8話-不信の理由
「ツェツィーリア様、もうすぐ出来ますから、少しだけじっとしていてくださいねぇ」
「は、はい。お願いします……」
朝になると、アルーシャが手配した若いメイドが隠れ場所までやってきた。
メイドはツェツィーリアの手を引いて、あれよあれよという間に湯浴みから衣服の新調、軽い化粧から髪を結うところまで、ほんの一時間ほどで手際よく終わらせてみせた。
「はい、終わりましたよ。鏡をご覧になりますか?」
ツェツィーリアは頷くと、メイドが取り出した小さな手鏡をおそるおそる覗きこんだ。
そこに写っていたのは、清潔感のある白と緑のエプロンドレスを着た可憐な少女の姿だった。長い銀髪も邪魔にならないように一つに纏めて三つ編みになっている。
ツェツィーリアは見たことのない自分の姿に、目を輝かせながら驚嘆の声をあげた。
「わぁ……」
「お気に召したようで良かったです。ツェツィーリア様は素材が良いので、思わず張り切っちゃいました」
「あ、ありがとう、ございます。えーっと」
「サーシャで良いですよ。お屋敷ならもっと色んなお洒落ができますから、楽しみにしていてくださいね。メイド達全員でツェツィーリア様を誰もを魅了する美少女に仕立ててみせますから。お嬢様はとにかく手が掛からなさ過ぎるので、暇を持て余しているんです」
そばかすと赤い縁の眼鏡が特徴的なロレーヌ家のメイド、サーシャ。メイド長の娘で、幼い頃からロレーヌ家に奉公に出ていたためにアルーシャとは長い付き合いだ。
彼女からべた褒めされたツェツィーリアは、少し照れ臭そうにしながら外していた眼帯を付け直す。
「サーシャ、ツェツィをあまり困らせないの。まだ慣れないことばかりなんだから」
「はーい、分かってますってば」
壁越しに話を聞いていたアルーシャが扉を開けて、呆れ顔でサーシャに注意する。
一方でアルーシャはメイドの助けもなく、一人で身だしなみを全て整えていた。昨日とは違い、ベアトップの真っ赤なドレスを身に纏った彼女は、今から舞踏会にでも行くかのような装いだ。
「用意ができたなら早く行くわよ。外で人を待たせているし、今から出れば日が暮れる頃にはトゥワイスに着くはずよ」
「トゥワイス?」
「ええ。グライスナー伯に直接会いに行くのよ」
グライスナー領、トゥワイス。辺境とはいえ、伯爵の屋敷のあるこの街は領内で最も栄えており、レスデから出たことのないツェツィーリアにとっては殆ど都会のようなものだった。
そんな場所で粗末な恰好をしていれば恥をかくことになるだろう、と自分がわざわざ装いを新たにしたことに対して、ツェツィーリアは納得するのだった。
しかし、グライスナー伯はアルーシャとツェツィーリアを追う刺客を放ってきた張本人だ。こちらから会いに行って危険はないのか、とツェツィーリアは首を傾げた。
「会いにいって、大丈夫なんですか?」
「もちろん。彼は私達に構っている場合ではなくなったはずだから。サーシャ、先に馬車まで行って準備ができたと伝えてきてくれるかしら。」
「分かりました、お嬢様。」
サーシャが先んじて裏口から家を出ていく。裏口は別の民家の敷地に繋がっており、そこから路地裏を通って誰にも見られずに外へ出ていくことができる。
サーシャを見送ると、アルーシャはツェツィーリアの手を引いて、裏口とは別方向にある玄関まで足を運んだ。
玄関の扉越しに、外に多くの人の気配がする。アルーシャはツェツィーリアの手を強く握りしめた。
「手を離しちゃ駄目よ、ツェツィ。私を……いいえ、自分を信じなさい。」
「はい、アルーシャさま」
ツェツィーリアが頷いたのを見て、アルーシャは柔らかな笑顔で返した。
二人で扉を開き、その目の前で待ち受けていたのは、ツェツィーリアの母親であるイルマと七人の兵士、そして兵士が集まっているのを見かけて何事かと詰めかけた野次馬だった。
「ツェツィ!」
「……お母さん」
イルマが声をあげてツェツィーリアに近寄ろうとするが、兵士達に制止される。
兵士の一人が鞘に納められた剣の柄に手を掛けながら、険しい表情でアルーシャに問いかけた。
「アルーシャ嬢。そちらの彼女を渡していただけますか」
