一人目の婚約者を姉に、二人目の婚約者を妹に取られたので、猫と余生を過ごすことに決めました
「ごめんなさい、お姉様。私、エドワード様を好きになってしまいました」
妹の発した声は小さく、震えていた。
後ろめたさは感じているのか、瞳は揺れている。
私は真っ白になった頭で立ち尽くすしかなかった。
エドワード・シヴァルリー侯爵。私は彼と、再来月には正式に籍を入れる予定だった。
私に向けてくれた優しい微笑みも、未来を語り合ったことも、一緒に読んだ詩集も、全て昨日のことのように思い出せる……。しかしそれらの思い出が今は、靄がかかって見えた。
「すまない、ミゼリア。俺は気づいてしまったんだ。君の隣ではなく、セリーナの隣で生きたいと」
「……そうですか」
色々と言ってやりたいことはあるはずなのに、口が動かない。
どうして私より妹なんだとか。まず不貞行為にあたるんじゃないかとか、言いたいことは山ほど思い浮かぶ。
けれど、それ以上にまた、”捨てられた”という事実が重たく私にのしかかっていた。
そう、また、私は捨てられたのだ。
初めての婚約者──ロラン・ルルセルージュ子爵も、私との婚約を破棄して姉と駆け落ちした。そして今度は、妹が私から婚約者を奪った。
──なんでいつも、こうなるんだろう
私は感情の昂りを抑えきれず、逃げるようにその場を去った。
それから数年が経ち二十七歳になった春。
私は故郷を離れ、辺境の古い屋敷を買い取った。
木々に囲まれた静寂。ここなら、誰にも邪魔されずに生きていける。
築五十年は経っているが、頑丈な石造りで、暖炉も大きく、一人で暮らすには十分すぎるほどだった。
荷物を運び入れている時、玄関先で小さな鳴き声が聞こえた。
グレーの毛色をした猫が私を見つめていた。
やせ細り、毛玉だらけで、左の前足を引きずっている。
「あなたも一人なのですか」
そっと近づいて手を差し出す。
猫は恐る恐る匂いを嗅いだ。そして、私の指先に頭を擦りつけてくる。
瞬間、胸の奥で何かが温かくなった。凍りついていた心の一部が、溶けていく気がした。
「帰る場所がないなら、ここで私と一緒に住みませんか?」
猫は首をかしげるように私を見上げる。
「人間を連れてこないと約束できるのなら、ですけど」
猫は短く「にゃあ」と鳴いた。承諾するみたいに。
その夜、猫は暖炉の前で丸くなって眠った。私は長い間、その寝顔を眺めていた。
自分で言うのも変だけれど、私は決して醜くはない。でも、特別美しくもない。
茶色の髪、薄い茶色の瞳、やや丸い顔。「上品だが印象に残らない」と、以前ある婦人に言われたことがある。きっとそれが私の運命なのだろう。
でも、もういい。愛されなくても、この猫がいればそれだけでいい。
猫には「シエラル」と名付けた。
最初の数日は、お互いに探り探りだった。シエラルは私が急な動きをすると身を縮めて逃げようとする。おかげで怪我の手当をするのも一苦労だった。
左前足は思ったより深刻で、骨は大丈夫だったが肉球が傷ついていた。
「痛いでしょうけど、我慢してくださいね」
薬草を煎じて作った薬液で傷口を洗い、清潔な布で包帯を巻く。シエラルは最初こそ嫌がったものの、私に悪意がないと理解してからは、大人しく手当てを受けてくれるようになった。
一週間も経つと、シエラルの警戒心は薄れていった。
私が台所で料理をしていると、少し離れた場所からじっと見つめている。読書をしていると、椅子の下に潜り込んで私の足元で小さくなっている。
「一緒にいてくれるんですね」
私は微笑みながら、そう呟いた。
二週間が過ぎた頃、シエラルに変化が現れた。
朝、目を覚ますと、ベッドの足元に丸くなって眠っていたのだ。
「おはようございます、シエラル」
声をかけると、ゆっくりと目を開けて、小さく「にゃあ」と鳴いた。「おはよう」と返してくれているみたいに。
足の怪我も順調に回復し、毛玉も少しずつほぐしてあげて、シエラルは見違えるほど美しくなった。グレーの毛は銀色に近く、陽の光に当たるときらきらと輝く。
「実は美人さんだったんですね、シエラル」
ブラシで毛を整えてあげると、シエラルは気持ちよさそうに目を細めた。
一ヶ月が過ぎる頃には、シエラルは完全に私の生活の一部になっていた。
朝、目を覚ますと必ず枕元にいる。私が起き上がると、足音を立てずについてくる。台所に立つと、椅子の上から見守ってくれている。
「今日は何を作りましょうか?」
私がシエラルに話しかけると、首をかしげて見つめ返してくれる。
「野菜スープがいいですか? それともお魚の料理?」
「にゃあ」
