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ミラ・オーウェンは、ごく普通の子爵令嬢である。
小さな領土ではあるが、誠実な領民に恵まれ、爵位に見合った生活の中で優しい両親に愛されて育った。
最低限の教養や礼儀作法は弁えており、未だ婚約者はいないが、伯爵家に嫁ぐことになるだろうとは聞かされていた。
そんな彼女には、一つだけ平凡で無いことがあった。
ミラは前世の記憶を持っていた。この世に生を受け、産声をあげた刹那に、走馬灯のように目まぐるしく前世の映像が脳内で流れた。
世界が眠り星が瞬く頃に孵化し、兄弟達と共に砂の中を脱し、碧く煌めく海へと向かって必死に歩んでいたこと。
海を感じられるまであと一歩というところで、命を落としてしまったこと。恐らく、烏か鳶あたりに喰われてしまったのだろう。痛みや苦しみを覚えていないことは不幸中の幸いと言うべきか。
とは言え、心待ちにしていた海への旅立ちを、寸前でまさかのあの世へ強制連行されてしまった当時の無念さは、言葉に現すことが出来ない程のものだった。
(神様。なぜ私なのですか。私には、海を知る権利は無いと、長く生きる資格は無いと言いたいのですか?)
今際の際に目にしたのは、海へと潜っていく自分以外の全ての兄弟達だった。
意識が暗転する最期の最後まで神様への文句を呪詛のように吐き出し、あまりにも短過ぎた人生ーこの場合は亀生とでも言うのだろうかーを終えた。……はずだったのだが。
『そんなに責められちゃったら、神様ってば本気を出しちゃうしかなくなっちゃうじゃん〜』
間延びしたやる気の無いような声が響く。
気付けば、何も無い真っ白な空間にいた。
目の前には順当に育っていれば自分もそうなっていたかも知れないような、大きな甲羅を持った亀がいた。
「……え、あなたは?」
『神様で〜す。いぇい』
「神様って亀なの?」
『んーん、神様はなんにでもなれるから、とりあえず君に合わせて亀の姿を見せているのであって、亀という訳では無いのだよ〜。絶世の美女にもなれるし、巨大なモンスターにだってなれる、だって神様だから凄いのだ〜』
「はぁ……」
胡散臭さを隠しきれない自称“神様”とやらは、海の中を遊泳するように身軽に旋回しながら続ける。
『いやぁ〜……本来であれば、天寿を全うした君の魂をあるべき場所へと戻して〜、輪廻を巡った後に転生って感じがセオリーな流れだったんだけどさぁ。君があんまりにも生への執着が凄すぎて、神様への文句も激しいもんだから、神様ってばやる気になっちゃってさ〜……輪廻を巡るうんたらかんたらをすっ飛ばして、サクッと転生させてあげる事にしたんだぁ』
「え、マジですか」
『マジマジ。超大マジよ〜。で、やる気を出しちゃった神様から素晴らしいオプションがあるんだけど〜、転生後は何になりたい〜とかの希望ってあったりする〜?』
「え」
今さっき死んでしまったばかりの身に起こる事とは思えない程の急展開に、激しく頭が混乱した。
ただ、これが夢でも妄想でもなんでもいいから、心の奥底から湧き上がる望みくらいは言ってもいいだろうかという気持ちになり、半ば無意識に口を開いていた。
「……もしも生まれ変われるならば、産まれた瞬間から守ってもらえるような、死とはなるべく遠い距離にある存在になりたい。なるべく家族と共にありたい。長生きがしたい」
自称“神様”の口角が、にんまりと上がった。
『了解〜。次に目が覚めたときには、産まれた瞬間から守ってもらえて、なるべく家族と一緒にいられて、長生きできる存在になってるよぉ〜。じゃ、来世では頑張れ〜』
自称“神様”の姿が陽炎のようにゆらめいて消え、辺りは眩い光に包まれる。
命を失った時に似た、意識が遠のく不快感が全身に巡ってーーー。
優しい光に導かれるように目を開けば、けたたましい泣き声が響き渡っていた。しかも、どうやら泣き声は自分から出ているらしかった。
(……どうなってるの……?)
