二人とも何を話しているの?」
二人でそんなやり取りをしていると、今までほったらかしにされていた祥子が痺れを切らしたのか話に入ってきた。
「たいしたことじゃないよ。吉田さんも苦労が絶えないなと思っただけ」
祥子の苦労ってなんなんだ?俺としては空人の発言に首を傾げるしかない。
「なあ、良。お前、実際のところ吉田さんを見てどう思う?可愛いとか思わないの?」
「ちょ、ちょっと、田門君!」
突然の空人からの問いかけに、祥子が耳まで赤くなりながら抗議をする。しかし空人はそんな事などお構いなしに「なあ、どうなんだ?」としつこく聞いてきた。
「う~ん、そうだなぁ・・・」
そこまで気になるんだったら答えるのもやぶさかではない。俺は顔を赤らめたまま空人に詰め寄る祥子のことをじっと見つめながら考えてみた。
「ちょ、ちょっと、リョウちゃん。そんな、見つめないでよ・・・」
僅かに視線を逸らそうとする祥子を眺めながら、俺は思ったことを口にしてみた。
「うん。確かに、祥子は可愛いと思うぞ」
「えっ・・・?」
目を見開いている祥子の顔立ちは整っていると思うし、肌も白くきれいだと思う。おまけに活発で明るい印象も受けるし、俺が知る限りの評判と合わせてみても空人の指摘通り可愛い部類に入ると言っても良い。
「それに面倒見も良いし、結婚したら良いお嫁さんになりそうだよな」
実際の話、俺のことで何かと世話を焼いてくれる祥子には感謝している。その想いも込めて感想を言ってみた。
「こんな感じで良いのか?」
そう言って空人に尋ねたが、何故か返事が返ってこない。なんだよ、あれだけしつこく訊いてきた癖に。
「どうしたんだよ空人?俺、何か変なこと言ったか?」
「いや・・・そうじゃないんだけど。お前、それ無自覚で言っていたとしたら相当にタチが悪いぞ?」
そう言った空人が祥子に視線を送る。言っていることがイマイチ分からないが、俺もそれに倣う。
「・・・・・」
見ると祥子は何故か黙り込んだまま顔を赤くしながら俯いていた。
「どうしたんだ祥子?熱でもあんのか?」
心配になって肩に手を伸ばそうとした時だった。
「もう、リョウちゃんたら!そんな恥ずかしいこと言わないでよ!」
突然祥子が顔を上げ、叫びながら突き飛ばしてきた。
「おわっ!」
「キャッ!」
俺は突然の出来事にバランスをとることも出来ず、たまたま近くを通りかかった女子生徒にぶつかりそのまま倒れ込んでしまった。
「おい、大丈夫か良?」
「ごめんリョウちゃん。私、つい・・・」
空人と祥子が俺に駆け寄ってくるのが気配で分かる。俺はぶつかった女子生徒に謝ろうと顔を上げた。
「ごめん。大丈夫・・・か――」
顔を上げた俺は仰向けに倒れている少女の姿にポカンとなった。
「・・・・・黒」
思わず呟いた言葉に慌てて首を左右に振った。スラリと長い脚を包んでいるストッキングの事ではなく、その奥にあるスカートの中身について漏らした言葉だ。目の前にいる少女の脚が僅かに開いているせいで、その中が俺の位置から丸見えになっていたのだ。
俺が呆然としていると、倒れた女子生徒が「イタタ」と呟きながら上体を起こした。
そこで初めて彼女の顔を見ることになったのだが、その顔を見た瞬間、俺の視線は釘付けになった。
彼女の顔は「美人」の二文字で例えられる。やや吊り上っているパッチリとした目に、よく通った鼻筋。薄いピンク色の唇にシャープな顎のライン。その下の首筋は細く、祥子と同じくらい白い素肌の色も相まって鶴を連想させた。そして何より印象的だったのが、黒く長いストレートヘアだった。遠目からでもサラサラとした印象を受けるし、僅かにいい匂いもしてくる。
目の前の女子生徒には見覚えがあった。ていうか、この学校の人間で知らない者はまずいない。彼女はこの学校ではちょっとした有名人だ。
「あの・・・どうかしたの?」
そんなことを考えていた俺に女子生徒が声をかけてきた。彼女に見惚れていた俺はハッと我に返った。
「いや、なんでもない。それより大丈夫か?」
「あっ・・・うん。私は大丈夫」
そう言って僅かに笑みを浮かべる女子生徒。しかし俺はそんな彼女の顔をまともに見ることが出来ずにいた。
「・・・どうかしたの?」
俺の様子に女子生徒が怪訝な表情で尋ねてくる。どうやら彼女は未だに自分がどういう体勢なのか気付いていないようだ。
そんなことをしていると祥子達が近づいてくるばかりか、周りの生徒たちが何事かと注目し始めた。この状況はまずい。これ以上、彼女の醜態を他の生徒に晒す訳にはいかないし、元はと言えば俺の不始末だ。彼女のために教えるべきだと判断した。
「その・・・スカートが」
視線を逸らしながら言葉足らずではあったが彼女に伝えると、その一言で向こうも気づいたらしく、彼女は顔を赤らめながら慌てて両脚を閉じスカートを手で押さえつけた。
「ご、ごめんなさい!その・・・」
彼女の表情から、スカートの中を見たのかという問いが伝わって来た。
「だ、大丈夫!見てはいないから!」
本当はしっかりと見てしまったが、あえて嘘をつくことにした。これ以上、彼女に恥をかかせたくなかったからだ。
「そ、そう。良かった・・・・・えっ?」
ホッと安堵した彼女の顔が強張ったのが目に入った。彼女はそのまま俺の顔をマジマジと見つめてきた。
「・・・・・」
「えっと・・・その・・・」
彼女はジッと俺の顔を見つめたまま動こうとはしない。真っ直ぐとした曇りのない澄んだ瞳で――と言うのは大げさかもしれないが、とにかく、そんな彼女に見つめられ、俺は次第に顔が熱くなってきた。
「あの・・・俺の顔がどうかしたの?」
「あっ・・・いえ・・・その・・・・・」
お互い視線が重なってか、妙な雰囲気が出来始めていた。俺は彼女から目を離せなかったし、彼女も俺から目を逸らそうとはしない。そんな二人の世界を破る者が現れた。
「もう、リョウちゃん!何しているのよ!」
何故か不機嫌な祥子の声でハッと我に返った俺は慌てて立ち上がり、落ちている鞄を手にとった。
「ごめんなさい。私もこれで・・・」
そう言って彼女も自分の鞄や持ち物を手に取り足早に立ち去っていった。その背中を俺は黙って見送った。
「もう、リョウちゃんったら鼻の下伸ばし過ぎ!いつまで見つめているのよ!」