「お魚に決定ですね」
一人で話しているだけなのに、会話をしているような気分になれた。
庭で野菜の世話をしている時も、シエラルは必ずそばにいてくれた。陽だまりで気持ちよさそうに眠ったり、蝶々を目で追いかけたりしている。
「シエラルがいると、この庭も生き生きして見えますね」
野菜に水をやっていると、シエラルが私の足に体を擦りつけてくる。
甘える仕草が、何とも言えず愛らしく、私は多幸感に包まれた。
夜は私たちにとって特別な時間だった。
暖炉の前で私が本を読んでいると、シエラルが膝の上に飛び乗ってくる。最初は遠慮がちだったが、今では当然の権利とばかりに堂々と膝を占領する。
「重たいですよ、シエラル」
私が苦笑すると、シエラルはふりむいて「にゃあ」と短く鳴くだけ。退いてはくれない。本を読む手を止めて、シエラルの頭を撫でる。柔らかい毛の感触、
「あなたの毛は本当に綺麗ですね」
シエラルは目を細めて、喉をゴロゴロと鳴らす。この音を聞いていると、私の心も穏やかになっていく。過去の痛みが、少しずつ薄れていく。
春が夏になり、夏が秋になった。
シエラルと過ごす季節の移ろいは、どれも美しかった。
夏の暑い日には、石の床の涼しい場所でシエラルが伸びきって眠っている。私が扇子であおいであげると、嬉しそうに鳴いてくれる。
秋になると、庭に舞い散る枯れ葉にじゃれついて遊んでいる。子猫のように無邪気に跳ね回る姿を見ていると、私も自然と笑顔になれる。
「シエラル」
声をかけると、シエラルは枯れ葉を口にくわえて、私の足元に置いてくれる。
「ありがとう。上手に取れましたね」
シエラルは得意げに「にゃあ」と鳴いた。
そして冬が来て、再び春がやってきた。
シエラルと過ごした一年。私の心は、一年前とは比べ物にならないほど穏やかになっていた。庭に新しい花を植えている時、シエラルが興味深そうに球根を見つめている。
「これはチューリップの球根。春になったら綺麗な花が咲くんです」
「にゃあ」
「シエラルも楽しみにしていてくださいね」
シエラルは小さく鳴いて、私の手に頭を擦りつけてくる。
人を愛することの痛みを知った私にとって、シエラルとの関係は全く新しい愛の形だった。このままずっと、この幸せを噛み締めて生きていきたい。誰にも邪魔されず。
と、そう願った矢先のことだった。
「ニャアッ」
シエラルが突然、毛を逆立ててあさってを見つめた。
こんな警戒した様子を見るのは初めてだ。侵入者を警戒するように低く身構えている。
「ど、どうしました? シエラル」
私はただならぬ予感を覚え、恐る恐るシエラルの視線の先を見る。
と、数十メートル先に人影が見えた。
だんだんとこちらに近づき、輪郭がはっきりしてくる。
年の頃は二十代半ばの男性、質素だが上質な服を着ている。でも、その顔は苦痛に歪んでいて、右足を庇うようにしていた。
「あ、よかった。人だ……」
私はシエラルを咄嗟に抱え、数歩後ずさる。
彼は木の杖を地面に落とし、深々と頭を下げてきた。
「その、道に迷ってしまいまして、少し休ませていただけないでしょうか」
私の心臓が早鐘を打った。
他人を家に入れるつもりはない。特に男性なんて論外だ。
けど、彼は右足を負傷していて歩くのも辛そうだった。
ここから近くの人里にいくには、馬を使って二時間。徒歩では、一日じゃ足りないだろう。私はいくらか逡巡を重ねてから、玄関の戸を開けた。
「中に入ってください」
彼を空き部屋に運ぶ間、シエラルはずっと後をついてきた。でも、さっきまでとは打って変わって敵意を示さない。むしろ、興味深そうに彼の匂いを嗅いでいる。
空き部屋に布団を敷く。その上に腰を落とした青年は、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。僕はセス・アレストリアと申します」
「ミゼリアです。ただのミゼリア」
そう名乗ると、シエラルが彼の膝の上に飛び乗った。
「この子は?」
「シエラルです。どうやら、あなたを気に入ったようですね」
「ほんとですか、えへへ、嬉しいな」
セスは照れ臭そうに微笑んだ。
その屈託のない表情に一瞬、感情が動いてしまった自分が嫌になる。
もう一人で……ううん、シエラルと二人で生きると決めたのに……。
翌朝、セスは足の調子を確かめながら居間に現れた。
「泊めていただきありがとうございました」
「もう出発されるおつもりですか?」
「はい。お世話になりました」
何日も居座られると思ったが、あっさりと出ていってくれるらしい。
