―獣―
平原を通り過ぎる風鳴りの音が遠くに聞こえる。
目の前で起きている事実はまるで絵空事のようで現実味が無く見えてならない。
どういうわけか視点が低く、まるで子供と目線を合わせて話すためにしゃがんでいる時のような高さなのだ。
しかし現実味の無さはそのせいだけではないのだろう。
今そこに何ら前触れもないまま、悪夢がその咢を開き狂猛な牙を剥いていた。
その年は例年にないほどの豊作だった。どこの畑でもその成熟した穂の見事さにため息が出るほど、実りに実った金色の麦秋を迎えたのだ。人々は豊作を神に感謝し、各地で盛大に収穫を祝う祭りが開かれ人々は束の間の享楽に耽った。
狂喜乱舞の収穫が一段落すると王都より各地方へ徴兵の布告があった。豊作によって穀倉が満たされ戦費の目途が立ったためであろう。
先の戦で奪われた国土の失地回復がその旗印に掲げられ、国内全土の農村部から若い男たちが兵士として駆り出された。自身もその大勢の中の一人に過ぎない。屯田兵制度を敷いているこの国ではごく当たり前の光景だ。
そして今、王国でも屈指の“英雄”ギラを軍団長とした先遣部隊の栄えある第1部隊として前線構築に向かう行軍の最中にある。
部隊は国境近い平原を警戒陣形で進んでおり、危険を知らせる警笛も警鐘も鳴ってはいない。敵の国境防衛軍と遭遇するのは早くとも2日後の正午と斥候からの報告が昨晩あったばかりだ。それが何故…。
つい今しがたまで仲間達だったそれらのうち、彼と同郷のロイはその身を覆う鎧ごとひしゃげ、その隙間からは折れた肋骨が突出し自慢の鎧と一体化している。腕利きの樵だったフリオは頑強な下半身をどこかへ千切り飛ばされ、残った血塗れの上半身が腸を垂れ流しビクビクと脈動している。その他の仲間達も多くは赤い、あるいは赤黒い物言わぬ塊へと化していた。
…いや、まだそのいくつかは蠢きうめきともつかぬ音をかすかにあげている。しかしそれらの音も寸刻のうちに鳴りやむことだろう。
周囲に立ち込める異様なまでに濃密な生臭さ、鼻をつく打ち立ての鉄のような血の臭いにばらまかれた臓器とその内容物が放つ臭気。
突然の惨状の出現に意識が麻痺しかかるのを堪え、わが目を疑い目元に運んだその腕が見慣れない形状となっていることに彼は気付く。
たしかに方盾を握りしめていたはずの右の拳は肘から先が籠手ごと消え失せ、折れて突き出した生白い骨を赤く染め抜くがごとくに鮮血があふれ出している。
『っあ…あぁ。』
彼は嗚咽にも悲鳴にもならない声を喉から絞り出した。視覚による身体へのダメージの知覚は、ぼんやりとしていた意識を一気に呼び覚まさせると同時にそれは痛覚へと変容し、名状しがたい激痛がその身を襲う。
我知らず救いを求めてあたりを見渡した彼が目にしたものは絵空事でもなんでもない、この世ならざる凄絶な光景だった。
1隊160人で形成されている中隊を9隊で編成した1500人大隊、通称『レギオン』は縦横3隊の方陣に編成されており、左翼後方に配備されていた彼の位置から見て、右翼先頭から中心部を超え彼が配備されたところまでが赤黒い海に浸食され、彼の仲間で息のある者はほんの僅かな数に過ぎない。本来ならば指揮を仰ぐべき、かの“英雄”が居た中央の司令陣までもが壊滅状態でその原形すらないのだ。
彼の眼前には夥しい血肉の海が拡がり、振り返れば茫然と立ち尽くし恐怖に引きつった表情を亡者よりも蒼白にした生き残り達…。今やその隊列は破壊され、もはや陣形とは呼べず、各々がただ目の前の惨状に硬直している。
