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(完) 終焉は始まりの宴


 ミャー


 シマの鳴き声に現実へと引き戻された。

 記憶の泉を通り抜けた時のように、他人の記憶を垣間見たとは違う。

 千切り取った物語の一頁の中で、確かにぼくは主人公であろう者の中にいた。

 まるで自分で思ったことのように、心の呟きがはっきりと心に届いたのだから。

 そして初めて耳にした筈の呟きにその声に、ぼくは白く小さな姿を重ねていた。

 

「シマ?」


 カナさんの膝からひょいと飛び降りたシマが、板張りの廊下に黄色い玉を吐き出した。板張りの上でちんと座していた水滴が、黄色い玉に触れて意思を持ったように吸い込まれていく。

 面倒臭そうに首を下げたシマは、黄色い玉を舌で器用にすくい上げて口に収めると、ぶるりと身を震わせる。

 眠るように閉じられた、シマの目が開かれた。


 ミャ


 短く鳴いた声は、確かにシマの鳴き声で、シマの声色だというのに。

 抱き上げたシマの足が、右に左にとぷらぷら揺れる。


「チビ? チビなの?」


 あの記憶の中の少年がしたように、シマを背後からぐっと抱き締めた。でれっと体の力を抜いて、のんびりと足がぷらぷら揺れる。


「あの少年はぼくだね? たった一度きりの、すれ違いにも似た小さな出会いだったのに、忘れずにいてくれたの? ごめんね、ぼくには記憶がない。小さすぎて、覚えていないんだ」


 ミャ


 器用に体を捻って、シマの体がこっちへと向けられる。

 やっぱりチビだ。およそ表情のない仏頂面のシマの顔の中、くるりと見開かれたガラス玉みたいな目が、最後の悪戯だと言わんばかりにチビらしくきょろきょろと動く。


「チビ、ありがとう。迷子のぼくを導いてくれて、今回だって、何度も助けてくれた。ぼくの為に、宿る力まで失っちゃった。ごめんね」


 それがどうしたというように、ぷらぷら揺れる足を見ていると、自然と笑みが湧いてきた。


「大好きだよ、チビ」


 ミャ


 シマの体が首を伸ばし、ぺろりとぼくの頬を舐めた。

 シマの体がぶるりと震える。強い力で身を捩って、シマは板張りの廊下へと降り立った。 面倒臭そうにまったりと首を返したシマが舌を出すと、ちらちらと輝く黄色い玉が見えた。

 ぺっぺっと盛んに嘔吐くような仕草を繰り返しながら、シマが庭の奥へと戻っていく。 自分の舌でぼくの頬を舐められたのが、何とも言えず嫌だったのだろうか。くすりと笑って、ぼくは心の中でシマに感謝した。シマの体を借りてまで、会いに出てきてくれたチビにも。


「あのシマがチビの為に体を貸すなど、長年共に暮らしてきたわたしでも、目を見張る光景でございました」


 着物の袖で口元を隠し、カナさんがくすくすと笑う。


「以前カナさんに言われた言葉の意味が、ようやく解った気がします。失う覚悟、まだ出来てはいませんが」


「ああいう子らは、好いた者のためなら小石を投げるように、簡単に己の命を賭けてしまうのでございます。わたしがお慕いする方を同じように好いた者も、あの御方のために己の身を顧みることはございませんでしたからねぇ。黒い毛に身を包んだ小さな体で、守り通しておりました」


「でも大好きという、たった一言でですか? 抱き上げてしがみついていただけなのに」


「水月様と出会い、この庭に辿り着くまでの永い年月の中、その日の温もりがたった一度のものであったとしたら、それが最後の優しい記憶だとしたらな、捨てられる思いであるはずがございません」


 チビの歩いてきた道を思った。

 広くて自由で、それはどこまでも寂しい。


「あぁ、もうやってられん!」


 障子を強く押し開けて、響子さんのいる客間から水月が出てきた。

 シャツのボタンが二つほど弾け飛び、手の甲にくっきりと入った赤いみみず腫れに息を吹きかける水月を見て、カナさんがくすりと笑う。


「ありゃもう大丈夫だ。こっちが看病して貰いたいくらいだっての」


 煎じ薬を飲まされて眠ったのか、後からついてくると思った響子さんは姿を見せなかった。


「そうだ、和也に俺の腕前を見せてやるよ」


 どしりと音を立てて隣に座り込んだ水月が、腰のポケットから手の平サイズの物を取りだした。


「響子に付き添った夜、あいつが眠っている間は暇だったから、ちょちょっと作ってみた」


 得意満面にぼくの前に水月が突きだしたのは、根付けに似た短い紐が取り付けられた小さな木箱だった。溝に板を差し込んだだけの蓋には、ユリの花が一輪彫られている。


「薬草を丸めた玉とか、常備して歩くのに便利だろう?」


 携帯用小物入れといったところだろうか。


「いいな、頂戴!」


「やーだね」


 差し出したぼくの手を軽く叩いて、水月はさっさと小物入れをポケットにしまった。このクソ親父め、見せびらかしたいだけかよ。


「そのユリも水月さんが彫ったの?」


「そうだよ。けっこう上手いだろ? 好きなんだよ、ユリの花」


「ユリの花って柄じゃないよね」


「ほっとけ」


 この若さで持ち歩くには渋すぎる小物入れだったが、蓋に彫られたユリの花は、水月が本当に彫ったのかと疑うほどに繊細で、何となくぼくの心を惹きつけた。  


 立て続けに細く風が吹き込み、さっきまでより勢いを増して廊下に腰掛けるぼくの髪をふわりと持ち上げる。

 