この家は、私とシエラルだけの空間。これ以上、他人がいていい場所ではない。
なのに──。
「まだ腫れています。もう一日安静にしていてください」
実際、彼の足首はまだ赤く腫れていた。けど、私の考えていることとやっていることは明らかに矛盾している。人付き合いを避けていたせいで、人恋しくなっているのだろうか。
「いえ、ですがこれ以上ご迷惑をおかけするわけには」
「迷惑ならば最初から泊めたりしません。余計な気遣いは無用です」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えていいですか」
「いいと言っていますよね」
私は少し棘のある口調で言った。セスは頬を指先で掻きながら、はにかむ。
その日から明確に彼との共同生活が始まった。
数日の予定が一週間になり、二週間になった。セスの足はもう完全に治っていたが、出発の話は出なかった。私も、なぜか追い出そうという気持ちが湧かなかった。
セスは恐縮しながらも、できることを見つけては手伝ってくれた。壊れていた屋根の瓦を直し、庭の雑草を取り、薪割りまでしてくれる。その手つきは器用で、明らかに上流階級の出身なのに、労働を厭わない。
ある日、村の市場に一緒に出かけることになった。
私を見るなり、野菜売りのおばさんが声をかけてきた。
「あら、ミゼリアじゃない。久しぶりね。ずっと山奥に籠もってるから心配してたけど、素敵な旦那様ができたのね」
私は頬に朱色を差し込み、矢継ぎ早に。
「違います、彼はただの居候です。変なこと言わないでください」
「あらまあ、照れなくてもいいのよ。お似合いじゃない」
おばさんは意味深に微笑んだ。
パン屋でも、肉屋でも、同じようなことを言われた。村の人たちは私たちを夫婦だと思い込んでいるようだ。
おかげで帰り道、妙な気まずさが流れた。
「すみません。僕がいることで、変な誤解を与えてしまったようで」
「別に構いません。気にしていませんから」
私は素っ気なく答えた。でも、心の中では動揺していた。
村の人に誤解されたからではない。
誤解されることが、それほど嫌ではなかったからだ。
「でも、ミゼリアさんの立場を考えると……僕のような素性の分からない男と一緒にいるなんて、きっと良くない噂を立てられてしまいます」
その言葉に、私は足を止めた。
「私はただ、あの山奥に一人で住んでいるだけの女性です。噂を立てられて困るような地位も名誉もありません」
「でも、僕は……」と、彼は言いかけて口をつぐんだ。
私は横目で彼を捉えながら、ポツリと独り言をみたいに。
「あなたも、人が怖いんですね」
セスははっとした表情で、目を見開く。
「どうして……」
「わかりますよ。あなたは私と同じような目をしていますから。誰かに裏切られて、傷ついた人の目です」
風が私たちの間を通り過ぎていった。セスは何も言わなかったが、その沈黙が答えだった。
家に帰ると、シエラルが玄関で待っていた。私たちを見ると、嬉しそうに鳴いて、セスの足に体を擦りつけた。
その夜、夕食の後でセスが話してくれた。
「僕は、グレイウッド家の次男です。最初に名乗った、アレストリアの姓は母のもので、本当はセス・グレイウッドと申します」
グレイウッド家といえば、この地方でも指折りの名門貴族だ。領地も広く、王宮にも強い影響力を持つと聞いている。
貴族階級の人間だろう、となんとなく推察していたけれど、想像よりずっと大物だった。
「そう、だったのですね」
「はい。でも、それが僕にとって幸せなことではありませんでした」
セスは苦しそうに続けた。
「僕は次男ですから、長男である兄が跡を継ぐことになっていました。でも、兄は跡継ぎとしてふさわしくない人でした。賭博に溺れて借金を作り、領民からも嫌われていました。それなのに、父は長男だからという理由だけで兄を後継者にしようとしていたんです」
彼は一度言葉を区切って、深く息を吸った。
「そして兄は僕を憎んでいました。僕の方が領民に慕われていたから、それが気に食わなかったんだと思います」
セスの拳が小さく震えていた。
「その腹いせなのか、兄はまず僕の名前を騙って借金をしました。僕が作った借金だということにして、僕の評判を落とそうとしたんです。それから──」
「それから?」
「僕には婚約者がいました。隣国の公爵令嬢で、とても優しい人でした。でも兄は、その彼女を誘惑して僕から奪いました」
胸が痛んだ。私も似たような経験があるからだ。
「それでもう全部が嫌になって逃げてきました。この辺りなら誰の目にも届かないだろうと思って」