「あら、どうして貴方達の言うことを聞かなければならないの。自分の立場というものを弁えなさいな」
アルーシャは武装した兵士達に怯むことはなく、逆に高圧的に返答する。それに対して、兵士達は苛立ちを隠せない様子だ。
「立場を弁えていないのはそちらの方では。護衛も居ない小娘程度ならば、どうにでも出来ます。すぐにでも実力行使に出ていないのは、貴女がかのロレーヌ家の娘だからですよ」
「こっちは同僚が三人も殺られてるんだ。タダで済むと思ってんのか!?」
「――――――ハァ」
兵士達の罵声に、アルーシャはわざとらしく深い溜息をついて手を握っているツェツィーリアを抱き寄せる。
彼女は周囲を一瞥すると、大きな声でまるで演説するかのような口調で語りかけ始めた。
「聞きなさい、レスデの民よ。私の名はアルーシャ・フォン・ロレーヌ。王国騎士団の団長、テオドール・フォン・ロレーヌ公の娘です」
アルーシャが発する覇気のある言葉に、騒いでいた野次馬や周囲にいた人々はぴたりと話をやめ、一体何が始まるのかと皆思わず息を呑んで彼女に注目した。
静まり返ったのを確認すると、アルーシャは言葉を続ける。
「私がわざわざこの地を訪れたのは、【聖女】を保護するため。【聖女】は伝説やおとぎ話の存在ではありません。今ここに、実在するものなのです」
「……【聖女】、だって?」
【聖女】という単語、そしてそれが実在するという事実を聞かされ、町の人々は動揺し始める。
普段ならば冗談だろうと一蹴するような話題だが、本来会う事などできない貴族の令嬢が改まって言うことによって、その話題に僅かな信憑性が付加された。
「信じられないのも無理ありません。今から皆様に、【聖女】の力を証明して差し上げましょう」
そう言い放つと、アルーシャはツェツィーリアの頭の後ろにある眼帯の結び目を解いて、右目にある【ケルレウス正教】が信仰する神の紋章を露わにする。
そして、続けざまにアルーシャは兵士達に向き直り、異様な凄みさえ感じる、冷ややかな声で命令を行った。
「――――――跪きなさい」
その瞬間、兵士達は一人たりとも命令には抗えず、武器を取り落として地面に這いつくばるように跪いた。身体をガタガタと震わせ、恐怖に顔を歪ませる。尋常ならざるその姿に、人々は驚嘆の声をあげるしかない。
実際には【聖女】ではなく、【服従】と呼ばれるアルーシャの呪いの力なのだが、何も知らぬ人々の目には、それが【聖女】の力によって為されたようにしか見えなかったことだろう。あくまでアルーシャの狙いは、【聖女】の力が得体の知れないものであると人々に思わせることにあった。
「これは力の一端に過ぎません。ツェツィーリア・ビスマルク、彼女こそが【聖女】であると……ご理解いただけましたか?」
その問いかけに、答える者はいない。一瞬の静寂が周囲を包んだ。
再びアルーシャが周囲を一瞥すれば、野次馬や町の人々から向けられていた好奇の目が畏怖に変わっていた。
それを確認すると、畳みかけるようにアルーシャは続ける。
「そして私は昨日、【聖女】であらせられるツェツィーリア様に……あろうことか、暴力を振るった町の子供を目撃いたしまして」
アルーシャは人混みの中を指さし、歳不相応の妖艶な笑みを浮かべる。
「そこの方、お名前は確か……オラスさま、でしたわね。貴方の娘のことですよ」
「ヒッ……」
指をさされてオラスと呼ばれた男性は、恐怖のあまり後ろに後ずさってしまう。
ツェツィーリアを集団で取り囲み、暴力を振るった悪童たち。そのリーダー格である少女の親がその男性だったのだ。
もちろん、彼を指摘しただけでは終わらない。
「ああ、そうそう。そこの貴方も、四日前にツェツィーリア様が食料を買いに市場を訪れた際、法外な価格を提示して嫌がらせをしたと聞いておりますわ。そして、そちらの女性の方は、二週間ほど前にツェツィーリア様を見て、娼婦の娘だと嘲りましたわね?」
アルーシャは人混みの中を指しては、その人物がツェツィーリアに対して行った悪事を、正確な日時から内容まで淡々と突きつけていった。
「――――――【聖女】を愚弄し、虐げた罪。この私が許すとでもお思いですか?」
最後にこう告げると、人々はパニックとなってしまう。