未だに不機嫌な祥子を尻目に空人が彼女の背中と俺の顔を交互に眺めながら含みのある笑みを浮かべた。
「お前ツイてるな。登校して早々、天野さんのパンツが見れてさ」
どうやらこいつにはバレていたらしい。しかしこのとき俺は空人から聞いた『天野』という言葉に記憶の中で一人の少女のことが思い起こされた。
「天野照美です。よろしくお願いします」
二週間と少し前。俺がまだ一年生だった頃の話だ。終業式の一週間前に一人の転校生がやって来た。こんな中途半端な時期に転校してくるなんて珍しいが、目の前に現れた美少女を前にクラスの男子が色めき立つのが分かった。俺も彼女に関しては転入試験で全教科満点を出したと空人から聞いているくらいだったが、その容貌に思わず見惚れてしまった一人だ。その転校生は短い挨拶を済ませると、担任が指定した席まで移動し腰を下ろした。その席は俺の二つ前の席だった。
その日は休憩時間になる度に彼女の席に黒山の人だかりができていた。その大半は女子だったが中には男子の姿もいた。クラスの男子は全員彼女に興味津々だったが、声をかける奴はその中でも僅かしかいなかった。残りの連中は遠巻きで天野を眺めるだけで、声をかける勇気が無かったのだろう。
俺もその中の一人だったが理由は別にあった。クラスメートからの質問攻めに遭っている天野は嫌な顔一つせずに応対していたが、その返答全てが当たり障りのないものばかりで適当にあしらっているのが見え見えだったからだ。そんな彼女の背中からは「私に関わるな」というメッセージが伝わって来たような気がして、俺は天野の背中を眺めるだけで一日を終えた。
次の日も休憩時間に天野に話しかける生徒はいた。しかし今回は女子よりも男子の割合が多かった。女子はというと、一部のものが遠目から彼女を興味深げに眺める姿勢をとっていた。その目は嫉妬ややっかみを孕んだ視線をしているのが俺の目でも分かった。男子たちの様子を見れば明らかだったからだ。
そんな女子や俺の目の前で、ひときわ積極的でしつこいバカが天野に話しかけていた。そいつは髪を金色に染め耳にピアスを着けた、いわゆる不良と呼ばれる類の奴だった。
「ねえ、君って彼氏とかいるの?もしいないのなら俺なんてどう?俺と付き合ってくれたらいろいろと尽くしちゃうよ?」
品の無い口説き文句に周りは呆れ果てていたが、そのバカはそんなことに気付いてはいない。天野は鞄から文庫本を取り出しページを広げて読書を始めた。どうやら天野もこいつには関わる気が無いらしい。そんな天野にバカはしつこく話しかけてきた。
「ねえ、天野ってどうしてこんな時期に転校なんてしてきたの?前の学校で何か問題を起こしたとか?」
彼女に対して呼び捨てで話しかける態度や遠慮のない質問に俺は少しだけムッとした。
そんなバカに対して天野は文庫本を手に読書を続け、徹底的な無視の姿勢をとっていた。バカがどれだけ言葉を重ねても、「お前になど興味はない」とでも言いたげな空気を醸し出しながら天野は目の前のページに目を落としていた。
そんな天野に痺れを切らしたのか、バカが強硬手段に打って出た。
「おい、無視すんなよ!こっち見ろって!」
バカは天野から文庫本を取り上げ声を荒げた。その声で教室に緊張が走った。
俺は天野を助けに入るべきかと机に手をかけた時だった。天野はすっと立ち上がり、バカが持つ文庫本に手を伸ばした。
「――返してください」
俺の位置からは表情は見えなかったが良く通った声だった。とても澄んだ綺麗な声に教室が水を打ったように静かになった。俺を含め教室にいた全ての人が呆然と天野の姿を見つめることしか出来なくなった。
「返してください」
もう一度、天野が言うと教室にいる全員が息を飲んだ。その背中から強い意志と迫力が伝わって来た。その迫力に負けたバカが文庫本を持つ手を離すと、天野は「どうも」と言って席に座り再び読書を始めた。
バカが周囲の視線に耐えかねてそそくさと出て行くと、教室にいた全員の視線が天野に向かった。しかし彼女は何事もなかったかのように黙々と手にした本に視線を走らせていった。
それから終業式までの間、天野に声をかける者はいなかった。全員が遠巻きに彼女を眺め、中には声を潜めて話をする者もいた。俺はその間、祥子や空人と話をしながら横目で天野の背中を眺めていた。彼女は皆の視線や内緒話など気にもせずに本を読み続けていた。
その背中を眺めていた俺の頭に『孤高』の二文字が浮かんだ。『孤独』ではなく『孤高』。寂しさなど微塵も感じさせない『強さ』を秘めた背中・・・
終業式までの一週間。俺は天野に声をかけることも無く、その背中を眺めながら高校一年生を終えた。
それから数日間、高校二年生になり天野とはクラスも別になった俺は特に接点を持つことも無く今に至っている。
「なあ、空人。天野って友達とかいるのか?」
机に顔を埋めながら俺は何とはなしに空人に尋ねた。ちなみに同じクラスでもある祥子は他の女子達とおしゃべりに夢中だ。持続的に続く頭痛を紛らわしたかったのもあるし、あれから天野は『孤高』で居続けているのだろうかと思ったのもある。
「なんだ、良。吉田さんを差し置いて浮気か?」
「いつまでそのネタ引っ張るつもりだよ?そんなんじゃねぇよ。気になっただけだ」
からかう空人にかぶりを振る。「ふ~ん・・・まぁ、いいけど」と言って空人は眼鏡のフレームをいじり出した。これはこいつが何かを考える時の癖で、しばらく考えていた空人から予想通りの返答が返ってきた。
「僕が知る限り、天野さんが男女問わず誰かと一緒にいるところを見たことは無いな」
「そっか・・・」
「まあ転校して早々、あんなことがあったら誰も声をかけにくくはなるだろうけどね」
空人がおどけた様子で小さく笑みを浮かべる。天野がバカを追い払った出来事はそれなりに有名らしい。
「もっとも、あの容姿もあってファンクラブまで出来たんだから、結果的に彼女の知名度は上がったんだろうけど」
「ファンクラブ!?天野の?」
もちろんと言って空人が鼻高々に胸を張る。ファンクラブって、どこかのアイドルじゃないんだから。そもそも天野が来てからまだ一カ月も経っていないと言うのに恐るべき人気だ。
「そんな噂の転校生のパンツを見れるなんて、お前は幸運なんだぞ?」