セスは疲れたような表情で私を見た。
私は静かに頷いた。彼の話を疑う理由はなかった。その目に嘘はなく、ただ深い疲労と諦めが滲んでいる。なるほど、そうか。私は彼に自分と同じものを感じていたんだ。だから、彼がこの家にいることを嫌だとは思わなかった。
「家族に裏切られるのは辛いですよね」
「ミゼリアさんも何か……いえ、なんでもないです」
セスは私の過去について詮索しようとはしなかった。
聞かれれば話してもいいかと思ったが、踏み込んでこないなら無理に話す必要もない。そのまましばらく沈黙が続いた。暖炉の火が静かに燃え、シエラルが小さく寝息を立てている。
その夜、私は久しぶりに、心の奥底まで満たされた気持ちで眠りについた。
セスが私の家に来てから、半年が過ぎた。
セスは村の大工の親方に気に入られ、今では職人として稼ぎを得ている。
ここから村までは馬を使って二時間かかるというのに、わざわざこの家から通っているあたり彼は変わり者だと思う。村で家を借りるくらいの稼ぎはあると思うのだけれど……。
「ただいま帰りました」
日が沈んだ頃、セスが仕事から帰ってくる。
シエラルも玄関まで迎えに出て、セスの足に体を擦りつける。
「…………?」
私は少し怪訝に彼を見つめた。
いつもならシエラルを撫でながら「今日はなにしてました?」とか聞いてくるのに、今日はさっさと洗面台に向かっていった。私と目を合わせてもこない。
夕食の時も、何となく様子がおかしかった。
「今日は親方に褒められたんです。継ぎの技術が上達したって」
「それは良かったですね」
「はい……」
普段なら、仕事の話をする時は目を輝かせるのに、今日は視線が泳いでいる。料理にも箸があまり進んでいない。
「体調悪いんですか?」
「いえ、そんなことないですよ! 少し疲れているだけで」
明らかにいつもと違う。空元気というか、何かを隠しているような、言いたいことがあるのに言えないような、そんな表情をしていた。
シエラルも気づいているのか、今夜は私の足元から離れようとしない。
「何かあったのでしたら、話してくださって構いませんよ」
「……はい。ありがとうございます。何かあったら話しますね」
セスはそう答えるだけで、結局何も話してくれなかった。
その夜、私は妙な胸騒ぎを覚えながら眠りについた。シエラルも落ち着かない様子で、何度も私の枕元をうろうろしていた。
翌朝、目を覚ますと、いつものようにシエラルが枕元にいた。
「おはよう、シエラル」
シエラルは小さく「にゃあ」と鳴いたが、どこか寂しそうに聞こえた。
嫌な予感がして、急いでセスの部屋に向かった。扉を開けると、部屋はきれいに片付けられていて、セスの荷物は跡形もなく消えていた。
テーブルの上に、一通の手紙と金貨が五枚置かれている。
『ミゼリアさんへ
挨拶もなしに出ていくことをお許しください。
昨日、兄の手下らしき男たちを見かけました。僕を見つけるのも時間の問題だと思います。なので、僕は別の町に行くことにしました。
短い間でしたが、本当にありがとうございました。ミゼリアさんは僕の命の恩人です。
ミゼリアさんとシエラルと過ごした日々は、僕にとってかけがえのない時間でした。
少ないですが、これまでの滞在費としてこちらのお金は受け取ってください。
いつかまた、お会いできる日が来ることを願っています。
セス』
私は手紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
また、だ。
また、私の元から人が去っていく。
シエラルが足元で小さく鳴いた。私の足に体を擦りつけてくる。
「シエラル……」
私はシエラルを抱き上げた。温かい毛の感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
でも、胸の奥の痛みは消えない。
エドワードも、ロランも、みんな私を置いて行った。そして今度は、セスが。
なぜ、私はいつも取り残されてしまうのだろう。
空っぽになった部屋で、私は一人、涙を流した。
シエラルだけが、そっと私に寄り添ってくれていた。
気持ちが落ち着いてから、机に置かれた金貨に手を伸ばす。
『少ないですが、これまでの滞在費としてこちらのお金は受け取ってください』
金貨五枚。これはセスが半年間働いて得た賃金のほとんどではないだろうか。
「ばか……」
私は小さく呟いた。
滞在費なんて、そんなものは必要ない。
セスは家の修繕もしてくれたし、薪割りも、庭の手入れも、すべて彼がやってくれていた。助けられていたのは私の方だ……。
