第三話 瞬のわがまま
ドラマの撮影は順調に進んでいった。
撮影も半ばまで終えたある日。急遽台本の一部が書き換えられた。
その台本を見た瞬が、楽屋で駄々をこね始めたのである。
「絶対、ぜーったい、嫌だからね」
「何言ってるのよ、キスシーンくらい。相手の女優さんがオーケー出してるのに、男のあんたが嫌なんて言ってる場合か」
真希は勢いに合わせて、楽屋に置いてある小さなテーブルを叩く。
音に驚いたのか、瞬は膝を抱えて座っている体を少し震わせた。
瞬は真希から視線を逸らしたまま、不機嫌丸出しの顔で呟く。
「だって、俺まだキスしたことないし……」
そのセリフを耳にして、真希は目を見張った。
「な、何、あんた。その顔でまだキスもしたことないの」
少し笑いを含みながら真希が言うと、瞬が食ってかかる。
「顔は関係ないじゃん。何だよもう。笑いたきゃ笑えばいいよ。どうせ、俺はこの年で、まだキスもしたことないですよーだ」
瞬がすっかりいじけモードに入ってしまった。
真希は機嫌を取るように、瞬の肩に手を置く。
「シュン。キスなんてたいしたことないわよ。口と口をくっつけるだけじゃない。ね、だから頑張って、仕事でしょう」
瞬は不機嫌そうに目を細めて真希を見ていたが、不意に何かを思いついたように笑顔を作った。
「じゃあ、真希ちゃん。練習させてよ」
「は?」
練習の意味が掴めず、問い返す真希に、瞬は笑顔のまま告げる。
「だ、か、ら。真希ちゃん。キスさせて」
「はぁ?」
真希は何の冗談だと、声を上げた。
瞬は肩に乗せられていた真希の手をぎゅっと握って、畳に押し付ける。
真希は焦って口を開く。
「な、何で私があんたとキスしなきゃなんないのよ」
「だって、ほら。キス失敗したら、大変じゃん。それって、真希ちゃんがよく言うイメージダウンになるんじゃないの? 相手の女優さんに、Winのシュンはキスが下手とか噂流されたらどうする? 俺が笑いものになってもいいの? マネージャーは、タレントに気持ち良く仕事させるのも仕事の一つなんじゃないの」
顔を覗きこまれて、真希は固まる。
何時の間にか、いつもの甘えるような笑顔から、少し大人びた、からかうような表情に変わっていた。
瞬の顔を見ていると、胸が妙に騒ぎ始める。その変化に戸惑いながら、真希は瞬の目に冗談の色が映っていないか捜す。
「キスなんて、たいしたことないんだよね? 真希ちゃん、さっきそう言ったよね。だったら、練習させて」
いつの間にか焦点が合わなくなるほど、近くに瞬の顔があった。
「真希ちゃん」
名を呼ばれるとともに、唇に瞬の息がかかる。
そのまま唇がゆっくりと合わさった。
意外と柔らかい唇の感触に驚いて硬直していると、すぐに離れて行った唇がまた重なった。
触れるだけのキス。
長い。
唇が触れている時間の長さに、ようやく真希は我を取り戻した。
掴まれていない方の手を高々と上げ、その手で瞬の頭を叩く。
その衝撃で唇が離れた。
「えーい。長いわっ」
「痛ったーい。真希ちゃん。酷いよー」
頭を押さえて恨めしげに真希を見るその顔は、いつもの甘えた子どものような瞬の顔。
先程見たいつもとは違う、どこか大人びた表情の瞬ではない。
そのことにどこかほっとしつつ、真希は声を荒げた。
「酷いもんですか! あんた何考えてるの」
「何って……分からない?」
尋ねられて、真希は興奮と混乱で乱れた息を整えるように、胸に手を当てた。
瞬は肩で息をしている真希をしばらく眺めていたが、呆れたように大きく息をついた。
「ま、いいよ。さっきも言ったでしょう。練習だよ、練習。本番で失敗したら、俺のイメージ崩れるでしょ。そしたら真希ちゃんも困るでしょ。だったら、真希ちゃんで練習させてもらったらいいやと思っただけ。で、どうだった?」
尋ねられて、真希は言葉に詰まった。
「俺とキスしてみてどうだった」
「ど、どうって」
どうといわれても、混乱して、何も考える余裕などなかった。
ただ、意外と瞬の唇が柔らかいという印象だけが鮮明に……。
そこまで考えて、真希は頬が急激に熱くなるのを感じた。心臓の鼓動がやけに早い。
何を動揺しているのか。瞬はただの練習としてキスをしてきたのだ。いつも一緒にいるマネージャーに、いつもの調子で甘えただけで。
真希は大きく頭を振って、次々と浮かぶ考えを振り払った。
「ふ、普通だったんじゃない」
振り絞った真希の言葉に、瞬は唇を尖らせた。
「普通ー? もっと他にないの?」
不服そうな瞬に、これ以上どう言えというのかと、いまだ混乱した頭で考えていると、楽屋のドアがノックされた。
「シュンさん。そろそろお願いしまーす」
スタッフの一人が呼びに来たらしい。
真希は反射的に返事をして、立ちあがった。
「ほら、行くわよ。シュン」
瞬をせかすと、彼はゆっくりと立ちあがりながら小さく呟いた。
「残念、時間か。ま、下手って言われるよりはマシかな」
その小さな呟きは、真希の耳に届くことはなかった。