「カナ様」


 庭に下りた陽炎は乾いた土の上に膝を揃えて座ると、すっと三つ指をついて頭を下げる。


「行くのかい?」


 陽炎を見つめるカナさんの目元は柔らかく、膝を横に崩した姿勢を戻すことなく、ゆったりと微笑みを浮かべる。


「はい。一足お先に、わたしは旅路につかせていただきたいと思います。シマは少しの間、わたしと共にいてくれるようです。いずれはシマとも違う道を進む日が来ましょうが、それまでは」


「そうかい。シマがいるなら、わたしも安心して見送れるねぇ」


 顔を上げた陽炎は、美味しくできた料理をだしてくれる時のように、可愛らしい笑みに目を細める。


「ほんの少しでも、最後までカナさんのお側に居たいというのが本音なのです。でも、苦手なのですよ、大切な方を見送って一人残されるのは」


 はにかんだように少し俯いて、陽炎は白い歯を覗かせ、ちらりとカナさんを見る。


「ですから、幾度となく夏の終わりにそうしてくださったように、送り出してくださいまし」


 陽炎はぼく達を真っ直ぐに見て、ゆっくりと頭を下げた。カナさんは切れ長の美しい目を細めて、僅かに腕を持ち上げると白く細い指先を払うように揺らす。


「いってらっしゃいな」


「はい」


 ミャー


 いつの間にか姿を見せたシマはひと声鳴くと、面倒臭そうな足取りで陽炎の膝に乗った。

 庭の背景に、陽炎とシマの姿が溶けていく。

 ぼくにとっては、チビとの別れでもあった。


 チリリン


 カナさんの腰帯で鈴が鳴る。


――カナ様、ずっとお慕い申し上げております


 最後に聞こえた陽炎の声は、鈴の音に乗って微かに耳の奥へと届けられた。


「寂しくとも、嬉しい別れにございます。それにシマも、最後の役目を終えたようでございますねぇ。もうじき此処へ客人が訪れるのでございましょう。それを知らせるのが、シマの役目でございましたから。おまえも目の敵がいなくなって、つまらなくなったろう?」


 カナさんが、腰帯の鈴を指先で軽く弾く。


 チン


 カナさんの指先が当たって鳴ったのだろうが、ただの物である鈴の音が、心なし不満そうな色を帯びていたように思えて、ぼくは耳を指先で何度か捻った。


「おや、庭の外に珍しい客人がおいでのようで。どうやらわたしへ客人ではなさそうにございます。和也様か水月様に用がある者かと」


 頷いて水月と共に庭の外へと駆け出した。

 木々が無くなった丸裸の山肌を、向こうから茶色い風が走ってくる。何かにぶつかったように跳ね返ると、含んでいた土埃を払い落として上へ上へと昇っていく。


「町の向こうの山へ行きな」


 声にはっとして横を見ると、まだ残る丈の長い草の間から、草陰のギョロ目が顔を覗かせていた。


「鬼神なら山裾にあるでかい風穴の中にいるぜ。あんたの刃で切った傷がある以上、近づけばわかるだろうさ」


「まったく、何でも知っているんだな。町も残欠の小径も、姿を消すかもしれないよ」

 

 けけけっ、 ギョロ目の甲高い笑いに、草の先がわらわらと揺れる。


「俺達は三人でぐるぐる回って商売をしているんだ。そのひとつが消えたとしても、他を探すだけのことさ」


「前は命の心配をしていたくせに」


「人の血が混じった半端物とは、死への概念が違うのさ」


 ギョロリとした目玉が、ちらりと水月を見る。


「そういうこった。こっちは先にずらからせてもらうぜ」


 ばさりと草の分かれ目が閉ざされた。背後に森が続いているわけでもないというのに、草陰のギョロ目の姿はどこにも無い。あっさりとした別れだ。これも混ざる血の違いが生む、感覚のずれなのだろうか。


「草陰のギョロ目が身を引いたとなると、あんまり悠長なことを言っている時間はないぞ」


 吹き付けては上昇する風を見送りながら、水月が顎に指を当てる。


「それなら急ごう。鬼神が居るという風穴を探すんだ」


 走る途中丸裸の山間にぽつりと立つ木が見えた。響子さんの家であり、響子さんそのものである永い時を経た大木。周りの木々を失い立つ姿は、ぽつりと一人きりに戻った響子さんを想像させて、ぼくは顰めた目をそらして前を向く。

 継ぎ接ぎの町を駆け抜けるのに、人を避ける必要は無かった。疎らに立つ人々も、いずれ此処から姿を消すのだろう。おそらくその時、住人を失ったこの町はただの空間として消滅する。

 町を抜けて山に近づいたはいいが、鬼神の臭いがするわけもない。何を持ってして草陰のギョロ目は近づけばわかるといったのだろう。


「和也、あれだ」


 水月が斜め前方の薄ら青い空を指差す。目を懲らすと、ゆらゆらと宙に舞い上がる細い糸が見えた。それらの糸は、鳥が飛ぶほどに高い場所で円を描いて集まっている。

 上空の塊から、何かが吐き出され急下降すると、土埃を巻き上げながらぼく達の横を通り過ぎ、町のある方へと去って行った。


「壁にぶち当たっていた正体はこれか」


 右の手首に意識を集中させると、ずるずると刃を据えた柄が姿を見せる。柄を強く握りしめ、水月と軽く視線を合わせて駆け出した。


 木々に覆われた山肌の一部に、大きく抉られたような洞穴があった。穴の奥から吹き出る風に髪が煽られるのを気にすることなく、鬼神は入口に座っていた。

 両膝を外に折り曲げぺたりと地面に座る鬼神は、避けた袖口から覗く白銀に染まった傷口から、細く輝く糸を一本ずつ抜きだしては、指先に摘んだそれにふっと息を吹きかけ空へと放つ。