ふざけた調子で笑う空人に俺は身体を起こした。
「お前!それ、絶対に誰にも言うなよ!もし言ったら――」
俺が空人に詰め寄っていた時だった。突然教室がざわつき始め、俺達は何事かと顔を見合わせた。見ると全員の視線が一斉に教室の入り口へと注がれている。俺達も扉へ視線を向けると、そこには今まさに話に挙がっていた天野が教室をしきりに覗き込んでいたのだった。
教室中が困惑の色を示す中、天野は俺の姿を見つけるや脇目も振らずにこちらに向かってやって来た。どうやら彼女は俺を探していたらしい。訳が分からない俺の目の前で天野が立ち止まると、祥子を始めクラスメート全員の視線がこちらへと注がれた。空人に至っては完全に興味津々といった様子でことの推移を眺めている。
「えっと・・・阿澄君・・・よね?」
とても澄んだ声で俺の名を呼ぶ彼女。なぜ天野が俺の名前を?確かに短い間とはいえクラスメートだったが、彼女が俺の事など覚えているとは考えにくい。俺は未だに混乱の只中にいた。
「あ、あぁ・・・」
どうにか返事をすると、天野はおもむろにポケットから俺の名前が書かれた生徒手帳を取り出し机の上に置いた。それを見て天野が俺の名前を知っていた理由がはっきりと分かった。
「さっきぶつかった時に間違えて持って行ってしまったから・・・」
ゴメンなさいねと言って謝る天野。慌てて胸ポケットを覗いてみると、確かに俺の生徒手帳はどこにも入っていなかった。どうやら彼女はそれを届けに来てくれたらしい。
「あぁ、ありがとう・・・」
素直にお礼を言って生徒手帳を胸ポケットにしまい顔を上げる。普通ならば「それじゃ、これで」とでも言って帰るところなのに、なぜか天野はこちらをジッと見つめたまま帰る様子がない。天野に見つめられ、俺は僅かに視線を泳がせる。
「ど、どうしたの?俺の顔に何かついてる?」
微妙な空気に耐えかねて思い切って尋ねた時だった。突然天野の両手が俺の両肩に乗り、抱きつくように耳元に顔を寄せてきた。その光景に教室中がどよめき皆の視線が鋭く突き刺さる。俺の方はいよいよもって訳が分からない。
「ちょっ、天野・・・さん?これは、一体・・・」
「じっとしてて」
混乱する俺の頬を天野の吐息が優しく撫でる。それだけで頭はボーッとなり脳が痺れて考えが定まらなくなってくる。天野は俺の制服の襟の部分をしきりに弄った後、ようやく離れて左手をかざして見せた。そこには小さな糸くずがつままれていた。
「糸くずがついてたわよ」
じゃあねと言って天野が去っていく。俺を含め皆が呆然とするなか、突然祥子がこちらに詰め寄ってきた。
「ちょっとリョウちゃん!今のアレ何よ!」
「俺が知るかよ!」
反論する俺に教室中から視線が集まる。その視線を軽く分類してみると、『疑問』、『困惑』、『羨望』、そして『嫉妬』と言ったところだろうか。
「朝から中々に面白いモノを見せてもらったよ。今後の展開が楽しみだ!」
空人に至ってはいよいよもって楽しそうな様子だった。こいつの場合は『野次馬モード全開』と言った感じだろう。ったく、他人事だと思いやがって。
教室中が俺のことでヒソヒソと会話を始めようとしたその時、
「コラァ!お前ら何を騒いでいる!ホームルームを始めるぞ!」
我らがクラス担任兼体育担当でもある大黒先生による、不良も逃げ出す強面フェイス&大柄な体躯からの迫力ボイスで教室の喧騒が一気に静かになった。祥子はまだ何か言いたげだったが、大黒の睨みの前にそそくさと自分の席へと戻っていく。俺は内心ホッと胸を撫で下ろした。
大黒による熱血を絵に描いたようなホームルームの挨拶を聞きながら、俺は天野から返してもらった生徒手帳を制服越しにそっと手を当てた。そこにはまだ天野の温もりが残っているような気がして、俺は知らず知らずのうちに少しだけ笑みがこぼれていた。
ホームルームを終え、午前の授業中。途中で痛み止めを飲んだおかげで頭痛はどうにか治まった。
――進級したての席順は、大抵の場合は出席番号順になる。俺の苗字は『あずみ』なため、当然ながら一番左の席になることが多い。窓際の席だ。
春の心地よい日差しを浴びながら夢と現実をさ迷う俺の視界に見知った女子生徒の姿が映った。言わずもがな天野である。どうやら天野のクラスは体育らしく、グラウンドで短距離走の授業の真っ最中のようだった。天野ともう一人の女子生徒がスタート位置につき顧問の合図と共に走り出す。素人目にも綺麗なフォームで相手に大差をつけてゴールする天野に俺は釘付けになった。
速っ!容姿端麗。頭脳明晰。おまけに運動神経も抜群なんて、才色兼備を絵に描いたようだと感心する。俺の視線は自然と天野の姿を追いかけていた。
走り終えた天野は他の女子達のいる場所まで行くと、誰とも会話をすることなく腰を下ろし空を見上げ始めた。その表情からは何を考えているのか読み取れず、俺はしばらくその姿に見惚れていた。
空人の言う通り友人と呼べる人はいないようだ。しかし当の本人はそんな事を気にしている様子が無く、淡々と授業をこなしているように見えた。俺が感じた孤高の姿がそこにもあった。
俺は無意識のうちに胸ポケットに手をあてた。今朝、天野が届けてくれた生徒手帳がそこに入っている。同時に天野に抱きつかれた時のことが蘇ってきた。実際は制服に着いた糸くずを取ってくれたのだが、思わぬ形で彼女との接点を持つことが出来た。
ラッキーアイテムは手帳・・・あの占い、意外と当たるみたいだ。自然と口から笑みがこぼれた。
退屈な授業を終え、昼休みに差し掛かった頃だった。今度は一人の男子生徒が空人と話す俺の前にやって来た。そいつは大黒ほどではないが大柄で髪を短めに切りそろえたいかにもスポーツをしていそうな奴だった。もしかしたら何か武道でもしていそうな体格だな。
「お前が阿澄良か?」
男子生徒は俺を見るなり、遠慮のない質問を投げ込んできた。その眼差しはなかなかに鋭く、それでいてそこそこの威圧感も併せ持っていた。
「そうだけど、アンタ誰だよ?自分から名乗らないのは失礼じゃないのか?」
そんな相手の眼光に俺も負けじと応戦すると、相手は「そうだった。すまない」と言ってあっさりと自分の非礼を詫びた。意外と律儀な奴のようだ。
「俺はA組の宇梶尋司だ」
そいつは手短だったが自己紹介をした。
