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27 黒い大刀


「水月さん、いったい何をいっているの?」


 水月の双眸から鋭い光りがすいと消える。いつもの柔和な笑顔に目尻が幾本もの皺を刻んだ。


「ほら、本気で鬼神を追うなら、俺の記憶が役に立つと思ってな。別に鬼神のように魂の全てを奪えといっているわけじゃない。俺だって生きていく限り、人には見られたくない記憶の一つや二つ持っているしな。だから魂の一部なんだよ。鬼神を追い詰めるのに必要な経験と知識。それが有ると無しでは事の進みが違ってくる。俺の記憶が役に立つ」


 言われてはいそうですか、と返答できる内容ではなかった。

 たとえ一部でも魂を奪われたなら、水月はどうなるだろう。

 彩ちゃんと雪のことが脳裏に浮かぶ。前に進むために、無邪気で素直な感情を切り離して生きてきた彩ちゃん。どのような記憶であれ、記憶を取り戻して人が変わったように目に光りを宿した雪。 水月だって見えない何かが変わってしまうのだろう。

 なにより自分に魂をどうにかする芸当ができるとは思えなかった。


「鬼神を追い続けた記憶をぼくが奪ってしまったら、水月さんの思いはどうなりますか? 長追いし過ぎたとさえいえる鬼神を、水月さん自身は諦めるのですか?」


 水月は新しい茶を口に運びながら、うーんと視線を上へと向ける。


「諦めるのとは違うな。和也に託すのさ。埒のあかないこの鬼ごっこに、おまえさんなら終止符を打てるかも知れないってな。中年の希望的観測だ」


「そんなこと、したくありません。水月さんの中に眠る知識も経験も、それは水月さんのものだ。水月さんの口でぼくに助言して下さい。それで十分だと思います」


 わかってないな、と水月は頭を掻く。


「会う時はいつも、のんびり茶を啜っているとは限らない。ほんの一瞬の迷いが生死をわける中、助言が何の役に立つ? 呼びかける前にお陀仏だ」


 そうかもしれない。ぼくの考えも覚悟も、水月から見たら吹けば飛びそうなガキの決意に過ぎないのだろう。それでも今のぼくには精一杯だから、これ以上抱え込めないよ。


「ぼくが駄目になっても、まだ水月さんがいる。そんな気持ちの余裕が欲しいです。正直今はぼくの中の引き出しは満杯です。水月さんの記憶を取り込んだりしたら、何かが破裂しそうです」


「死なせやしないさ」


 二度も死なれてたまるもんか……最後の言葉はほとんど呟きだった。

 ぼくに聞かせようとしたというより、自分に言い聞かせた思いが思わず口から漏れたような。


「水月さん」


「なんだ?」


 水月の表情に、さっきの言葉の影は微塵も残っていない。

 聞けなかった。


「もう少しだけ、考えさせて下さい。いつかどうしても、という日がくるかもしれない。でもね 基本的にはお断りします。水月さんは、ぼくの内からじゃなく、外からサポートして欲しいから」


 呆れたように溜息を吐いて、水月は仕方なしなしといった様子で頷いた。


「急ぎの用があるときには、雪を使いにやるよ。あの子は気付いた時にはすでに小屋の中にいて、入り口の戸の前に傅いていた。自分が鬼神に呑み込まれることは、決して良い結果は産まないのだと。生まれ落ちた定めと思って、欲に塗れた鬼畜の為に命を賭けて影を渡り歩いて生きていたが、今度は命を預けたいのだと雪は言った。訳のわからない混沌を終わらせるためなら、その為に動こうとしている者達を己の主人と思って、命を預けるとな。たいした女だよ、あの娘は」


「そこまでして、最後に雪さんに残るのは何だろう」


「何もないだろうよ。混沌が続いても終わりを迎えても、雪はいずれ消えていく。魂に残る人としての尊厳を、取り戻そうとしているのだろうな」


 頭を振ってぼくは考えるのを止めた。

 雪の人生を思うと、いたたまれない気持ちに涙がでそうになる。

 でも雪が望んでいるのは涙などではないだろう。雪に会ったら伝えよう。君の考えは間違っていると伝えてみよう。


「和也は力を受け継いだとはいっても、あの娘のように意思を持って力を操っているわけではないだろう? 取り込んだ力が和也の体と意思を媒体にして、かってに拡散しているようなもの。だからこそ気を付けろ、あんたが取り込んだ力は間違えば敵のみならず、自分を傷つけかねない」


