5話-誤算
すべて、上手くいくはずだった。
【ケルレウス正教】との取引と【聖女】の確保。
【貴族派】が進める、現国王の打倒計画。
グライスナー領の領主であるベルトルト・フォン・グライスナー伯爵が最初の誤算に気が付いたのは、彼が優雅に夕食を楽しんでいるときだった。
「お、お食事中に失礼いたします!」
側近の文官が酷く慌てた様子で、扉を勢いよく開けて部屋に入ってくる。
その様に、ベルトルトはワイングラスを片手に彼の行動をたしなめた。
「なんだ、わざわざこんな時に。落ち着きたまえ、そこまで慌てる必要がある内容なのか」
「も、申し訳ございません。ですが、王国騎士団の副団長が少数の騎士を率いて、このグライスナー領に向かっているとの情報が入りまして……」
「なっ――――――」
ベルトルトはまったく想定していなかった内容に思わず絶句し、震える手で持っていたワイングラスをテーブルに置いた。
王国騎士団は【貴族派】と敵対している【王党派】の権力の象徴であり、王権の代行者たる彼らは地方の貴族にとっては天敵と呼べる存在だ。
そのような者達がわざわざ目立たないように少数でグライスナー領に向かっているとなれば、只事ではないのは明白だ。
「目的は何だ。掴めているのか。」
「それが……まったく分からず。深夜に王都を発ったようで、密偵からの情報もありません。」
「くっ……関所か街に着いたら、丁重にお迎えするのだ。私もすぐに向かうと伝えろ。」
「承知いたしました……が、実は報告はそれだけではなく」
「まだなにかあるのか!?」
身体を縮こませる文官に、苛立ちを隠せない様子のベルトルトは立ち上がって彼を怒鳴りつける。
文官は震える声で、報告の続きを述べ始めた。
「そ、それが……実は、【聖女】が」
「【聖女】がどうしたというのだ」
「【聖女】が、誘拐されたとの報告が」
「な、なっ――――――」
怒りのあまり、ベルトルトはテーブルに拳を叩きつけてしまう。
文官が今まで怯えていたのは、こうなることが事前に予想できていたからだろう。
「見張りは何をしていた!犯人が誰なのか、もちろん把握しているのだろうな」
「はい……本当かどうかは、疑わしいところなのですが」
「さっさと言え!」
「ロレーヌ家の、アルーシャ・フォン・ロレーヌ嬢だと」
「ロレーヌ家、だと?」
文官から知らされた事実に、怒り狂っていたベルトルトは逆に脱力してしまい、椅子に倒れるように座って頭を抱える。
アルーシャは王国騎士団団長のテオドール・フォン・ロレーヌの一人娘だ。彼女がわざわざ辺境にあるレスデまでやってきて、平民の少女を誘拐するなどということは、普通は考えられない。
ツェツィーリア・ビスマルクが【聖女】だということが、【王党派】の連中にバレている。そう、考えざるを得なかった。
そして、機を見計らったようなタイミングで行われている、王国騎士団の副団長による少数でのグライスナー領への訪問。
ベルトルトは知らぬ間に【王党派】の行動が既に始まっていたのだと、すぐに理解した。
「なぜだ。【聖女】の存在が、奴らにバレるはずがない……」
ベルトルトにとって、もっとも不可解な点はそこだった。
【聖女】は大きな出来事が起こる前触れとして現れる存在だ。歴史上で見ても、間隔は数十年、長ければ百年経っても一人も現れないことだってある。
ベルトルトでさえ、彼女を見つけたのは最近のことだ。王都に住む者が、遠く離れたグライスナー領で誕生した【聖女】の存在など、知っているはずがない。
導き出される結論は一つだけだ。
(裏切ったのは、正教会の人間か?いや、正教会側に情報を漏らすメリットは皆無だ。)
正教会には、事前に【聖女】を引き渡す約束をしていた。