A組――休み時間に空人から聞いた天野のクラスの事だ。つまりこいつは天野のクラスメートというわけだ。そんな奴が俺になんの用だろうか。まぁ、なんとなく見当はつくのだが・・・
「で?お前は俺になんの用なんだ?」
とりあえず用件を尋ねてみると、宇梶と名乗った男子生徒は俺を真っ直ぐ見つめながら口を開いた。
「多分、お前も感づいているとは思うが、話というのは他でもない。天野さんのことだ」
やっぱりな。天野とどういう関係かは知らないが、俺のことを見定めに来たのだろう。
宇梶は今度はやたらと聞き辛そうな素振りを見せた。
「単刀直入に聞く・・・お前と天野さんは、その・・・付き合っているのか?」
自己紹介の時とは打って代わってやたらと小さな声だったが、質問の内容は判断することが出来た。
えっ、付き合ってる?俺が?天野と?いきなり何を訊かれたのかさっぱり分からなかった。頭の中では『?』が大量発生していた。
「・・・・・はぁ?」
ポカンと口を開けたままどうにか出た声は我ながら随分と間の抜けたものだった。そんな俺のことなど目に入っていない様子で宇梶はさらに畳み掛けてきた。
「今朝のホームルーム前に、ここで天野さんがお前に抱きつくところを見たんだ。どうなんだ?正直に答えてくれ!」
必死な形相で詰め寄られ、俺は思わず仰け反った。
そんな俺達の様子を笑いをこらえながら見ていた空人がようやく助け船を出してくれた。
「天野さんのファンクラブが存在するって話しただろ?宇梶はそのファンクラブ『アマテラスの会』の会長なんだよ」
「アマテラスの会って・・・・・」
俺は宇梶の顔を凝視する。あの時は話半分で聞いていたが、そんなものが実在し尚且つその会長が目の前にいること自体が驚きだった。そもそもアマテラスって日本神話の天照大神のことだよな?古事記、日本書紀だと太陽を神格化した神だって授業で習った覚えがある。天岩戸の話が特に有名だ。つまりコイツらは天野のことを天照大神に見立てて崇拝しているということなのだろうか。なんか新興宗教みたいでヤバくないか?
「そう・・・俺はアマテラスの会会長を務めている。天野さんは我らにとって、まさに女神のような人なのだ!だから正直に答えて欲しい。返答次第によっては・・・!!」
「ちょっと待った。ストップ、ストップ!」
興奮気味にまくしたてようとする宇梶を俺は慌てて制した。ただでさえ今日は霊に憑かれて気分が良くないのに、こんな訳の分からない奴に関わるなんて御免こうむりたいところだ。俺は目の前にいるコイツの説得を試みることにした。
「あれは制服に付いた糸くずを天野・・・さんが取ってくれただけの話だ。それに俺と彼女には接点がほとんど無い。せいぜい去年にクラスメートだったってだけの繋がりしかないんだ」
危うく天野を呼び捨てにしかけたので、慌てて『さん』付けに切り替えながら反論をする。しかし宇梶はまだ納得していないらしく、疑いの眼で俺のことを睨んでいた。
「その時からの付き合いってことも考えられるだろう?」
「お前も知ってるだろ?天野さんが転校してきたのは終業式の一週間前だ。たった一週間でどうやって交際まで持ち込めるんだよ?」
そんな奴がいたら、そいつは間違いなく勇者だと言い切れる!
「やり方次第では出来なくもないだろう?」
「やり方ってどんなだよ?お前も知っているだろ?その一週間の間に何があったのか」
宇梶が「うっ」と渋い顔をした。コイツも天野が起こしたバカとのイザコザは知っているようだ。まあ、それがきっかけで天野のファンになった訳だから当然だろうが。
「何だったら、本人に直接確かめれば良い。同じクラスなんだろ?」
「でっ、出来るか、そんなこと!俺が天野さんに、はっ、話しかけるなんて・・・」
宇梶が顔を赤くし、がたいの良い肩を縮めて恐縮した。どうやら見た目に反して小心者のようだ。俺はとどめと言わんばかりに宇梶に畳み掛けた。
「とにかく俺と天野さんとの間には何も無いんだ。そもそも本人が俺なんかに興味なんて持つはずがないだろう。だからお前が思っているようなことは断じてない!」
相手の目を見てきっぱりと言い切った。こちらの剣幕に気圧されたのか宇梶は僅かに怯んだようだが、すぐに表情を引き締め正面から俺の顔を見てきた。
「そうか・・・・・お前がそこまで言うのなら本当なのだろう。疑って悪かった」
そう言って宇梶は俺に頭を下げた。両者の間にあった空気が元に戻るのを感じた。頭を上げた宇梶の表情からは完全に緊張が抜けており、僅かに笑みまで浮かんでいた。
「折角の昼休みを潰してしまって悪かった」
宇梶はそう言ってもう一度頭を下げると、来た時よりも颯爽とした足取りで教室から出ていった。ちょっとした夕立に会った気分だった。そんな宇梶を見送っていると、一部始終を見ていた空人が楽しそうな様子で話しかけてきた。趣味が悪い奴だ。
「いやぁ、今日は本当に面白いことが起きるなぁ。でも良かったな、良。ヘタなことになっていたら、お前、間違いなく『日の輪裁判』にかけられていたぞ?」
「日の輪裁判?なんだ、それ?」
またしても訳の分からない単語が飛び出し俺は眉間に皺を寄せた。そんな俺に空人は心底楽しそうな顔で説明をしてくれた。
「お前も気づいた通り宇梶は小心者だ。だからアマテラスの会は基本、天野さんのことを遠目から見守るスタンスをとっているんだ。それがアマテラスの会における鉄の掟になっているんだ」
「鉄の掟って・・・会員全員がか?」
俺の疑問に空人が首を左右に振る。
「もちろん、全員がって訳じゃない。中には掟そのものを破る奴だって出てくる。だからそういう奴や天野さんに危害を加えようとする輩に対して宇梶や会員達が処罰するかどうかを判断するために行うのが日の輪裁判なんだ。まあ、大概は有罪判決が出るんだけどね」
空人の話を聞いていると、ますます宇梶達が宗教団体のように思えてきた。出来れば関わりたくない類の集団であると俺の中で定義された。
「ちなみに有罪判決が出たら何が待っているんだ?」
「処罰は柔道有段者である宇梶が自ら行うんだが・・・」
その言葉に俺は息を飲んだ。見た目通り宇梶は武道の心得があるということか。しかも黒帯で。じゃあ宇梶が行う処罰って柔道家らしく関節技フルコースとかか?