 真っ直ぐに水月を見てぼくは深く頷いた。


「響子の所へ寄っていくのか?」


 立ち上がったぼくに水月が問う。


「そうですね。突然に呼び出されて、話の内容を気にしていると思いますし。それに、響子さんの説教の途中で抜けてきましたから。日をまたいで叩かれるより、今日中にまとめて終わらせたいです」


 ははは、と水月が笑った。


「あの人は和也と同じくらい変わった人だよ。自分で気付いているのかいないのか」



 意味深な言葉に振り向いて首を傾げると、水月は顔の前で手を振り気にするな、といった。


「また来ます」


 水月の小屋を後にして、残欠の小径を一人歩く。水月が何故執拗に鬼神を追っているのか、細かいことを聞かされてはいない。響子さんに水月、雪さんや町の人々、それぞれが違う思いを抱いて鬼神に反旗を翻そうとしている。


 草陰のギョロ目に出会うことさえなく、道を下って響子さんの家の前に広がる平地にでた。

 少し離れて見ると響子さんがその根の下を住み処としている大木は、大きく枝葉を広げまるで残欠の小径の歴史を全て知る、物言わぬ賢者の趣があった。

 後数歩で戸口に手をかけようかというとき、ぞわりとした気配にぼくは立ち止まった。


「血に繋がれていた力を、途絶えさせたのか?」


 まだ幼い声が背後から響く。

 振り返り今すぐにも反応したいというのに、体が動かない。


「獲物をひとつ逃がしたな。網で引き上げた中から、たった一匹を逃して何になる? 気休めか? まあ良心が疼いたなど、吐き気がする返答だけは止めて欲しいが」


 幼い声とそれにふさわしくない言葉は不協和音を奏で、ガラスを掻いたような嫌悪感に襲われた。


「どうした? 以前のように反撃しようとはしないのか?」


 鉛を括り付けたように重い足を何とか動かし、体を鬼神へと向ける。

 口の片端を上げてにやりとした笑みを浮かべていた鬼神が、眉を顰め拳を握った。


「まったく煩わしい。引っ込んでいろ!」


 自分に投げかけられた言葉ではないだろう。

 鬼神は己の内に潜む魂と、主導権を争っているように見えた。

 険しい表情を浮かべ、唇を噛んだ鬼神の表情が緩む。


「どっちだ?」


 オリジナルの人格が表に出たのなら、この場を切り抜けることも可能だろう。

 もし違ったなら、状況は厳しさを増す。


「ねぇ、ぼくを殺して」


 鬼神の口から、聞き覚えのある言葉が放たれる。


「君はまさか」


 目を見開き前に踏み出そうとしたぼくを、天を仰いで鬼神が笑う。


「ぼくを殺して……などと。わたしがそう易々と支配権を渡すと思うか?」


 オリジナルの人格を真似ただけか。希望の灯はあっさりと消えた。

 思うように動かない体を抱えていては、のろりくらりと鬼神が近寄ってきてこの身を引き裂いても、止めることなどできないだろう。

 なにより致命傷なのは、水月の小屋であのお茶を飲んだこと。

 今のぼくでは、鬼神の目を欺く隙さえつくり出すことは不可能だった。

 次の瞬間、ぼくは自分の目を疑った。


「何だよそれ、有り得ないだろう」


 にたりと笑う鬼神が、片手を首筋の後ろへと回す。

 小さな手に握られ引き出されたのは、鬼神の身の丈はありそうな黒い大刀だった。

 長く幅の広い刃は反り返り、青竜刀に似た形をしていた。

 何を元につくり出されているのか、黒い刃は日の光を受けてなお、辺りに影を落としそうな禍々しさを宿している。


「前にもいっただろう? おまえを取り込むような愚行は犯さないと。この世界を囲う結界をつくり出す力を吸い取ったその体ごと、ここで一刀の元に殺してくれる」


 鬼神の纏う空気が一変した。

 裂けそうに見開いた目をそのままに、足音も立てずに黒い大刀を手にした鬼神が迫る。

 動けない。

 目を閉じる時間さえなかった。

 これだけの大刀を扱う力がどこにあるのか。

 振りかざされた黒い大刀の鋭利な刃が、ぼくの首筋目掛けて振り下ろされた。


「和也!」


 戸を蹴り開け出てきた、響子さんの叫びが背後から響く。

 首が飛ぶ、そう思った瞬間に鬼神とぼくの間を、黒い残像と疾風が駆け抜けた。

 