 目の前に立つぼく達に一瞥をくれることさえないまま、鬼神はぽつりぽつりと言葉を漏らす。


「ぼく達が入れ替えられたのは、たまたま目に留まったから。父親の元から迷子になった君、神隠しというのかな。知らず知らずのうちにほんの一瞬、こっちの世界へ迷い込んだことのあるぼく。誰かが通って繋がりを持った空間は、たとえ細くとも二つを繋ぐ道ができる。同じ年頃の子を、入れ替えたのは些細な気晴らしだったのかもしれないよ。まだ親に抱きつき、愛されて当然の幼い子を選んだのは、ただの嫉妬にすぎない」


 ふっと吹きかけられた息に黄緑色の糸が、上手く泳げない魚みたいに身を捩って昇っていく。


「違うかな、自分が受けた傷を違う形で他人に与えることで、苦しむ姿を見ることで、自分の傷を癒そうとしたのだろう。そんな愚行を重ねても、受けた傷は開くばかりなのにね。あぁ、愚行を繰り返したのは――ぼくか」


 糸が抜けていくごとに、鬼神から抜け落ちていくであろう他人の記憶は 、鬼神と呼ばれた魂を元々の少年の心に戻していくようだった。


「あんたは息子を奪った者としてぼくを追っていたけれど、最初に会った時以降はすでにぼくが意識を乗っ取った後だから。その意味では、恨む相手を間違えているよ」


 鬼神を前にした水月の視線は、ぼくでさえ背中がぞわりとするほどに冷たく固い。

 探した敵が鬼神の体内に眠っているのなら、目の前に居る者が少年の姿であることが、今の水月を止める楔にはならないだろう。


「水月さん、駄目だよ。水月さんの拳では何も変わらない。たとえ腰に隠した物を使ってもね」


 驚いた表情で水月がぼくを見る。腰に潜ませたのは刃物だろう。腰に当てた手をゆっくりと下ろし、険しい表情のまま水月は小さく頷いた。


「これで最後だ」


 ぼんやりとした表情で空を見上げる鬼神の指先から、白い糸が放たれる。

 眠たそうな表情でうつらうつらと目を閉じた、鬼神の肩がぴくりと跳ねた。

 ゆっくりと瞼を開けた表情は、同じ顔立ちだというのにまったく別人のものだった。


「君は、ぼく達がオリジナルと呼んでいた魂だね?」


 少年はこくりと頷く。


「ぼくを殺して、君はそういったけれど、その必要はもうないみたいだよ。もちろん、最初からそんな事をするつもりはなかったけれどね」


 少年の口元が笑みを模り、子供らしい白い歯が覗く。


「最初にぼくを押さえつけた奴は強くて、ぼくは深くて暗いところで、何をしているかを感じることしかできなかったんだ。鬼神と呼ばれたこの子を取り込んだ時も、あいつはこの子の魂が苦しむのを味わいたかっただけだから。ぼくを押さえつけたように、泣いていたこの子も簡単に押さえ込めると思ったんだろうね。でもね、時が経って力関係は一気に入れ替わった。この子は悲しみと憎しみを糧に、力を付けていたから」


 少年の胸の辺りがぼこりと盛り上がる。胸を押さえて顔を顰めた少年は、大きく息を吐いてぼくを見る。


「上空に浮いているみんなが動き出したら、この空間はそれほど時間を措かずに閉じてしまうよ。ぼくもね、やっと道が見えてきたんだ。あそこに行けば、きっと終わりに出来る」


 少年の言葉に、ふとカナさんの庭を思い浮かべた。

 脈打つように盛り上がった胸に、再び少年は顔を歪める。


「巻き込まれないように逃げてね。お兄ちゃん、ありがとう」


 苦しそうに、それでも笑顔を浮かべて少年が瞼を閉じる。

 他者に弄ばれるばかりだった少年の魂が自由になれるなら、今までの騒動も悪くはなかったと、少しだけそう思えた。

 閉じられた瞼が開いて、ぼんやりと鬼神が視線を泳がせる。

 ぼくは手の中の白銀の刃に祈るように指を滑らす。人肌に似た温もりが増して、刃がぼくの意思を受け入れたのだと思った。


「鬼神と呼ばれた、君に見せたいものがある。君のお兄さん達に向けて、お母さんが微笑んでいる姿。本当なら、君にも毎日向けられていたはずの、温かい視線だから」


 差し出した刃に伸ばされた鬼神の指先は、小刻みに震えていた。

 子供そのものである細い指が刃に触れて、奥に眠る鬼神が弾かれたように目を見開く。 大きく開かれた目は左右に忙しく動き、目の前の景色を映していないのだとわかるものだった。


「お母さん……」


 とてもうっすらとだったけれど、鬼神の口元に笑みが浮かんだ気がした。

 胸を押さえて呻くと、すっかり抜け落ちていたはずの冷徹な鬼神の眼差しで、自分の腕に口を広げる白銀の傷に指先をねじ込む。


「くだらないとか、止めておけとかは言わないでよね。嫌ってほど解っているから。生憎ぼくは、他人の記憶を垣間見て知識だけが肥大した幼子でね。頭では解っていても、感情がついていかないんだ」


 傷口から引きずり出されたのは、てらてらと灰色に身をぬめらす、芋虫を思わせる塊だった。全てを狂わせ、鬼神と呼ばれることになる魂を取り込んだモノ。腐りきった魂が、おぞましく姿を変えて潜んでいたのか。