「有罪になった奴は、宇梶からプロレス技フルコースを受けることになる」
「柔道関係ねぇじゃん!なんだよ、プロレス技って!」
俺は溜息と共に脱力した。あまりのアホらしさに宇梶達に対する関心が薄れていった。
「アホくさ・・・聞いて損したわ」
「まあ、アマテラスの会はかなり特殊な連中だからね」
そんなやり取りをしていると、祥子が怪訝な顔で俺のもとへとやって来た。
「ねぇ、リョウちゃん。さっきの人って誰なの?」
「あいつか?天野のファンクラブ会長だとさ」
手短に説明をすると祥子は何故か顔を曇らせた。
「また天野さん・・・」
「・・・?どうしたんだよ、祥子?」
気になって尋ねると、祥子は意を決したように顔を上げた。
「ねえ、リョウちゃん。リョウちゃんは天野さんとは本当に何も無いんだよね?」
「はぁ?何言ってんだよ、お前?」
祥子の言葉に俺は怪訝な顔をした。
「それじゃ逆に訊くけど、今までで俺が天野と一緒にいるところを一度でも見たことがあるのか?」
「それは、無いけど・・・・・」
「僕もそんな光景、見たことが無いな」
祥子だけではなく空人も頷く。そりゃそうだろう。天野との接点なんて今朝ぐらいしかない・・・と言いたいところだが、実は一度だけ天野と会話をしたことがある。と言っても、『アレ』を会話と呼べるかどうかは微妙なところだし、何より天野自身が覚えているとも思えない。そんな事を説明するのも面倒なので、ここは黙っておこう。
「じゃあ、リョウちゃんは天野さんの事、なんとも思ってないんだね?」
「そんなこと・・・」
なぜか必死な様子で尋ねてくる祥子相手に俺は口籠ってしまった。
なんとも思っていないはずがない。天野は美人だ。親しくなれたら学校生活が楽しくなるだろうなとは思うが・・・
「そもそも、天野が俺なんかを相手にするわけがないだろう?」
俺はこの時、何故か明言を避けようと思った。自分でも何故かは分からない。思春期を迎えた高校生にはよくあることだと思って欲しい・・・って、誰に言い訳してるんだ、俺?
「いやいや。それがそうとも言い切れないんだな、これが」
空人から余計な合いの手が入る。なんだよ、まったく。空人は眼鏡を人差し指で軽く持ち上げながら説明を始めた。
「天野さんが誰かと一緒にいるところを見たことが無いって言っただろ?あの時は言い方が悪かったが、僕が言いたいのは『天野さんが特定の誰かと親密になったことが無いって』ことなんだ。普段の彼女は誰に対しても一歩引いた態度を取っているんだよ」
「それがどうしたんだよ?」
「つまり僕が言いたいのは、今朝の一件は普段の彼女らしくないってことだよ」
「別にたいしたことじゃないだろう?ただ生徒手帳を届けて、ついでに制服に付いた糸くずを取ってくれただけの話じゃねぇか」
大げさに話す空人に反論の声に若干の苛立ちを込めてみる。何を大げさな。
「じゃあ聞くけど、お前がもし誰かの生徒手帳を間違って持って行った場合、直接教室まで行って本人に渡すのか?」
空人の切り返しに「それは・・・」と言葉を濁す。確かに言われてみればそうだ。
「無いだろ?せいぜい遺失物として職員室に届けるくらいだ。糸くずを取ってくれたことだって、直接口頭で伝えればいいだけの話だ。傍から見たら抱きついているようにも見えるくらい、くっ付く必要なんて無いんだ」
「それはそうだけど・・・」
空人の言葉に段々と自分の考えに自信が無くなってきた。
「案外、向こうはお前に気があるのかもしれないね」
空人の言い分に俺は反論することが出来なくなった。確かに天野のあの行動が無ければ宇梶が俺の所に来ることはなかったと言える。空人の分析に納得しそうになるが、俺は尚も粘ってみた。
「たまたま気が向いたとかじゃないのか?」
「気まぐれってことか?まあ、その可能性も否定は出来ないけどね」
俺の言い分に空人はようやく折れてくれた。敢えて納得してもらったかのような表情に、俺の居心地が少し悪くなった。
空人はヤレヤレと言った様子で溜息をつき、祥子はまだ納得がいかないと言った表情をしていた。時計を見ると、時刻が次の授業の10分前を指していた。
「そろそろ授業の準備を始めた方が良いんじゃないか。次は確か古文だろ?」
俺は話を切り上げたくて話題を逸らすことにした。二人とも時刻を確認するや自分の机に戻り教科書などを広げ始めた。俺も自分の机に戻って筆箱などを取り出し始めた。
授業の準備をしながら、俺は空人に言われた言葉を思い返していた。
――案外、向こうはお前に気があるのかもしれないね
天野が俺に?そんなこと、あるわけないだろう。俺は首を左右に振って否定した。
そもそも、なぜ俺なんだ?成績も見た目も運動神経も普通な俺のどこに惹かれたというのだ。唯一他人と違うところと言えば霊媒体質くらいしかない。それだって祥子以外の人には話したことが無いし、仮に知っていたとしたら、かえって気味悪がられるのがオチだ。そんなことを考えていると古文担当教師である寿先生が自慢の白い顎鬚を触りながら教室に入ってきた。それに合わせた「起立」の掛け声とともに俺は立ち上がった。
古文の授業を受けている間、俺は予想だにしていなかった。このあと、その天野と意外な形で深く関わっていくことになるなんて・・・
午後のホームルームを終えた俺は校門前に佇んでいた。「先生に頼まれた用事があるから待ってて」と祥子からのメールを受けたからだ。祥子を待っている間、帰宅の途につく生徒達を眺めていると、その中から天野の姿を目撃した。彼女は背筋を伸ばした姿勢で優雅に歩いていた。その姿に周りの視線が幾重にも重なり彼女へと向けられる。相変わらずの人気だ。