身体は上手く動かせ無いし、不明瞭なモノトーンの視界には、なんとなく笑っているような2人の男女の姿。
「お前に似て愛らしい娘だ。本当によく頑張ってくれた」
「無事に産まれてきてくれてほっとしていますわ。……ねぇ、私たちの可愛いミラ」
その言葉で、ミラは本能的に理解した。
あれは夢でも妄想でも無かったのだと。
自分の前世は紛れも無くウミガメであり、産まれたとほぼ同時に死んでしまい、あまりの生への執着の強さから神様によって転生させてもらえたのだと。
(なるほど。私は今世では人間なのね)
かくして、オーウェン子爵家の嫡女として新たに生を受けたミラは、両親のあたたかな愛情と共に、ここぞとばかりに人生を満喫していた。
産まれた瞬間から守ってもらえて、家族と一緒に過ごせて、下級貴族ながらも裕福な暮らしが出来て、前世で渇望していたものが全て手に入ったような気さえしていた。
(人間最高。貴族万歳。イージーモード過ぎてやばいわ)
そうして慎ましく平穏に日々を過ごし、自称“神様”に感謝ができるようになってきた15歳を迎えたある日。
ミラはふと思い立った。
「……そう言えば、まだ一度も海に潜っていないわ」
前世では海に届くまでに命を落としてしまった。
今世では、オーウェン子爵領は陸地に囲まれている為、海に触れる機会がなかった。
海を感じるというのも、前世からのミラの夢の一つだった。
思い立ったが即行動が早死にしたミラのモットーであった。早速、その日の内にミラは父である子爵に打診した。
「お父様、私ヘブライヤへ行ってみたいです。アカデミー入学前の知見の増幅と、他領地への視察も兼ねて」
ヘブライヤとは、ヘブライヤ伯爵家が治めており、オーウェン領の隣にある海に面した漁業が盛んな街で、貿易の要とも言われている。
オーウェン子爵家も懇意にしており、ミラの婚約者候補はヘブライヤ伯爵家の次男だと使用人が噂しているのを耳にした事があったが、子爵がなにも言わないのでミラも知らない振りをしている。
「素晴らしい心掛けだ。アカデミーには優秀な令息令嬢が揃っているだろうから、遅れを取らない努力をするのは大事だ。それにヘブライヤであれば安全の面でも心配は無い。交流も兼ねて、伯爵家に暫く滞在させてもらうといい。伯爵には私から文を送っておこう」
「ありがとうございます、お父様」
「ハメを外し過ぎてはダメよ、ミラ」
「はい、お母様」
優雅に微笑む母ー子爵夫人にそう返し、ようやく訪れた海へ入れる機会に、ミラは胸が高鳴るのを感じた。
* * * * *
信頼の置ける侍女一人と、護衛騎士を二人だけ連れて、荷物もそこそこに意気揚々とヘブライヤへやって来たのが数日前。
ヘブライヤ伯爵家への挨拶やら視察やらを迅速に捌き、「流石はお嬢様」と拍手する侍女と護衛を尻目に、海へ向かうべくこっそりと抜け出してきたところで、ミラはポールと名乗る奇妙な平民の少年と出会ったのだった。
海へと続く遊歩道に並んで腰をかけ、ポールは雲の泳ぐ空を、ミラは宝石のように輝く波を見ていた。
風が運んできた潮の香りが鼻を掠める。
肩で切りそろえられたミラのプラチナブロンドの髪が淡く揺れる。
「つまり、要約すると、ポールには前世の記憶がある。その前世の記憶によると、ここは乙女ゲームの世界で、私はモブ?という立ち位置のキャラクター。アカデミー入学後に関わる事になるシャルロットという公爵令嬢にいいように使われ、結果アカデミーの卒業パーティーで糾弾・断罪され、オーウェン家は爵位剥奪され、私は斬首刑。齢18で死ぬと……そういうことね……?」
「う、うん……ごめん、初対面の、それも平民の俺なんかに言われても信じられないだろうけど……」
「信じるわ」
「え…………?!」
信じられないといった顔を向けるポールに、ミラは淀み無く言った。
(何より、私自身にも前世の記憶があるもの。……まぁ、私の前世は人外だけど)
それだけでなく、ポールの言うことには妙に信憑性があったし、平民では知るはずの無い内容も含まれていた。
なにより、ミラにとって最大の需要時頃である“長生き”が、僅かにでも脅かされる可能性があるのであれば。
(今世では絶対に長生きすると決めたのだから、把握できる死亡フラグはどんなに些細な事でも回避しておきたいもの。たとえ、それが妄想や虚言であっても関係無いわ)
ミラは強く決意した。
ポールを利用して、是が非でも死んでなるものかと。
「ポール。アカデミー入学までに、ある程度の準備をしておきたいの。シャルロット公爵令嬢以外に気を付けた方がいいこと、他にできることは無いのかも、分かるなら教えて欲しい」
「……!! 信じてくれて、ありがとう。君の信頼に応えられるように、絶対に助けてみせるよ」
真剣な眼差しをして、ポールはミラの両の手を強く握った。畑仕事でもしているのか、ポールの手は歳の割に皮が厚く、ごつごつとしていた。
「……いきなり手を握られると、びっくりするわ」
「はあああっ、ご、ごめん!!! 握手会でも無いのに無課金で無断で接触してしまって……!!!! ダメだ色んな意味で死ぬ……」
不可解な事を言ってのたうち回るポールを尻目に、手のひらに残る彼のあたたかさに、胸にじんわりとした何かが広がっていくような、不思議な感じがした。
(……男の子と手を握ったのなんて、初めてだわ)
ポールの珍行動が落ち着くまで、ミラは正体不明の心地よさに浸り続けた。