 鬼神の手に強く握られて、力なく身を捩る。


「こいつが苦しむ様子を眺めていようと思っていた。でも、もう止めたよ。こいつだけは、許せない。どうしても、駄目なんだ」


 ぐしゃりと嫌な音を立てて、鬼神の手が強く握られた。止める暇さえなかった。握り潰された塊が、粘液質な液体となって地面に落ちる。

 止めることができたなら、傷ついた鬼神の魂の行く末を少しは変えられただろうかと、ぼくは悔しさに眉根を寄せた。


「そんな顔しないで。同じように居場所を失ったというのに、君とぼくではずいぶんと立ち位置が違ってしまったね。あの魂達も、ぼくに取り込まれた時点で進むべき道を失っている。家に帰れなかった失望は、触れるだけで彼らの道を奪うほどに、淀んだものだったのだろうね。謝る気はないよ。謝るべきことが何かなんて、してはいけないことが何かなんて、教えてくれる人はぼくには居なかったんだから」


 かけるべき言葉が見つからずに視線を落とした先で、手の中の刃が消えていく。白銀の蒸気となって、天へとくゆり昇る。


「君もそろそろ行きなよ」


 空を見上げて鬼神がいう。


「君にも行き先はあるよ。受け入れようとしてくれている人が居る」


 小石を取りだして、鬼神の膝先に置いた。


「へえ、そうなんだ。しばらく眠れるなら、何処だって構わないかな。ぼくが消えれば、それほど経たずに上空の魂は一気に動き出すだろうから、その渦に巻き込まれちゃいけないよ。教えてあげたからって、勘違いしないでね。ぼくはやっぱり、君のことが大嫌いなんだ」


 座ったままの姿勢で、だらりと鬼神の手が落ちた。閉じられた瞼の隙間から、涙が一粒こぼれ落ちる。黒い涙はそろりそろりと這うように鬼神の頬を伝い、浴衣の裾からはみ出た膝まで辿り着くと、ぽとりと小石の上に身を落とす。

 黒い涙が、小石へと吸われていく。


「終わったな」


 呟く水月に頷いて、ぼくは小石を拾い上げた。二つの魂を宿した小石を握りしめ、水月の肩を叩いて走り出す。円を描いていた上空の塊は、不規則な動きで渦巻き始めていた。一本の糸が生みだすのが細い一筋の風だとしても、あれほどの数になればどれほどの勢いがつくのか想像さえできなかった。


「小屋にいる佐吉達にも知らせないと!」

 

 全力で走るぼく達の背後で、音を立てて風が鳴る。佐吉の小屋に辿り着くまで、留まってくれと祈りながら走り続けた。

 

「急げ和也!」


 地鳴りを伴って吹き付ける茶色い風の渦がぼく達に追いつく寸前に、なんとか小屋の中に体を滑り込ませた。風に煽られ、小屋ががたがたと屋根を鳴らす。


「終わったよ」


 転がって倒れたままの姿勢で、握りしめていた小石を見せる。佐吉と宗慶、雪は神妙は面持ちで小石を眺めていた。


「この町はもうすぐ消失するらしい。それを知らせたくて」


「そうか」


 ぽつりと佐吉がいう。


「ぼく達と一緒に、カナさんの庭へ行かない? あそこ意外に安全だと思える場所はないんだ」


 ぼくの誘いに、佐吉はゆっくりと首を横に振る。


「おまえがいない間に、話し合っていたんだ。俺達は、もう少しあちらこちらをぶらついてみることにした。俺達にもまだ、やれることがあるような気がしてな」


 思ってもいなかった返答に、どう言葉を返して良いのか戸惑っていると、宗慶が膝を折ってぼくの肩に手を置いた。


「望む物は、それぞれでござるよ。雪殿も、共に空間の隙間を抜け新たな地へ向かうと決められた」


 頷く雪の表情は、どこか晴れ晴れとしたものだった。


「そっか、この小屋がそれぞれの道への分岐点になるってわけか」


 水月の言葉に少しだけ希望を感じたぼくは、立ち上がってみんなを見回した。


「今までありがとう。ぼく達は先に行くよ」


 外へ出て振り返った戸口の隙間から見えたのは、胸の前に片手で拳をつくり、慣れない様子で手を振る雪の姿だった。


「がんばって……ください」


 雪の声にぼくは笑顔で答えた。なんだ、やっと言えるようになったじゃないか。


「行くぞ!」


 水月の背を追って走る町の通りに、人の姿は見当たらない。

 確かに踏みしめている大地も、そこにある建物も消失するという実感がわかなかった。町を抜けて禿げ山の道を走っていた水月が急に立ち止まり、それにぶつかってぼくは鼻を押さえる。

 大地を揺らす振動が、大きな風の塊が何度も壁にぶつかっているのだと知らせてくれる。


「響子だ」


 言われて前を見たぼくは、鼻の痛みを忘れて声が漏れそうになる口を押さえた。

 透明な壁の前で渦を巻いてぶつかり続ける風の傍ら、地に膝をつく響子さんの姿があった。

 含んだ土埃をすっかり払い落として透明となった渦の中、色とりどりの糸が乱れ飛ぶ。遙か空の彼方から僅かな裂け目を抜けるように降ってくる糸達は、鬼神の力が弱まった隙に、一足先に町を抜けだした魂だろうか。

 両手を広げた響子さんの胸が激しく波打ち、折り重なって無数の糸が吐き出されていく。 魂の残滓を舐め取るように、ゆっくりと風が巻いては吐き出された糸が吸い込まれていった。