彼女を見ていると、昼休みに空人から言われた言葉が頭をよぎった。
――案外、向こうはお前に気があるのかもしれないね・・・あり得ないと思い俺は頭を左右に振った。
「まさかな」
自嘲気味に呟いていると、天野が俺を見つけるなりこちらに近づいてきた。その光景に周囲の生徒達がチラチラとこちらを見ながら通り過ぎていく。
「どうしたの、阿澄君?誰かと待ち合わせ?」
首を傾げながら彼女が訊ねる。今朝の一件から俺の名前を憶えていたらしい。
「あ、ああ・・・友達を待っているんだ」
あまり意識しないように返答すると、天野は「ふ~ん」と言いながら俺のことをじっと見つめてきた。こんな風に見つめられるのはこれで3回目だ。見つめられて動揺していると、「リョウちゃ~ん!」の声と共に祥子がこちらに駆け寄ってきた。
「お待たせ、リョウちゃん!」
チリンと鳴る鈴の音と共に息を切らしながら微笑む祥子。俺は「ああ・・・」とぎこちない返事を返す。
噂の転校生である天野と、空人曰く男子に人気がある祥子。この二人に挟まれている俺への周囲の視線が痛い。下校する生徒の大半が俺達のことを奇異な目で見ながら通り過ぎていき、中には足を止めてヒソヒソと耳打ちする者までいた。その視線の矢面に立たされ、俺は額に何とも言えない汗をかき始めていた。
「どうしたの、リョウちゃん・・・・・あっ」
俺の様子に怪訝な表情をしていた祥子が天野を見つけて表情を強張らせる。対して天野は祥子を見るや「どうも」と短めな挨拶と共に小さく頭を下げた。
祥子が俺の耳元に顔を近づけ、天野に聞こえない声で話し始めた。
(なんでリョウちゃんと天野さんが一緒にいるのよ!)
(たまたまだよ、たまたま・・・)
お互い声を潜めて話していると、天野が俺と祥子を交互に見てから「ふ~ん」と納得した様子で頷いた。
「なるほどね・・・」
天野は小さく頷きながら今度は祥子の顔をジッと見つめ始める。その視線に祥子が僅かに後ずさるのが見えた。
「なっ・・・何よ・・・・・」
祥子は顔を引き攣らせながら天野のことを睨み返す。その様子に周囲の人間からの視線がさらに集まり始める。その大半が俺へと注がれ、俺の居心地の悪さが一層増した。
お互い睨み合ったままの膠着状態を破ったのは天野だった。天野はおもむろに祥子に近づき、耳元に顔を近づけ何かを呟き去っていった。
「・・・・・えっ!」
祥子は驚いたのか目を見開き、天野が立ち去った方向を振り返った。しかし祥子は振り返っただけで天野を追いかけようとはせず、ただ呆然とその背中を見送るだけにとどまった。
「どうしたんだ、祥子?」
「・・・・・」
俺は事情を尋ねたが、祥子からの返答はなかった。
「なぁ、祥子。さっき天野になんて言われたんだよ?」
「別になんでもないよ・・・本当に・・・・・」
隣で俺がしつこく尋ねても、祥子は一向に白状しなかった。春の風が桜の香りを運んでいくなか、天野との一件から浮かない顔をしている祥子は真っ直ぐ前を見たままこちらを振り向く様子がない。
「そんなことより、私が来るまでの間に天野さんと何を話していたの?」
反撃とばかりに祥子が天野のことを尋ね返してきた。
「何って・・・・別にたいしたことは話して無いぞ?」
実際、本当にたいしたことは話していないのでありのままを伝えると、祥子は何故か表情を曇らせ俯いてしまった。
「どうしたんだよ、浮かない顔して?」
祥子の様子が気になり訊ねてみるが「何でもない」と返されてしまう。そのまま祥子は無言になってしまった。帰りの道中、二人の間に沈黙が流れる。
「・・・・・ありがとな」
その沈黙に耐えかねて、俺はお礼の言葉を口にした。「えっ?」と祥子が顔を上げる。
「どうしたの、突然?」
「いや・・・俺の体質のせいで、お前にはいろいろと世話になっているからよ」
「別に気にしないで。リョウちゃんの霊媒体質は産まれつきのものだし、仕方ないことなんだから」
祥子は謙遜しながら小さく笑みを浮かべた。さっきまで暗かった表情が幾分か明るさを取り戻したように感じて、俺は小さくホッとした。
それだけじゃ無ぇよ。お前には本当に感謝してるんだ・・・。幼い頃、親父さんにお祓いをしてもらってから、祥子とは家族ぐるみでの付き合いがあった。それは両親の死後も変わらず、独りになってしまった俺にとって祥子の存在がどれほど支えになったか考えると感謝しても足りないくらいだ。
「祥子も、もし何か困ったことがあったら相談しろよな。って言っても、お前と違って俺じゃあ、なんの役にも立たないかもしれないけどな」
自嘲気味に笑いながらも真面目に本心を吐露すると「そんな事、気にしなくても良いよ」と返ってきた。
「私はリョウちゃんが傍にいてくれるだけで幸せだから・・・」
「ん?何か言ったか?」
「なっ、なんでもない!」
そんな会話をしながら歩く俺達の目の前に目的地ともいえる祥子の神社が見え始めてきた。
俺達が住む多神ヶ原市は五街道のひとつの宿場町として栄え、近年では自衛隊基地関連の工業都市として、また近隣都市のベッドタウンとして発展を遂げた町だ。大型ショッピングモールなどの最新施設がある傍ら、史跡や寺院、神社など昔ながらの建物も残っており、国道に沿う形で立ち並ぶコンビニなどの小売店に交じってその姿を見ることが出来る。
そんな数多くある神社仏閣の内の一つが祥子の実家である吉田神社だ。ここに来るのは何週間ぶりだろうか。鳥居を見上げながゆっくりと息を吐いた。
「相変わらず立派だなぁ・・・」