彼らにとって【聖女】とは、自分達の信仰を証明する極めて重要な存在であり、是が非でも手元に置いておきたいと考えるだろう。
だが、正教会の高位聖職者にとっては、【聖女】は疎ましくもあった。【聖女】は反権力の象徴と呼べる存在でもあり、民衆を蜂起させるものであったからだ。
権力という甘い蜜を啜り、栄華を極めている高位聖職者からすれば、現在の状況が続いてくれたほうが都合が良い。そこで、正教会側で隠匿するために【聖女】の身柄を極秘裏に欲したというわけだ。黙っていれば【聖女】の身柄が安全に手に入るのだから、おしゃべりになる必要などない。
もっとも、ベルトルトは【貴族派】の体制が整うまで【聖女】を正教会に隠し、来たるべき時の切り札として使う算段だったのだが。
【貴族派】が行動を起こそうとしていることを正教会が知らない以上、この計画がバレることもなかっただろう。
(あと、【聖女】の情報を知っているのは、あの愚鈍な母親だが……いや、辺境に住むただの平民が【王党派】と繋がりを持つなど、それこそ有り得ない話だ。)
「ベルトルト様、いかがいたしましょう。」
「……【聖女】を奪い返せ。ただし、くれぐれもアルーシャ嬢には怪我をさせるなよ。王子の許嫁だぞ。」
「承知いたしました。」
文官は頭を下げ、部屋から退室する。
その姿を見やることなく、ベルトルトはグラスにワインを注いで一気に飲み干した。
「いったい、なにが起こっているというのだ……」
つい先ほどまでは考えもしなかった、あり得ない事態。
キレ者と称されるグライスナー伯ですらも、ただ頭を抱えるしかなかった。
***
「――――――と、いう感じでグライスナー伯は今頃頭を悩ませていると思いますわ」
アルーシャは淡々と現状を説明した後、その言葉で締めくくった。
今彼女達がいる場所は、レスデにある酒場の地下。酒蔵となっている地下は身を隠すのにうってつけで、事前にアルーシャの密偵が用意しておいたものだ。おかげでツェツィーリアを路地裏からここまで誘導し、こうして腰を落ち着けて話が出来ている。
とはいえ、まだ十歳のツェツィーリアに、貴族や正教会の話は難しすぎる。ましてや、生まれたからこの街を出たことのない、世間知らずの少女ならば猶更だ。
「……ええっと。つまり、わたしは悪い人から……追いかけられてるって、ことですか」
「それだけ分かれば十分だわ。偉いわね、ツェツィ」
背丈はアルーシャの方がいくぶんか高く、椅子に座って休んでいるツェツィーリアの頭をアルーシャが撫でてやる。
そういった扱いに慣れていないのか、目を覆ってしまうほど長い前髪の隙間から赤くなった頬が見えている。
「で、でも、わたしが【聖女】様、なんて……」
「信じられない?まぁ、無理もないわよね。おとぎ話や、伝説の中の登場人物ですもの。まさか自分がそんな存在だなんて」
「はい……」
「でもね、ツェツィ。それが貴女の現実で、運命なの」
アルーシャはそう言うと、屈んでツェツィーリアの膝を見る。
派手に擦りむいて、痛々しい姿となっていたはずだ。
だが、そこには傷一つすらも残されていなかった。
「普通の人はね、傷がものの数分もしないうちに勝手に完治したりはしないのよ」
「……それは、お母さんが、私が特別な体質だから、って」
「そんな体質、王都どころか王国中を探し回っても居ないわ。それにね……」
アルーシャはツェツィーリアの銀色の前髪を掻き分けて、顔を、瞳を、まじまじと見る。
ツェツィーリアの右目の瞳には、【ケルレウス正教】が信仰する神の紋章が刻まれていた。
「こんな綺麗な瞳をしてるヒトは、この世でたった一人だけよ」
「き、きれい……?」
アルーシャに屈託のない笑みを向けられて、ツェツィーリアは少し困惑する。
瞳の異常は今まで、そういった感想を向けられたことがなかった。