 最後に少し長めの白い糸が這いだして、響子さんの体が後ろへと傾ぐ。駆け出した水月が響子さんに覆い被さると同時に、糸を孕んだ風が轟音を上げて垂直に登り始めた。


 ガシャリ


 何かが砕けた音が響く。

 見えない壁に沿って加速を付けて昇る風の渦が、カナさんの庭の方へと一気に流れ込む。 息もつ吐けないほどの風圧に、思わずぼくは顔を覆った。

 指の隙間から見えたのは、押し寄せる風の名残に髪を逆立てながらも、倒れた響子さんの上に覆い被さる水月の姿だった。

 庭へと走り去った風の渦を追うように、後から流れてきた風の塊が幾度も吹き抜け、ぼくは何度も足をふらつかせる。

 やっと止んだ風に水月の元に駆けつけると、風に飛ばされた小石か何かに傷つけられた跡が、頬と腕に赤い筋を刻んでいた。


「響子さんは?」


「最初から決まっていた役目だ。おそらくは大丈夫だろう」


 傷がひりつくのか、水月は指先で血を拭い舌でそれを舐め取った。

 響子さんは上半身を水月の膝に抱きかかえられたまま、穏やかな表情で眠っていた。蓮華さんのこと、己に内包した魂の残滓。苦しみながら覚悟を決めたであろう寝顔は、とても穏やかなものだった。


「息が落ち着くまで少し待ってくれないか。風が吹き荒れている間、まともに息さえ出来なかったんだ」


「うん。待っているよ」


 肩で息を吐く水月を、ぼくは少しだけ頼もしく思う。

 言葉で伝えるのは恥ずかしいから言えないな。口ではクソミソに言いながらも、響子さんを守ろうとした水月が、父親であることが誇らしかったんだ。


「響子が吐き出した魂の残滓を取り込んだ糸は、自分を取り戻したと思うか? カナの庭へいっていったい何をする気だろうな。早く行ってやらないと、カナが不味いんじゃないか?」


 水月の言葉にぼくは首を横に振る。


「多分ね、大丈夫だと思うよ。カナさんが言っていたじゃないか。もうすぐ客人が来ることをシマが知らせたって。カナさんは、最後の一人である客人を待っていたんだ。魂の残滓を取り込んだ糸は、カナさんの庭で道を見つける。きっと、見つける」


 風が止んで、水月の息も収まった頃、ぼく達はカナさんの庭へと向かった。気を失ったままの響子さんを腕に抱き上げて、水月が先を行く。

 今回はさすがに、乱暴に肩に担いだりはしないんだ。そんなことを思うと小さく笑いが漏れた。


「何を笑ってんだ?」


「笑ってないよ。ねえ、水月さん。ぼくは幼い頃、水月さんをどんな風に呼んでいたの?」


「お父様だ」


 ぼくは声を上げて笑った。


「嘘つき! 父ちゃんでしょう? チビの記憶で見たんだよ」


 ちぇっ、と水月が舌を打つ。


「なぁ和也、いっそのこと何処か安定した場所で、小さな店でも造らないか? 小屋みたいな小さなもんでいいから一緒に建てて、そこでちっさく商売するんだ。その日に食える分だけ稼げればいいだろう?」


 確かにあれだけの小物を作る腕があれば、そこそこの儲けにはなるだろう。ぼくの料理だって、あの店の常連客以外になら受け入れられるかもしれないし。いや、間違いない。楽しそうに話し続ける水月の背中を見ながら、これから先の日々を思った。

 心配をかけた分、親孝行の真似事くらいしてみようかと思う。

 ぽつりぽつりと浮かんでは消える、懐かしい常連客達の声と笑顔を、頭を叩いて振り払う。


「庭を出たら、良さそうな木の枝を拾っていこう。材料集めは必須だろ? 料理を造る為に火を起こすにしても、薪は必要だからな」


「気が早いな、水月さんは」


 不意に振り返った水月が足を止める。


「俺と一緒に……来るよな?」


 不安そうな目元に胸が痛む。


「うん、行くよ。子供の頃に可愛がって貰えなかった分、めいっぱい甘やかして貰う」


「それは全力で断る!」


 響子さんを抱く水月と二人、笑いながら歩いた。

 失った時間が巻き戻されると音が、重なる笑い声となって響く。

 こんな幸せもあるのだと、幼い日から消えなかった胸を刺す棘が消えていく。


 カナさんの庭に一歩入ると、話し続けていた水月がぴたりと口を閉ざした。

 見慣れた板張りの廊下から庭に下りた辺りで、力を抜いた両手を下げたカナさんが、僅かに天を仰いで瞼を閉じて立つ姿は、空気の流れさえ止まりそうにしんとしたものだった。

 庭に立ち入ったぼく達の気配を感じたのか、カナさんが静かに目を開く。


「お帰りなさいませ。たった今、最後の客人が先の道へと進んで行かれました。最後にお一人と思っておりましたのに、ずいぶんと大勢の方がいらっしゃいました。響子が魂の残滓を戻しておりましたから、道はあるのだと指し示すだけで、盲目の目が開いたかのように散って行かれたのでございますよ」


「そうですか、良かった。残欠の小径が消失するまで、あまり時間はないと聞きました。カナさんはどうするのですか?」


「外の空間の歪みは、この庭には及びませぬ。この庭がわたしと共に終焉を迎えるまで、少しの間、永く共に在ったこの庭を、愛でていたいのでございます」

  

 いつもと変わらぬ様子で、板張りの廊下に腰を下ろすカナさんの胸の内は解らない。


「あまり時間は残されておりませんが、響子をあの木の元まで運んでやってくださいませ。何が起ころうと、あそこが自分の居場所だからと頼まれたのでございますよ。朽ちるなら、あの場所が良いのだと申しておりました。苦しみも、楽しさもあの場から始まったのだからと」


 カナさんはいつだって、相手の思いを尊重する。その先に痛みが待っていようと、進もうとする者の肩を静かに押しやる。


「わかりました。それで、蓮華さんはどこに?」


 まだ歩けないのなら、ぼくが担ぐしかないと思った。


「蓮華は、すでにこの屋敷を後にしております。ここには、おりませぬよ」


 そうだった。響子さんと蓮華さんを繋いでいた管は既に断たれ、蓮華さんは自由を得た。そして、その自由を響子さんも望んでいた。

 