先ほど目の当たりにした【聖女】の力もあるが、平民と貴族の身分差が激しいこの国で平民が貴族を敵に回すことは、即ち死を意味すると言っても過言ではない。
後ろめたいことがある者はその場から逃げ出すか、許しを乞い始めた。彼らをアルーシャは凍るような冷たい目で見下す。
そして、その目線の先には、ツェツィーリアの母であるイルマも含まれていた。
「イルマさん。見て見ぬふりをしていた、貴女も同罪ですわ。貴女も差別を受けていた被害者だったのかもしれませんが、同時に加害者でもあった」
「そ、それは……」
「貴女は理不尽に晒され続けている娘を護ろうとはしなかった。それどころか、夫が自分達から離れていったのは娘のせいだと心の内で疎ましく思い、肯定すらしなかった。」
かつてアルーシャが会ったツェツィーリアは、心に深い傷を負っていた。
町の人々から虐げられていた幼少期は、母を苦しめているのは自分であると自分を罰し続けていた。
母ですら、彼女の味方ではなかった。誰も彼女を肯定する者はいなかった。
だが、【聖女】と分かるや否や、彼女を虐げていた者達さえ、態度を変えて媚びへつらうようになってしまう。
他人にとって自分は都合の良い道具にしか過ぎないのだという現実を、無理やり直視させられた。
その結果、ツェツィーリアは誰も信じられなくなった。
彼女はいつも独りだった。
「それでもツェツィは、病気で体調を崩しがちだった貴女を、献身的に支えようとしていたのに……愛する夫の為に、グライスナー伯に売ろうとした。違いますか?」
「売ろうだなんて、そんなことは……」
「私がここに呼んだのは貴女だけ。穏便に進めようとしていたのにも関わらず、兵士を呼んで無理やりツェツィを連れていこうとしたことが、紛れもない証拠ですわ。」
イルマはアルーシャの言葉に唇を噛みしめ、黙って俯いてしまう。
何も言い返すこともできない。それは、アルーシャが投げかけた言葉の全てが真実であったことを示していた。
「お母さん」
ツェツィーリアは前に出て、立ち尽くすイルマに向かって手を差し出す。
「わたし、まだ……お母さんのことを信じたい。駄目、かな」
「でも、わたしは……貴女のことを売ろうとしたも同然なのよ。失ったものを取り戻そうとして。何もかも、アルーシャ様の言う通りだわ。私は最初から母親失格だったのよ」
「わたしのお母さんはお母さんだけだから。わたしはわたしの中にある、大好きって思いを信じたい」
「ツェツィ……」
イルマは目に涙を貯めながらツェツィーリアの手を握り返し、そのまま自分の方に身体を引き寄せて抱きしめた。
「ごめんなさい。娘に支えられるなんて、駄目な母親ね」
「ううん、そんなことない。お母さんもずっとわたしの為に頑張ってくれたこと、知ってるから」
ツェツィーリアは精一杯の笑顔を見せて、イルマをなんとか元気づけようとする。
それが分かったイルマは、堪え切れずに思わず大粒の涙を零した。
「イルマ・ビスマルクさん。昨日のお返事、聞かせてくださるかしら」
「はい、アルーシャ・フォン・ロレーヌ様。許してくださるのならば、貴女様の所へ行かせてください。娘を、お願いいたします」
「よろしい。その言葉が聞きたかったのですわ」
アルーシャがそう言ったと同時に、馬車が近づいてくる。
馬車はロレーヌ家の紋章が掲げられており、停車するとキャビンの中からサーシャが出てきて三人を手招きする。
「お嬢様、ツェツィーリア様。それに、お母様も。早くこちらにお乗りくださいませ!」
「行きますわよ、二人共。話の続きは移動しながらゆっくりと」
アルーシャはツェツィーリアとイルマに馬車に乗るよう促しつつ、怯える人々と跪いたままの兵士達に、再び冷たい視線を向ける。
(演出とはいえ、少々やりすぎてしまいましたか?)
ツェツィーリアと初めて会ったときの、ひどく寂しそうな表情をアルーシャは思い返す。
あの表情を二度とさせまいと、この筋書きを建てたのだが。
ここまでしてもなお、あの最悪の結末の光景は脳裏にこびりついていた。
(――――――やはり、この程度では満たされませんわね)
アルーシャは踵を返して馬車に乗り込む。
未だ彼女の心に、あの日灯った憎悪の炎は燻り続けている。