「なんで相談もなしに勝手に行くんですか……」
シエラルが「にゃあ」と鳴いて私を見上げる。
「そうですよね、シエラル。あの人、勝手すぎます」
手紙をもう一度読み返す。
『ミゼリアさんは僕の命の恩人です』
セスは私を裏切ったわけではない。ロランも、エドワードとは違う。
私を巻き込みたくなくて、一人で背負おうとしたのだ。
「でも、だからって勝手に決めないでください」
私は立ち上がった。シエラルが嬉しそうに鳴く。
「あの人に文句を言わなきゃいけませんね」
そう、それが理由。別にセスが心配だから探すわけじゃない。勝手に金貨を置いて出ていったことに文句を言いに行くだけ。
「シエラル、一緒に来てくれますか?」
シエラルは元気よく「にゃあ」と鳴いた。
早速、私は村に向かった。まずは大工の親方さんに話を聞こう。
「セスくんなら、今朝に突然辞めていったよ」
親方さんは困った顔をしていた。
「真面目で腕もよかったのに、急に『遠くに行かなければならなくなった』って。引き止めたんだが、頑として聞かなかった」
「どちらの方角に向かったか、ご存知ですか?」
「南の街道を使っていったな」
「ありがとうございます」
「セスにあったら言ってくれ。ウチはいきなり辞められるほど、労働者に優しくねえってな」
「わかりました。必ず連れて帰りますね」
「おう、気をつけて行けよ」
そう言って、親方さんは優しい笑みを浮かべた。
親方さんの情報を頼りに、南の街道を一週間探し回った。
けど、セスの手がかりは途中で途絶えた。個人の力ではやはり限界がある。背に腹はかえられない、か。
シエラルが心配そうに私を見つめる。
「大丈夫ですよ、シエラル。少し嫌な思いをするかもしれませんが、セスを見つけるためです」
私は、セスを探すためだけに故郷に戻ることにした。
実家の屋敷は相変わらず立派だ。使用人が私を見ると、目を丸くして驚いている。
「ミゼリア様……お帰りなさいませ」
「姉と妹はいますか?」
「カロリーナ様とセリーナ様でしたら、サロンにいらっしゃいます」
私はシエラルを抱えて、懐かしいサロンへ向かった。
扉を開けると、二人がティーカップを手に談笑していた。私の姿を見るなり、カップを指から落としそうになる。
「まあ、ミゼリア!」カロリーナが声を上げた。
「お姉様、どうしてこんな急に……」セリーナは困惑している。
私は近くの椅子に座り、シエラルを膝の上に乗せた。
再会に浸る気はない。単刀直入に切り出す。
「セス・グレイウッドという人をご存知ですか?」
二人の表情が一変した。
グレイウッド家は指折りの名門。知らないはずがない。
「確か、行方不明になったとかって聞いたけど……どうして?」
カロリーナが慎重に答える。
「彼を探しています。あなたたちの人脈と情報網を使って、彼の居場所を突き止めてほしいんです」
「探して欲しいって言われてもね」
カロリーナが眉をひそめる。
私は懐から小さな宝石箱を取り出した。中には、母から受け継いだサファイアのネックレスが入っている。二人の目が輝いた。このネックレスは代々我が家に伝わる家宝で、二人とも昔から欲しがっていたものだ。
「探してくれたら、これをお渡しします」
「それは……お母様の……」
セリーナが息を呑む。
私の冷静な態度に、二人は戸惑っているようだった。かつての内気で従順なミゼリアではないことに、困惑している。
「……わかったわ、探してみる」
最終的にカロリーナが頷いた。
「でも、時間がかかるかもしれないわよ」
「できるだけ早くお願いします」
「いやだから時間がかかる可能性が……」
「早くお願いします」
カロリーナは困ったように眉を寄せ、頬を指で掻いた。
──二日後
カロリーナが私の部屋を訪れた。
「情報が手に入ったわ」
彼女は疲れた様子で言った。
「ミゼリアの言う通り、セス・グレイウッドは兄のギルバートに追われているみたいね。どうして追われているかは知ってる?」
「いえ。どうしてですか?」
「グレイウッド家は財政的に破綻寸前なの。ギルバートが賭博と浪費で家の財産を食い潰してしまった。そして今は、セスが受け継いだ遺産が家を救う唯一の希望なの。要は遺産目当てってことよ」
カロリーナは一度言葉を切って、苦い笑みを浮かべた。
「実はロランも似たようなものなのよね。ギャンブルにのめり込んで、子爵家の財産に手をつけ始めている。男ってのはどうして非合理的なものにハマるのかしら……」
「そんな話はどうでもいいです。それよりセスの居場所はわかりましたか?」
「まだよ。でも、セリーナが侯爵夫人としてのコネクションを使って調べているわ。もう少し待って」