実に6割以上、いや7割を超えるだろう仲間達が訳の解らぬうちに殲滅されたのだ。
彼のそばに居る仲間で未だうめき声を上げている数名のうち、彼の右手後方に居たものは右下半身を抉られ千切れ飛んだ己の右足を求め這いずりながら『足、俺の足がぁぁ…。』と喚いており、左手前方に居たものは跪き、鎧ごと引き剥がされた腹からこぼれる内臓を『ひっ、ひっ…。』と泣きながらにそれを元の位置に収めようと躍起になっている。
その向こうから赤い海を貪り滴らせながら、この惨状の元凶であろう異形の獣が触手を拡げながら生存者に近づいてくる。
…あれはいったい何なのだ?焼けつく痛みの中で、視界に入るそれは彼の知見において正体不明だった。いや、その場に居る誰にもそれが“何”なのか答えを出せるものは居なかっただろう。
その思考の逡巡を獣の触手がゆっくりと切り裂いて行く…。
地を這い回りようやく千切れた右足を探し当てた兵士の頭を獣の触手が捕らえ、さしたる圧力をかける風でも無くその触手を兵士の頭ごと大地へと押し付ける。
拘束された兵士がようやく取り戻した右足を打ち捨て、その触手から逃れようと頭上に手を伸ばすもののそれは何の効果も顕わさなかった。
男の『あ、あ…』という短い苦鳴は、熟した果実を踏み潰したような『グヂュッ』という音とともに爆ぜ、それは赤い海の一部となり果てる。
また別の触手は泣いている男のこぼれた内臓を絡め取りながらその腹腔へねじ込まれた。
おそらく肺腑に残っていたのであろう空気を押し出す『ジュゴボッ、ゴプッ。』という音を上げながら、男の口からは鮮血に塗れた触手が内臓と共に溢れだし、触手は男を百舌の早贄さながらに宙に吊るし上げる。
悪魔じみたその仕業に呆然とする彼の背後をじわりと湧いた怒号が立ち昇る。
『ぅうぉああああぁぁぁっ!!!』
彼の周りから聞こえたそれは少しずつ、やがて耳にはっきりと響き、青ざめた生き残り達が猛然と獣の居る赤い海へ突貫していく。
触手に絡ませた肉塊を打ち捨ててのち一瞬、獣がにやりと笑った気がした。
彼の目の前でさらなる惨劇が始まる。真っ先に切り込んでいった兵士は触手に眼窩を穿たれ、その後頭部から桃色の脳髄をまき散らしながら倒れこみ、断末魔の痙攣にうち震え息絶えた。続く兵士たちも孔雀の羽さながらに展開する無数の触手に引き千切られ、叩き潰され、あるいは捩じ切られていく。一方的に、あまりにも一方的にすぎる力の差に虐殺としか形容できないその光景。
彼には理解できなかった。なぜ仲間はこれ以上に無いほどはっきりと勝ち目のない戦いに、むざむざ殺されることに挑むのか?忌避すべき死への恐怖はないのか?
もう、嫌だ…。ここから逃げたい…。一刻も早く逃げなければ…。恐怖に打ち据えられ身じろぎもできない肉体をよそに生存本能は早く逃げろと最大限の警鐘を鳴らし続ける。
しかし、本能と裏腹にまるで足腰に力が入らない。糸の切れた操り人形のようにその場を立つことすらままならないのだ。
幼子が蟻の群れを踏みつぶす嗜虐にも似たそれは瞬く間に終焉を迎え、彼の所属するレギオンはその役目を果たすことなく潰えた。もはや生存しているものは誰も居ない。かつて仲間だった血肉の海にくずおれている彼を残して…。
もの狂おしいほどの恐怖と絶望の淵で彼の脳裏に声が響いた。或いは、それは彼自身の声だったのか…。
『タス…ケテ……クレ。』
それが彼の覚えている最後だった。