「それならこのまま響子を運ぶ。この屋敷の裏に流れる川の向こう岸に、裂け目から流れ込む風を感じるが、間違いないか?」


「はい。川の向こう岸はこことは異なる世界にございます。此度の揺らぎに、歪みが生じたのでございましょう」


「響子を送り届けたら庭に戻って、俺と和也はその裂け目から抜け出るとしよう。それまでは、この庭を閉じないでくれよ」


 ゆったりと微笑みを浮かべ、カナさんは小さく頷いた。


「畏まりました。無事にお戻り下さいますように」


 板張りに腰掛けたカナさんが、膝の上に細く白い指を揃え深々と頭を垂れる。

 その姿にじっと見入っていた水月が、ゆっくりと頭を下げ踵を返して走り出す。いったいどこに体力が潜んでいるのかと思うが、響子さんを抱えたまま水月は一定のスピードを保って走り続ける。人の血がぼくより薄い分、体力にも人とは違う部分を多く残しているのかもしれない。

 響子さんの木が見えた。ふと目をやると、離れてはいるが町がある方角の景色が歪み始めていた。


「水月さん、まずいよ。急ごう」


 今にも押し寄せてきそうな歪んだ景色に舌打ちして、水月は速度を上げた。

 地下の部屋へと繋がる扉は、鍵さえかけていないのかあっさりと開いた。階段を下りていくと、部屋に灯された明かりが漏れて足元を照らしてくれた。

 火元を消し忘れるとか、響子さんのずぼらさにはほとほと呆れる。この先、本当に大丈夫なのだろうか。響子さんの心は、頬と同じように傷を刻んだりしないだろうか。


「お待ちしておりました」


 聞き慣れたはずの声に、一瞬心臓が跳ね上がる。蓮華さんが、いつもと変わらぬ姿勢で折り目正しく礼をしていた。蓮華さんの声に、響子さんがうっすらと目蓋を開く。


「馬鹿者が……」


「はい」


 力ない響子さんの声に、蓮華さんが応える。


「空間が閉じたら、また二人きりになるのだぞ」


「はい」


「身動きがとれないほど、狭い空間しか残らないかもしれないというのに」


「はい。繋ぐ管が断たれても、わたしは響子様の宿り木でありたいのです。自由になった宿り木が、新たに自分の意思で選んだのが、響子様であっただけのこと。よろしいでしょう?」


 悪戯っぽく笑う蓮華さんに、響子さんの頬の傷が引き攣る。


「勝手にしろ」


「はい」


 安堵からぼくの表情も自然と緩む。見えてしまったんだ。苦々しげに顔を歪める中、視線を背けた響子さんの目元が、ほんの一瞬笑みを模った。


「俺は響子を横にさせてから直ぐに庭に向かう。和也は先に帰って、小石をどうにかしておいてくれ。まさか持っては歩けないし、あいつらもそれを望みはしないだろうからな。終わったら、庭の廊下で待っていてくれ。直ぐに行くから」


「そうする。時間がないから、水月さんも急いでね。蓮華さん、響子さんをよろしく」


「頼まれる覚えはないぞ」


 ふて腐れた声をだした響子さんを、水月はひょいと肩に担ぎ上げる。意識を取り戻した途端、ずいぶんな扱い方だ。


「和也様も、お気をつけて。本当に、感謝しております」


 結局のところぼく自身は何もしていない。

 片手の空いた水月が、ぐしゃぐしゃとぼくの頭を撫で回す。


「禿げるって!」


「俺が禿げてないから大丈夫だ。気を付けて行くんだぞ。立ち止まるな」


 目尻に皺を刻みながらぼくの髪を逆立てていた、水月の大きな手が離れていく。


「響子さんも、元気でね」


 手を振って階段を駆け上がる。振り向かずに別れよう、陽炎さんを送り出したカナさんのように。これは嬉しい別れなのだから。


 外に出ると空間の歪みは更にこちらへと近づいていた。水月のことだから、逃げ遅れることはないだろうと思う。ポケットから出した小石を握りしめ、カナさんの庭へと走った。

 背後からパリパリとガラスに亀裂が入るような音が追ってきている。


 庭に足を踏み入れると、追ってきていた音がぴたりと止んだ。やはり此処は、まったく違う空間なのだと、改めて思い知る。


「カナさん、水月さんは直ぐに後を追ってきます。それまでに、この小石をどうにかしたいんです。鬼神と少年が宿る小石を、彼らが安堵できる場所に委ねたいから」


 駆け寄ったぼくの手の中にある小石を見て、カナさんはすっと屋敷の裏を指差した。


「裏を流れる川に、小石を捨てられるのがよろしいかと。あの川は、どこの世界にも属さぬ川でございます。あの水に流されて、この石に宿る魂も少しは清められましょう」


 カナさんに礼をいって、ぼくは屋敷の裏へと回る。

 大小の石が転がる河原の向こうに、緩やかに流れる川があった。

 

「鬼神と呼ばれた君の心が、あの日の小さな子供に戻れる日が来ることを心から願うよ。君は希神という名を捨てて、ゆっくり休んで欲しい」


 手の中の小石を、そっと撫でる。


「ふたりに、安らかな眠りを」


 流れる川に小石を投げ込んだ。ぽちゃりと音を立てて、小石を呑み込んだ川面は何事も無かったように流れ続けている。


「屋敷に戻って、水月さんを待とう」


 子守歌のように、さらさっらと川の流れがぼくの背中を包み込んだ。


 