──さらに三日後
今度はセリーナがやってきた。
「見つけました、お姉様!」
彼女は息を切らせて言った。
「セス様は、ミルフレイクという町に目撃情報がありました」
セリーナの言葉に、私の心臓が早鐘を打った。
「ありがとうございます。そこまでわかれば十分です」
私が椅子を引いて立ち上がると、セリーナが躊躇うように口を開いた。
「あ、あのお姉様……出発する前にひとついいですか」
「なんですか?」
私は眉をひそめた。何か悪い知らせなのだろうか。
「エドワードが……他の女性と関係を持っているようです。しかも、その相手は私の友人だった人で……」
セリーナが涙を浮かべる。
「私、愚かでした。お姉様からエドワード様を奪っておきながら、今度は自分が同じ目に遭うなんて……」
私はセリーナにハンカチを手渡し、冷静に答えた。
「少しは私の気持ちが理解できましたか」
「は、はいっ。ごめんなさい、お姉様……っ!」
私の胸元に飛び込んでくるセリーナ。
どう対応したものか困っていると、カロリーナも部屋の中に入ってきた。ちょうどいい。
「セリーナ、泣くならカロリーナ姉様のところで泣いてください」
「はいぃ」
「ちょ、ちょっと私に押し付けないでよっ!」
セリーナがカロリーナにひっつく。カロリーナは当惑をあらわにしていた。
私は机からサファイアのネックレスを取り出し、彼女らに差し出す。
「約束通り、これは置いていきます」
「それは受け取れません! 私たちはお姉様にひどいことをしました」
セリーナは涙ながらに首を横に振った。
カロリーナも頷いた。
「私、因果応報というものを身をもって知ったわ。ロランは私を裏切り、エドワードはセリーナを裏切った。私たちがあなたにしたことが、そのまま返ってきた。本当に悪いことをしたと思っているわ。贖罪になるとは思わないけれど、せめてそのネックレスはあなたが持っていて」
「全部、過去のことです」
私は淡々と答えた。
「それに、あなたたちが不幸になったからといって、私の傷が癒えるわけではありません。でも、そうですね。いらないというならこれは私が持っておきます」
私は内心で少しだけ、長年の胸のつかえが下りたような気がしていた。
復讐を望んでいたわけではないが、彼女たちが私の痛みを理解したということは、確かに意味があった。
「私たちは、本当に愚かな女だったわね」
カロリーナが自嘲気味に笑った。
その夜、私は旅支度を整えた。シエラルは私の荷造りを興味深そうに見つめている。
「すぐに出発します。長い旅になりそうですね、シエラル」
「にゃあ」
シエラルは短く鳴いて、私の手に頭を擦りつけてきた。
ミルフレイクまでは馬車で五日の道のりだった。
国境に近いこの町は、思ったよりも小さく、石造りの古い建物が立ち並んでいる。
「セス・アレストリアという方をご存知ですか?」
宿屋の主人に尋ねると、彼は首をかしげた。
「セス? 聞いたことがないですねぇ」
私の心が一気に沈む。
もしかして、情報が間違っていたのだろうか。それとももう、別の場所に行ってしまったのか。
「茶色の髪で、大工仕事をしているかもしれないんですけど……」
「ああ、似たような人物なら知ってますねぇ。少し前にやってきて、今は町外れの古い教会の修繕をしているはずです」
「本当ですか? その人、名前は!」
「リオンと言ってましたけど」
リオン、か。
考えてみれば、セスが偽名を使っているのは当然だ。兄から身を隠すためには、本名を名乗るわけにはいかない。
私の心臓が跳ね上がった。
「ありがとうございます」
私はシエラルを抱えて、教会に向かった。
町外れの小さな教会は、確かに修繕工事の真っ最中だった。屋根の瓦を直している男性の後ろ姿が見える。そのシルエットは、見覚えのあるものだった。
「セス」
私が名前を呼ぶと、彼は振り返った。
「み、ミゼリアさん……?」
セスは梯子の上で目を見開いている。
あまりの驚きに、手に持っていた瓦を落としそうになっていた。
「どうして……ここに……っ」
彼は慌てて梯子を降りてきた。
「あなたに文句を言いにきました」
私はシエラルを地面に下ろす。
シエラルは嬉しそうに鳴いて、セスの足に体を擦りつける。
「文句って……」
「黙って出ていくなんてどういう了見ですか」
セスは困ったような表情で頭を掻いた。
「ごめんなさい。でも、あのまま僕が近くにいたら危険だったんです。ミゼリアさんにもしものことがあったら、僕は一生後悔します……」
セスは下唇を噛み、拳を強く握りしめる。