母の家族から異様な目で見られ、街の人々からは気持ち悪いと言われ。
最初は好意的に見ていた母も、次第に態度を変化させていった。
この瞳のせいで父も出ていったのだと、自分の罰なのだと、そう思い込んでいた。
「ええ、綺麗よ。今まで言われたことなかったのかしら」
「なかった、です」
「あら、こんなに綺麗なのに。なら、私が独り占めしてしまおうかしら」
アルーシャは真っ赤な薔薇が刺繍された黒い眼帯を取り出すと、ツェツィーリアの右目に付け始めた。
レスデに来るずっと前から用意しておいた、彼女へのプレゼントだった。
「これ、は?」
「眼帯よ。その瞳は特別なものだから、あまり見せびらかさないほうがいいと思うわ。片目だけだと変な感覚だけど、我慢してね」
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
眼帯を付け終わると、再びアルーシャは笑顔でツェツィーリアの頭を撫で、椅子を動かしてツェツィーリアの隣に座る。
ボロ布同然の衣服を身に纏ったツェツィーリアと、紺色のスカートドレスを身に纏ったアルーシャが並ぶと、同じ年齢ながらもまったくもって不釣り合いな二人に見えた。
「どうして、どうして……助けてくれる、のですか。わたしが、【聖女】だから?」
「ツェツィ、貴女にだけは嘘はつきたくないから言っておくわね。貴女を助けるのは、ロレーヌ家の長女としてじゃない。貴女が私の大事な親友で、愛する人だから。」
アルーシャは真剣な眼差しでツェツィーリアを見つめる。その双眸には、十歳とは到底思えないような、底知れぬ覚悟が秘められていた。
「私はね、未来から来たの。貴女が【聖女】だと知っているのも、そのおかげ」
「みらい……?」
「もう少し先のことよ。貴女が王都の学校に通うようになってから、色々あってね。それで私達は友達になったのよ。でも、私は貴女を置いて死んでしまった。貴女が不幸になるのを、止められなかった。ううん、私のせいでもっと不幸になった」
「……」
「私はツェツィを助けたい。今度こそ幸せになってほしい。これが噓偽りのない、私の願い」
アルーシャはツェツィーリアの手を両手で握りしめ、訴えかけるように言葉を投げかけた。
ツェツィーリアはまたもどうしていいか分からず、困惑する。
今まで受けてきた理不尽によって、彼女は自分を肯定することができなかった。それが当たり前であったからだ。
「お願い、私を信じて。今はただ、私に付いてきてくれるだけでいいから」
「……わたし、は」
ツェツィーリアはなんと答えていいか分からなかった。
今起こっていることも、自分の気持ちも、まったく整理できていなかったからだ。
それに、目の前にいるアルーシャに対して、どう接していいのかも分からなかった。ここまで真っ直ぐな好意を、今まで向けられたことが無かったから。
しかし、ツェツィーリアが言葉を詰まらせていると、酒蔵にある木製の扉がノックされる音が聞こえ始める。
一回、二回。少し間を置いてもう一回。
アルーシャは事前に一階の酒場で待機している者と取り決めをしていた。不測の事態が起きた時、ノックの仕方で状況を伝えることができるように。
このノックの仕方は、追手もしくはそれに準じる敵対勢力が酒場にやってきたという合図だった。
「ツェツィ、少しだけここで待っていて」
「あ、アルーシャ、さま」
アルーシャは席を立って、壁に立てかけていたドレスソードを手に扉へと向かっていく。
ツェツィーリアは咄嗟に呼び止めようとするが、アルーシャが放つ威圧感に気圧されて、何も言うことができなくなってしまう。
「大丈夫よ、すぐに終わらせてくるから」
扉を音を立てないようにゆっくりと開くと、アルーシャは階段を登っていったのだった。