 板張りの廊下の上でカナさんは壁に背を預け、いつものように膝を横に流して座っていた。


「カナさん、ぼくは今までそれほど多くの人と関わって生きてこなかったから、これほど一度に身近に思えた人を失うのは、正直辛いです。短い時間だったけれど、密度が濃すぎて一生分を過ごした友人を手放した気分です」


 カナさんは、涼しげな目元を細めてぼくを見る。


「別れが意味を持つのは、時が過ぎてからのことでございましょう。別れに意味を持たせるのは、後に流れる時の中、何を成したかということでございます。和也様が老いの季節を迎える頃には、この別れもはっきりとした意味を成していると、そう思うのでございますよ」


 そういうものか。ぼくにはまだ解らないけれど、寂しい記憶が色を変えていくならいいな。

 ぼくは尻ポケットに入れていた封筒を取りだし、紙の切れ端を取りだした。


「カナさん、これはシゲ爺という人が自分の日記から千切り取ったものです。こう書かれています。この子が迷った時には、あの場所が導いてくれるだろうか。あの場所とは、シゲ爺が目にしたことのある、この庭とカナさんのことでは?」


「そうだとしても、すでに必要のないことでございましょう?」


 微笑むカナさんの言葉に頷いて、ぼくはその紙をポケットにねじ込んだ。シゲ爺は、優しすぎる。優しすぎて、苦しかったろうに。


「水月さん、少し遅いけれど大丈夫かな? 目を覚ました響子さんに殴られて、昏倒してなければいいけれど」 


 くすくすとカナさんが笑う。


「水月様は、根っからの男でございます。数多の男は存在すれど、本物の男に出会えるのは希なこと。水月様と、一緒に行かれるのですね」


 確かめるようにぼくの顔を覗き込むカナさんに、ぼくは笑顔で頷いた。


「店を開きたいそうです。手伝うことで、少しは親孝行になるかなって」


「水月様は、幸せな男にございますねぇ。そして和也様も、幸せ者でございます」


 よくは訳のわからないまま曖昧に返事をして、ぼくは立ち上がり庭の奥を眺めた。

 廊下で待っていろといわれたが、肝心の水月が来なくてはどうしようもないだろう。

 うろうろと歩き回っていたぼくは、廊下の壁と壁を繋ぐ柱にすっと目を奪われた。


「これって、水月さんの作った小物入れじゃないか。落とさないように置いていったのかな」


 くれないとは言ったが、見るくらいならいいだろう。気に入っていた蓋の彫刻は、改めて見ると思った以上に繊細で、その背後には池らしきものと水面に揺らぐ月も彫られていた。


「変なところで繊細なんだな」


 小箱を裏返そうと少しだけ力を込めた指先に、溝にはめられただけの蓋が開く。ついでだからと、こっそり中の造りを覗いてみる。

 吸いかけた――息が止まった。

 小箱の底には、荒削りに彫り込まれた水月の文字。


『母さんの名はゆり』


 微かに震える手に握る、板状の蓋の裏側が目に入る。


『題 ユリに添う水面月』


 そうか、水月は、今でも母さんを忘れてはいないのか。傷つけないように、そっと蓋を閉め直す。

 顔も知らないけれど、水月が母さんを想い続けていてくれたことが嬉しかった。  

 

 チリーン


 庭に鈴の音が渡る。

 気付けば直ぐ横にカナさんが立っていた。


「カナさん?」


「最後の頼まれ事ですゆえ、この手にて」


 カナさんの指先が、とんとぼくの肩を突く。軽い力だというのに、突かれた肩から後ろへ向けて体が傾いだ。よろめいて数歩下がりながら更に傾ぐ体は、背後にあるはずの柱の抵抗さえ感じることなく、何処までも沈んでいく。


 リーン


 世界を隔てるように、鈴の音が鳴る。


「依頼主は、水月様にございます」


 この耳に届いた最後の言葉だった。水月は最初から戻らないつもりだったのか。振り返るなといってぼくの頭を撫で回した水月の声に、手の感触に唇を噛む。

 まるで水に潜って水面を見上げているようだった。揺らぎの隙間に、時折はっきりと庭の風景が見てとれた。

 足を横に流して廊下に座るカナさんの眺める先で、奥から流れ込んだ水が庭に溜まっていく。

 湖に木々が生えたような幻想的な光景の中、木々の隙間を縫って小さな緒木船が、ゆらりゆらりと寄ってきた。 

 櫂を漕ぐ男とは別に、細身の男が乗っていた。肩に黒い毛の塊が乗っている。緒木船が廊下に着けられるとカナさんは立ち上がり、船の上から差し伸べられた男の手にそっと自らの手を添えた。

 手が触れた瞬間、はっとしたように男の目が見開かれ、それから泣きそうな顔で微笑んだ。

 そうか、庭を離れると決めて、カナさんを縛っていた理の鎖が解けたのか。触れることさえ出来なかった人に、やっと触れられたんだね。

 カナさんが乗り込むと、とんと廊下に櫂を突いて緒木船が離れていく。

 背を向けたカナさんの表情は見えなかったが、隣に腰を下ろし、守るように肩を抱く男の横顔が優しく笑っているから、きっとカナさんも微笑んでいるのだろう。

 庭の奥の木の影に緒木船の姿が消えて、視界から明かりが消えていく。

 また独りになるのか。

 ぼくは目を閉じて、沈む感覚に身を委ねた。




 目覚めたとき、ぼくは電柱に背を預けて、知らない町の中にいた。


「大丈夫かい兄ちゃん?」


 声をかけてくれた中年の男性に礼をいい、知らない町を見回した。足元に転がっているのは、ぼろぼろになったぼくの鞄。これがここにあるということは、おそらく響子さんも共犯者なのだろう。手の中には、ユリの小箱があった。