「僕は……ミゼリアさんを巻き込みたくなかったんです。なのに、どうしてこんなとこまで来ちゃうんですか……」
「巻き込むも何も、私はもう十分巻き込まれています。今更ですよ」
私は彼を見つめた。
「半年も一緒に住んでいたのに、最後に手紙一枚で去られると思いませんでした。私とシエラルのことを、その程度にしか思っていなかったのかと傷つきました」
「そんなことはありません!」
セスが声を上げた。
「あの家で過ごした時間は、僕にとって一番幸せな日々でした。ずっと、あの場所にいたかったです。本当に……」
「なら、どうして相談してくれなかったんですか」
「それは……」
私の問いに、セスは深く息を吸った。
「正直言うと、怖かったんです。相談して、『出ていけ』ってミゼリアさんに言われたらどうしようって思いました。ミゼリアさんに拒絶されるのが怖くて、黙って出ていったんです。どうしようもないやつですね、僕は」
私はセスの言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。この人は、私に拒絶されることを恐れていたのか。
「ほんと、ばかです。あなたは大馬鹿ものです」
私は小さくため息をついた。
「そんなことで私があなたを追い出すわけないでしょう。追い出すなら足が治った時点でとっとと追い出してます。大体、私はあなたを探すために、嫌いな故郷にまで戻ったんですからね。……見くびらないでください」
シエラルがセスを見上げながら、小さく鳴く。
「シエラルも、あなたがいなくなってから元気がありませんでした」
セスは目を見開き、うっすらと涙を浮かべ頭を下げた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい。僕は間違っていました」
「わかればいいです。でも次、また勝手なことをしたら、本当に怒りますからね」
「はい……」
セスは苦笑いを浮かべた。
それから私たちは、教会の境内にある古いベンチに座った。シエラルはセスの膝の上で気持ちよさそうに丸くなっている。
「でも、どうして僕を探してくれたんですか?」
セスが尋ねた。
「文句を言うためだと言ったでしょう」
「いや、それだけじゃなかったりするのかなぁって」
「その顔やめてください、むかつきます」
私は緩んだセスの頬を、右手でグイッと引っ張る。
私はため息をこぼすと、空を見上げポツリと続けた。
「……心配だったんです」
「え?」
「一人で大丈夫か、ちゃんとご飯を食べているか、怪我をしていないか。そういうことが気になって」
セスはぱあっと目に光を宿して、声色を高くした。
「僕も、ミゼリアさんとシエラルのことを毎日考えていました」
風が吹いて、教会の鐘が小さく鳴った。
「これからどうするんですか?」
「この町で大工として働こうと思っています。兄もここまでは追ってこないでしょうし、静かに暮らせそうです」
「本気でそう思っているんですか?」
私の言葉に、セスは困惑した表情を浮かべた。
「私があなたを突き止められたように、遅かれ早かれここを突き止めるでしょう。いくら逃げ回っても、根本的な解決にはなりません」
「そう、ですね。でも僕にはどうすることも」
「兄が行ったことを周知し、領民への理解を求めたらどうですか」
私は提案した。
「グレイウッド家の財産を浪費し、あなたを不当に追い回していることを、公にするんです。……あなたの受け継いだ遺産を求めていることも」
「え、どうしてそれを知って」
「私はこれでも生まれはそこそこいいんです。血筋を使って、あなたのことを調査してもらいました」
「ミゼリアさん、あなたは一体……」
セスは目を見開いた。
「私の名前は、ミゼリア・セルケンベルク。セルケンベルク家の名を使えば、領民に対しても、相応の信頼は勝ち取れるでしょう」
セルケンベルク家は、この地方でも古い名門の一つだ。政治的な影響力はそれほど大きくないが、信頼と名誉においては確固たる地位を築いている。
「セルケンベルク……ミゼリアさん、セルケンベルク家の方だったんですね。で、でもセルケンベルクの名を使うってどうやってですか」
「鈍感なんですか、わざとやっているんですか」
私は思わずイライラして、語気を強めた。
セスはきょとんとした顔をしている。
「私が、あなたの婚約者になると言っているんです」
「え、え、えぇっ!?」
セスの顔が真っ赤になった。
「セルケンベルク家の令嬢が婚約者であれば、あなたの立場は格段に向上します。兄の不正を告発する際の信憑性も増しますし、政治的な保護も受けられるでしょう」