「くそ!」


 一瞬にして鬼神が手にしていた黒い大刀が霧散する。

 手首を押さえながら鬼神が睨む先はぼくではなく、人気のない草むら。

 鬼神が押さえていた手を離すと、手首には赤く深い傷口が見えた。

 流れるはずの赤い血は無く、代わりに傷口から粘着質な白い液体が這い出てくる。


「やめろ! やめろ!」


 白い液体は明らかに鬼神の手首の傷口を、内部から広げようとしていた。

 傷口を塞ごうと手を当てた鬼神は、熱湯に触れたようにひっ、短く悲鳴を漏らす。

 押し広げられた傷口から、ふわりふわりと白い煙が吐き出される。

 それは空中に浮いたまま、上に登でもなく消えるでもなく、ただ静かに浮いていた。


「がっっ!」


 響子さんの呻き声に振り返る。

 軋む体を無理矢理動かした先に見えたのは、内側から木槌で打たれたかのように胸を跳ね上げさせる響子さんの姿だった。


「響子さん!」


 何度も胸を跳ね上げながら、響子さんはその度に苦しそうな呻き声を漏らす。

 ざっという足音に首を回すと、鬼神が浴衣の袖で傷口を押さえ憎しみの籠もった眼で睨んでいた。

 もう一歩ざっという音と共に後退ると、目の前から鬼神の姿が掻き消えた。

 鬼神が姿を消した突端、体が軽くなり自由をとりもどしたぼくは、慌てて響子さんに駆け寄った。

 肩を支えると、響子さんの体が崩れて地面に膝をつく。

 異常を感じて飛び出してきた蓮華さんが、響子さんの様子に息を呑む。


「蓮華さん、どうしよう! 響子さんが!」


 蓮華さんが真っ直ぐにぼくを見る。


「和也様、心配はいりません。響子様が覚えていないだけで、今までにも何度も同じ状態に陥っていますから」


 何度もこんな異常な状態になったことがあるのか?

 はっとしてぼくは思わず上体を反らせる。

 仰け反った響子さんの胸元から、ちりちりと光る透明な糸が宙に放たれた。

 日の光りを受けて光る糸は、それぞれに違う淡い色を帯びていて、蜘蛛の糸のように先へ先へと伸びていく。

 糸の伸びる先に、人を模った者が立っていた。

 まるで雲を固めて作ったような体が五体。目を懲らすと表情さえ見てとれる、精巧な雲の細工。

 それぞれに伸びた糸は、目指す体に辿り着くとすっとその身に吸い込まれていく。

 吸い込まれると同時に、ぷつりと切ったかのように響子さんの胸元から糸が離れていった。

 響子さんの体から力が抜け、吐き出した息と共に胸に手を当てる。

 さわさわと葉を擦り合わせる音に似た囁きを、耳にした気がして後ろを向いた。

 糸を吸い込んだ白い体が、刻一刻と色を帯びていく。

 精巧な雲の細工は人だった。

 森田さんが消えた時と同じ、体を通して向こう側の森が透けて見える。


――ありがとう


 それぞれの声が折り重なる。

 女性に老人、若い男と子供が二人。安堵の笑みが背後の景色に溶けていく。

 最後に老人の声が囁いた。


――鬼神はただの子供。寂しさに取り込んだ魂の記憶が、あの子に知恵を与え深い悲しみを憎しみに変えた。たったそれだけのこと……。


 もう何も聞こえなかった。

 鬼神がただの子供。この言葉が指すのは、オリジナルの意識のことなのだろうか。


「和也、大丈夫か?」


 こんな状態でも、ぼくのことを気遣う響子さんに苦笑する。


「大変そうなのは響子さんの方だよ。いったい何があったの?」


 地べたに座り、蓮華さんに背中を預けたまま響子さんが目を瞑る。

 ぼくは鬼神が睨み付けた草むらに声をかけた。


「雪さんだろう? 出ておいでよ」


 黒い装束で全身を覆った雪が姿を見せ、少し離れて片膝を付く。

 雪に声をかけようとしたとき、響子さんが口を開いた。


「すっかり忘れていたよ、己が何者であるかを」


 響子さんの言葉に、蓮華さんが睫を伏せる。

 

「もともと存在しないのがわたしだ。響子という名は、模られた形に付けられた呼び名にすぎなかった。思い出したよ」


 僅かに俯く響子さんの目が嗤う。

 何も聞き返すことさえできず、ぼくはただ響子さんの傍らに膝を落とした。


 

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