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季節ものです。よろしくお願いします。
「何それ」
親父から説明を受けた俺の第一声はそれであった。
「お祖父ちゃんの遺言でな」
「は?」
「橘田佐知子という人物に、遺産の一部を相続させるように」
三週間前、俺の父方の祖父が亡くなった。享年八十五歳。
俺の祖父は昭和時代、東京二十三区内にたくさんの土地を買った。そして何千坪もの土地とその不動産を管理する会社を興し、一九〇〇年代から二〇〇〇年代にかけてのバブル景気とその崩壊やらリーマンショックやら色んな荒波を乗り越えた。運よくだが。そして結果祖父は亡くなるまでに、ひと財産を築き上げた。やり手祖父さんは銀行の口座預金だけで数十億円以上の遺産を、俺たち子孫に残してくれた。祖父ちゃん最高! と皆で崇めたがしかし……祖父は何を考えていたのか恐ろしいことに、その預金の大半を橘田佐和子に残すと遺言状に書き残した。
「橘田佐知子って誰なんだよ!」
「よく知らんが、親父が弁護士にした話ではお前の許婚だそうなんだが、知ってるか?」
「はああ? 許婚? 知るか! 誰それ! ふざけんな、俺こそ聞きたいよ!」
この令和の時代に許婚ってなんだそれは。
「弁護士さんがある程度は知っているみたいなんだが。橘田佐知子さんは時の沢(ときのさわ)にある花屋、フローリスト橘田の娘だそうだ」
祖父は弁護士にだけは伝えていたらしい。橘田佐知子の正体を。
「遺言状があるのではどうしようもない。しかし現金がこんなに減ってしまうんんて……なんとかその人に遺産放棄してもらえないかな」
事業を継いだ長男として、それをあてにしていたのだろう親父は、見たことのないほど苦々し気に顔を歪めた。嫌悪を感じるほどではないが、見ている者の気分を悪くさせる表情ではある。しかし絡んでいるのは悩ましくも金だ。余程のお人好しでなければ、まず放棄なんてしてくれないだろう。
「その女、殴ってやりたい、いっそ殺してやりたい。切れのいい包丁を買わなきゃ」
そんな物騒な言葉を発したのは祖母だ。無理もないと俺は思ってしまう。祖父と祖母は滅茶苦茶仲が悪かった。祖母はいつも愚痴っていた。祖父は祖母をただ働きの家政婦と思っていると。
そもそも祖父と祖母のなれそめは知人による紹介のお見合いであった。一度顔合わせをし、男女双方が互いの条件に納得すればそれで婚約成立。半年後に結婚。それまでに二人が顔を合わせたのは数えるほど。愛を育むなんてそんな時間は皆無だった。
「昔はそれが当たり前だったのよ。それでも結婚してそこから情が湧いて、お互いを思いやれる夫婦だっていたの。でも私とお祖父さんは違った」
祖父の祖母に対する態度は新婚当初から事務的だった。子育て中は、子どもという夫婦を結びつける媒体があったが、子どもたちが独り立ちして夫婦二人の生活になってからの二人の関係は、それはそれは冷めたものだったらしい。
「話しかけても生返事。向こうから話しかけられるのは必要最低限なことだけ。茂に会社を任せてからは、友人とゴルフ麻雀三昧。旅行も外食も私と二人だけで行くのは嫌だと全て断られたわ。どうしても出かける用事があって私と車で二人きりにならなければならない時なんて、あからさまに嫌がられたのよ」
祖母の愚痴は始まると止まらない。茂は俺の親父だ。
「どこの馬の骨ともしれない女を、相談もなくかわいい孫の許婚なんかにして。私への当てつけ? 私の血縁者への遺産を少しでも減らしたいのよ。さんざん人をこの家に縛りつけておいて、人を馬鹿にしてるわ。絶対に一円も渡したくない」
橘田佐知子。二十三歳。父親は橘田久。母親は橘田厚子。母親は若くして病に倒れ今は鬼籍に入っている。一人娘の佐知子は大学卒業後、父と二人でフローリスト橘田を切り盛りしていた。ざっとそんなことが書かれた報告書も届けられていて、父は「あ~あ」と言いながら溜息をついた。
「その女をなんとかしないと」
祖母はそう言ってから、馬鹿にするように鼻を鳴らした。
季節は十一月。クリスマスまであと一月以上あるというのに、時計が丘(とけいがおか)の駅前は、すでにクリスマスの装飾と音楽で溢れ返っていた。
今日は風のないよく晴れた土曜日。ただ今、十三時少し前の気温は、信じられないことに二十度以上ある。あと一時間はまだ気温が上がるだろう。俺は朝晩の冷えを考えてついつい秋物の薄手のコートを着てきてしまったが、今現在、これを脱ぎ捨て地面に叩きつけたいほど日差しも空気も暑い。長袖Tシャツ一枚になりたい。紅葉がやっと色づいて銀杏なんてまだ九割がた緑の葉を茂らせているという温暖化の影響もあるのに、さらに本日のこの狂った気温、どう考えてもクリスマスなんて雰囲気は合わないだろう。俺はイヤホンをつけ音楽を遮断すると装飾を視界に入れないようにして、この不自然な季節感を押しつけるような違和感バリバリの街中を、汗ばんだ額をハンカチで拭いながら、足早に突っ切って行った。
俺が時計が丘の駅から徒歩で向かっているのは時の沢駅。そう、橘田佐知子の働く花屋へ向かっている。彼女は祖父の遺産についての連絡をもらい、突然の相続話に戸惑っているらしい。なんでも、彼女は俺の祖父の名前を聞いたことがなく、遺産を分けてもらうような関係の心当たりもないそうだ。
はっきり言って俺たち――祖父の親族と、橘田佐和子は相続問題の敵同士。親父は弁護士に任せろと言うが、勝手に許婚なんて指名されてしまった俺は、家でじっとしてなんていられなかった。どうしても橘田佐知子に会って話がしたかった。
読んでくださってありがとうございました。