「また職探しかよ」


 顔を顰めてみたが、悪い気分ではなかった。失ったものが大きすぎて、今すぐには心の整理がつかないけれど、水月に後悔させることだけはしないでおこう。


「父さんて、一度くらい呼べばよかったな」


 目の前の看板を見て、ぼくは足先を駅へと向けた。行く先は、自分で選ぼう。





 こっちへ戻って数ヶ月が経ち、妙な力が無くなっていることに気付いた。手首の傷はまだうっすらと残ってはいるけれど、ぼくはただの人だった。

 ある日ずっと避けていた場所へと足を向けた。どうせ誰もぼくを覚えてはいないのだから、通りすがるくらいは平気だと思った。

 懐かしい商店街を見知った顔が何人も歩いて行く。以前のように声をかけてくれる人はいないけれど、歩いているだけで懐かしくて温かい気持ちになれる。

 喫茶店の前は、黙って通り過ぎるつもりだった。けれど、うっかり見てしまった張り紙に思わず足が止まる。


『アルバイト募集! コーヒー淹れるの得意な人、料理出来る人求む!』


 彩ちゃんの字だ。

 街灯の灯りに虫が逆らえずに飛び込むように、ぼくは店のドアを開けてしまった。


「いらっしゃい!」


 モスグリーンのキャミを着た彩ちゃんが、もの凄い勢いで動き回っている。店の中は常連客で埋め尽くされていた。


「ごめんね、満席なの。食べ終わった順に直ぐ追い出すから、ちょっと待っててね!」


 指先でキャミの紐を弾いてウインクすると、彩ちゃんのポニーテールが元気に揺れる。


「あ、いやぼくは……」


「あぁ! もしかしてアルバイト希望? やったー、もう死にそうに忙しいの。何人も面接を受けに来たのに、このオッサン連中が全員駄目だって雇わせてくれないんだもん」


 ふくれる彩ちゃんに、ケケッっと常連客達から笑いが起こる。


「だってよ、根暗っぽいのとか、ヤケに真面目臭いのとかロクなのいなかったじゃん。しかもコーヒー淹れさせても下手だしよ」


 そうだそうだー、と店内からヤジが湧く。


「煩いぞ! このままじゃわたしが過労死しちゃうんだからね!」


 ぷぅっと頬を膨らませるなんて、前の彩ちゃんにはなかったことだ。ぷっくりと頬を膨らませて腰に手を当てていた小花ちゃんを思い出して、ぼくはこっそりと笑う。


「とりあえず、コーヒーを淹れてみてくれる?」


 断るタイミングを完全に逃した。強引に手を引かれて厨房へと入る。


「美味いの淹れろよ-」


「あぁ、俺さ、クリームのっけてね。だっぷりと」


「俺はさ、熱すぎないホットで」


 厨房に立った途端、ここに居てはいけないんじゃないかとか、覗いただけだとか、そんなことは頭から飛んでいた。


「はい、お任せを!」


 フィルターの中で豆が茶色く粟立ち、豊かなコーヒーの香りが店内に満ちていく。クリームだって? クリームっぽいものの間違いだろうに。

 たった三杯のコーヒーを淹れるのが、楽しくてしかたなかった。


「はいどうぞ」


 それぞれの前にコーヒーカップを並べる。

 試してやる、みたいな表情でコーヒーに口を付けた常連客達の表情が変わっていく。


「うわー、美味いなこのコーヒー」


「このクリームなんだ? クリームっぽいけど、クリームじゃないよな? でもウマ!」


「あぁ、熱っちくないコーヒー。絶妙の湯加減」


 風呂か! と危うく突っ込みを入れそうになる。


「彩ちゃん! この子に決定! ぜったいこの兄ちゃん!」


 勝手なことをいう常連客に、彩ちゃんが大きく息を吐く。


「雇うのはわたしなのにな、もう!」


腕を組んで常連客を睨み付けた彩ちゃんが、にっこりとぼくに笑顔を向けた。


「そういう訳で、採用ね! 今から働けると嬉しいな。だって忙しいんだもん。それじゃ、取りあえずエプロンつけてね!」


 店内から拍手が湧き上がる。この軽いノリは相変わらずか。

 というより、ぼく意思は無視? 

 何となくポケットに入れてきたシゲ爺の推薦状を、ズボンの上から触ってみる。シゲ爺、必要無かったみたいだよ。

 戸惑いながらエプロンを着けていると、背後からごつい手に肩を掴まれた。


「おう新入り。ここで働くんなら秘守義務は絶対だぞ」


 低い声で囁いたのはタザさんだった。秘守義務という言葉に、思わず心臓が締め付けられる。


「それっていったい……」


「彩はな、前はそんなもの口にもしなかったのに、ここ最近甘いココアばっか飲んでやがるんだ。それで増え続けているのが、こっそり毎晩計っている体重だ。常連客に増えた体重のことをばらしてみろ。瞬殺されっぞ」


 ぽかんとした表情でタザさんと顔を見合わせた。次ぎに込み上げてきたのは、押さえようのない笑いだった。


「ほらそこ! 遊んでないでお仕事!」


「はーい」


 きゅっとエプロンの紐を締めて厨房へと戻る。


「おーい、アルバイトの兄ちゃん! すっごい甘いコーヒーひとつ」


「アルバイトの兄ちゃん! なんか飯作ってよ」


 自然と顔がにやりとする。

 久しぶりに、ラー油入りのパスタといきますか。


「はーい! ただいま」


 コーヒーの香りに包まれて、ぼくは大きく一歩踏み出した。




読んで下さったみなさんありがとうございます!

この物語に最後までお付き合いいただけたことに、心より感謝です!

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