朱塗りの鳥居を見上げながら俺は感嘆の声を上げた。ここに来るといつも身が引き締まる。もっとも、ここに来る時はほとんどの場合、何かの霊を連れてなので気持ちとしては複雑な気分でもあるのだが。
鳥居を見上げる俺の脇を走り抜けながら祥子が振り返り声を上げた。
「今からお祓いの準備をするから、リョウちゃんは先に本殿に上がってて!」
そう言って走り去っていく祥子を見送りながら、俺は一礼してから鳥居をくぐった。
手水舎で両手と口を清め、本殿に向かう途中で拝殿に立ち寄ることにした。お賽銭をして、二礼二拍手一礼を済ませる。ここに来たら習慣として必ずする一種の儀式のようなものだ。
「久しぶりに、お御籤でも引いてみるか」
今朝言われた占いの言葉を思い出したせいか、運試しをしたくなった。
賽銭箱の隣にある料金箱に百円を入れてからお御籤箱を振ると、箱に空いた小さな穴から『みくじ棒』と呼ばれる細長い棒が一本顔をのぞかせた。そこに書かれた番号と同じ籤を整理箱から取り出し運勢を確かめてみると、そこには「末吉」と書かれていた。確か吉の下、凶の上だったはずだ
「まあ、こんなもんか」
あまりにも平凡な結果に溜息が漏れる。念のため詳しい運勢を確かめていると、俺の目に待ち人の項目内容が飛び込んできた。
「待ち人来たる・・・」
他の運勢が平凡を脱しない中、この項目だけが妙に異彩を放っているように感じた。
待ち人来たる――多くの人が待ち人イコール恋人と勘違いしがちだが、待ち人とは読んで字の如く『その人が待っている人』の事を指す。それは恋愛に限らず、その人の人生の転機となる人。その人を良い方向へと導いてくれる存在を表していると祥子から教えてもらった。
俺の場合はどうなんだろう?恋愛?それとも・・・って、考えても仕方がないな。所詮はお御籤だ。俺は自分が引いたお御籤をみくじ掛けに結ぶと、本殿に向かうことにした。
本殿でしばらく待っていると、奥の襖が開いて中から祥子が姿を現した。そこには学校で見る制服ではなく、神社の巫女としての祥子が立っていた。
「お待たせ、リョウちゃん」
ああと言って、巫女装束に身を包んだ祥子の姿を見る。
白衣に緋袴、履物として白 足袋を履いている姿は、神に仕える巫女としての神々しさや上品さが伝わってくる。
「流石、神社の娘だな。よく似合ってる」
「そんなジロジロ見ないでよ・・・恥ずかしい」
祥子が顔を赤らめながら僅かに俯く。体形がスレンダーな祥子は巫女装束をはじめ和装がよく似合う。本人はそんな自分の体形にコンプレックスを抱いているようだが、気にしなくても良いと俺は常々思っている。もっとも、その辺の機微には疎いと言われているのであえて口を挟むつもりはないが。
「そう言えば、親父さんたちはどうしたんだ?」
ここに来るまでの間、祥子の両親の姿を見かけなかったがどこにいるのだろうか。
「二人とも町内会の集まりに出かけちゃったみたい。リョウちゃんのお祓いなら私でも出来るし早く始めましょ」
「それもそうだな」
祥子に促され俺は本殿の中央で正座をした。
正座をする俺の前で、祥子が御幣と呼ばれる祓い具を左右に振りながら祝詞と呼ばれる呪文のような言葉を唱え始める。祥子が祝詞を唱えていると、俺の背中がゾワゾワとしだしてきた。どうやら俺に憑いた被害者の霊が表に出て来たらしい。
祓い具を振る祥子の目には今朝テレビで見た被害者の姿が視えているのだろう。僅かに緊張した表情で祝詞を唱え続けている。
今まで通りしばらくすれば俺に憑いた霊は去りお祓いは無事に終わると思っていた。
だが今回のお祓いの最中、まったく予想していなかった事態が起きた。
(イヤだ・・・死にたくない!)
「えっ?」
突如聞こえてきた声に俺は思わず顔を上げた。同じように祥子の耳にも聞こえたのだろう。御幣を振る手はそのままだったが、祥子の口から祝詞が途絶えた。
(イヤだイヤだイヤだ・・・・!)
再び声が聞こえてきた。聞き覚えのない声だが、なにかが引っかかるような声だ。
(死にたくない死にたくない死にたくない・・・・!)
声がどんどん大きくなっていく。
その時、俺の記憶の中から今朝の出来事が思い起こされた。
そうだ!俺はこの声を一度聞いているんだ!今朝、殺人現場の公園に行った時、俺は確かにこの声を聞いたんだ。
――明海香津子・・・殺人事件の被害者。そうだ・・・これは彼女の声だ!
「リョウちゃん!」
突然祥子が叫び声を上げた。何事かと思った次の瞬間だった。
(イヤだ!死にたくない!)
明海香津子の声が聞こえたと同時に俺の身体をドンと強い衝撃が襲った。
「グウッ!」
喉奥から短い呻き声と共に俺の視界がぐらりと揺らいだ。
「リョウちゃん!!」
祥子が叫びながらこちらに駆け寄ってくる。その光景を見ながら、俺の意識は深い闇の底へと落ちていった。
「リョウちゃん!リョウちゃん、しっかりして!」
どれだけ意識を失っていただろうか。遠くで祥子の声が聞こえてくる。俺はうっすらと目を開けると、目の前に涙目の祥子の顔が映し出された。どうやら俺は祥子に抱き起されているらしいことがおぼろげに理解できた。
「リョウちゃん・・・?良かった、気が付いたんだね!」
今にも泣き出しそうな顔が一瞬で安堵の顔に変わった。
もう大丈夫だ。心配かけてすまなかった。そう言おうとしたが、口が全く開けられない。おかしいなと思っていると、俺の両手が勝手に持ち上がり祥子の身体を突き飛ばしていた。
「きゃっ!」
短い悲鳴をあげて祥子が倒れ込む。突然のことに俺は訳が分からなかった。
(どういうことだ!身体が勝手に!?)