私は冷静に説明した。
「でも、それは……ミゼリアさんにとって何の得もないじゃないですか」
「おかしなことを言いますね」
私は首をかしげた。
「あなたと一緒にいられることが、私にとって得なんですけど」
今度は私の頬が熱くなった。思ったより率直に言ってしまった。
「み、ミゼリアさん……」
「もちろん、最初は形だけの婚約です。お互いの状況が整理できたら、その時に改めて考えればいいんじゃないでしょうか」
私は慌てて付け加えた。
「でも、本当にいいんですか? 僕みたいな男で……」
「あなたみたいな男って?」
「家族に裏切られて、逃げ回っている情けない男です」
セスは自嘲気味に笑った。
「そんなことありません」
私は彼を見つめた。
「あなたは優しくて、誠実で、シエラルにも私にも親切にしてくれました。それに、逃げるのだって立派な選択です。無謀に戦って傷つくより、賢明だと思います」
シエラルが私の言葉に同意するように「にゃあ」と鳴いた。
「シエラルもそう言っていますよ」
セスは苦笑いを浮かべた。
それから私たちは、もう一度ゆっくりと話をした。婚約についての詳細、兄への対処法、これからの計画。
セスは最初こそ戸惑っていたが、私の提案の合理性を理解し、最終的に受け入れた。
数ヶ月後、私たちの計画は順調に進んでいた。
セルケンベルク家の名のもとに、セスの兄ギルバートの不正が公になった。賭博による借金、弟の名を騙った詐欺、遺産の不当な要求。すべてが明るみに出ると、グレイウッド家の領民たちはセスを支持した。
正式な調査が行われ、ギルバートは家督相続権を剥奪された。セスが新たなグレイウッド家当主として認められることになった。
「これで、もう逃げ回る必要はありませんね」
私たちは再び、あの山奥の屋敷にいた。
セスは書類整理のため一時的にここに滞在している。
「はい。すべてミゼリアさんのおかげです」
「そうですね。もっと感謝してくれて構いませんよ」
セスは苦笑したあとで、少し複雑な表情を浮かべた。
「あの、ミゼリアさん」
「はい」
「僕たちの婚約はもう役目を果たしました。もし、解消したいということでしたら……その……」
私は彼の言葉を遮った。
「解消したいのですか?」
「僕は……」
セスは頬を染めた。
「続けたいです。ミゼリアさんと一緒にいたい! でも、ミゼリアさんに気持ちを押し付けるようなことはしたくありません」
「ならいいんじゃないでしょうか。婚約はこのまま続けて」
「あ、あの僕はミゼリアさんの気持ちを尊重したいんですけど」
「本当になんなんですか。わざとやっているんですか」
「え?」
「私も、あなたと一緒にいたいから婚約を続けようって言っているんです」
セスの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「本当ですよ……もう」
シエラルが私たちの間で「にゃあ」と鳴いた。まるで祝福するように。
私たちの物語は、新しい章を迎えた。
今度は逃げることも、一人で悩むこともない。お互いを支え合いながら、ゆっくりと愛を育んでいけばいい。
「さてと、今日の夜ご飯はどうしましょうか?」
「ミゼリアさんの作る料理なら、なんでもいいです」
「なんでもが一番困るんですけど」
「じゃあグラタンで」
「グラタンですね。わかりました」
私は立ち上がって台所に向かった。セスも後に続く。
「僕も手伝います」
「ここ最近忙しかったですし、今日はゆっくりしていてください」
「それはミゼリアさんだって。それに、一緒に作る方が楽しいじゃないですか」
そう言ってセスは、慣れた手つきで野菜を切り始めた。
シエラルは椅子の上から、私たちの料理する様子を見守っている。時々小さく鳴いて、まるで指示を出しているみたいだった。
「ミゼリアさん」
「なんですか?」
「僕、幸せです」
セスは照れながら言った。
シエラルが満足そうに喉を鳴らした。
「私も…………」
ぼそっと小さく呟くと、セスが頬をだらしなく緩めながら私の顔を覗き込んでくる。
「私も、なんですか?」
「……っ。なんでもありません。料理中に危ないですよ」
「えー、ちゃんと聞きたいのに」
「ほんと、なんなんですか。もう……」
私は熱くなった顔を隠すように、あさってに視線を向ける。
外では風が木々を揺らし、暖炉の火が静かに燃えている。
私たちの新しい生活は、ここから始まっていく──。
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