勝手に動いた両手を見つめながら俺は困惑した。それどころか身体が俺の意思に反して勝手に起き上がり、倒れたままの祥子に近づいていく。
「リョウちゃん・・・どうしたの、いったい?」
困惑の表情で祥子が俺を見つめる。
(違うんだ、祥子!身体が勝手に!)
自分の身に起きていることを伝えようとするが口が動かず声が出ない。俺も祥子も何が起きているのか分からずにいるなか、さらに信じられないことが起きた。
「・・・チ・・ガウ・・・・・」
呻くような俺の声が聞こえた。だがこの声は俺が発したものではない。口が勝手に動いて勝手に声を発しているに過ぎなかった。
「リョウ・・・ちゃん・・・・・?」
祥子が呆然とした顔で俺を見るなか、再び俺の口が勝手に動いた。
「チ・・ガウ・・・・ボク・・ハ・・・・アケ・・ミ・・・・カ・・ツコ・・・・・」
祥子の目が大きく見開かれるのが見えた。
「・・・えっ?」
祥子の顔から血の気が引いて青ざめていくのがはっきりとわかった。
アケミカツコ・・・?俺の口から確かにその名前が出てきた。
(まさか・・・!)
俺の中で信じられない結論が導き出される。
「ボクハ・・・アケミカツコ・・・・」
再び俺の身体を使って彼女は自分の名を口ずさんだ。俺の身体に取り憑き、その主導権を自分のものにした殺人事件の被害者、明海香津子本人が。
「そんな・・・・・」
その事実に気付いて、祥子が愕然としたまま脱力する。そんな祥子を明海香津子が俺の両手を使って首を絞め始めた。
「があっ・・・・あぁっ・・・・・!」
祥子の口から呻き声が上がる。その手は俺の腕を掴み拘束を解こうともがいているが、身体が俺のものなので男の力に敵うはずもない。
(やめろ!祥子を離せ!)
俺はどうにか自分の身体の主導権を取り戻そうとするが上手くいかない。そもそも、どうやって取り戻すのかが分からない。
「イヤだイヤだイヤだ・・・死にたくない死にたくない死にたくない・・・」
俺の声で明海香津子は同じことを繰り返し呟きながら祥子の首をなおも絞め続ける。その様子はまるで冷静さが無いように見える。混乱しているのかとも思ったが、事態はそんなことを考えている状況ではない。
「・・・ぁっ・・・・・っ・・・・・」
俺の目の前で祥子の顔から血の気が失せていく。声は次第に弱々しくなり両手も力が抜けてだらりと下がり始めていた。
このままだと祥子が!そう思った時だった。
「まったく・・・お祓いなんて聞いたから、どんなものかと思って見ていたけど・・・」
突如聞こえてきた声に明海香津子の動きが止まった。その一瞬をついて祥子が両手でドンと突き飛ばすと、首を絞めていた両手が解けて祥子はその場に倒れ込んだ。祥子が激しく咳き込んでいると再び声が聞こえてきた。
「基本は出来ているけど、不測の事態に対応出来てない・・・経験不足ね。人の忠告を無視するからそういう目に遭うのよ?彼女を下手に刺激するなってアドバイスしてあげたのに」
その直後、明海香津子が右足を半歩さげるや素早い動きで後ろを振り返った。次の瞬間、俺の額に何か紙のようなものが貼りついたかと思うと、電流が流れたかのように身体がビクッと跳ねて身動きが取れなくなった。
「あらら・・・見つかっちゃった。でも残念でした。タッチの差で私の勝ちね!」
目の前の人物が得意げに勝ち誇っているようだが額に貼られた紙が邪魔してその顔を見ることが出来ない。声と貼られた紙の隙間から見えたスカートからして多神ヶ原高校の女子生徒のようだ。俺との距離が大分離れているようだが、そこからどうやって俺に紙を張り付けたのか皆目見当もつかなかった。
「なんで、あなたがここに!?」
背後から祥子の声が聞こえてくる。声の様子からして顔見知りのようだ。俺もさっきから聞こえる彼女の声に聞き覚えがあるような気がする。
「イヤだイヤだイヤだ・・・死にたくない死にたくない死にたくない・・・・・!」
身動きがとれないなか、明海香津子が俺の口で同じことを繰り返し呟いていた。
「殺されたショックで混乱しているのね、無理もないけど。あなたには同情するけど、そろそろ現実を受け止めなさい。あなたはもう死んでいるのだと・・・」
そう言いながら目の前の人物がゆっくりと近づいてくる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前・・・」
彼女が祥子の祝詞とは明らかに違う呪文を唱えながら両手の指を複雑に絡ませ、次々と印を結んでいき、そして
「急急如律令!」
最後にそう叫びながら右手の人差し指と中指で額に貼られた紙に触れた。
目の前でバチッという音が轟き、プツリと糸が切れたかのように視界がぐらりと揺れた。
「リョウちゃん!」
祥子の声が聞こえたが意識が遠のき始めて返事をする余裕がない。意識が落ちていくなか、額に貼られた紙が剥がれて目の前の人物の顔を見ることが出来た。
(なんで・・・お前が・・・・・?)
俺の目の前には、左手を腰に当てて勝ち誇ったかのように仁王立ちする天野の姿があった。
どうして天野がここにいるのか。それ以前に天野は俺に何をしたのか。分からないことが多すぎる。
意識を失う直前、脳裏にある光景が浮かんだ。
待ち人来たる――数分前に見た俺の運勢が書かれたお御籤・・・
もしかしたら、それは天野のことを指していたのではないだろうか?正直、どうでも良いようなことを思いながら俺の意識はゆっくりと落ちていった。
突如現れた照美に困惑する二人。そんな二人に照美は自らの素性を明かす。
照美の話に驚きながらも、問題が解決して安堵する良だったが、事態は斜め上へ行く予想だにしない展開になっていき・・・