4話-護るために
ユシタニア王国、グライスナー領レスデ。
グライスナー領はユシタニア王国では東端に位置し、友好国であるテルミナ共和国と隣接した場所にある。北から南にかけては広い田園地帯で、共和国との境界付近は山岳地帯だ。
レスデは田園地帯にある、よくある田舎町といった様子で、店や住宅が立ち並ぶ町の中心部以外は見渡す限り緑で埋め尽くされている。中心部も人で賑わっているというわけではない。
そんな場所を見るからに貴族であるアルーシャが歩くのは、さすがに場違いにも程がある。すれ違う町の住人達は彼女の姿を一目見ると、極力関わり合いにならないように目を伏せたり、遠ざかるように歩いていく。
アルーシャにとって、それはそれで好都合だった。馬車から降りた後、人々から奇異の目で見られながらも、彼女は目的地まで何の不都合もなく歩いていくことができた。
目的地は、とある人物が住んでいる家だ。アルーシャはドアを軽くノックすると、家の中に聞こえるように声を掛ける。
「イルマ・ビスマルクさん、いらっしゃいませんか?」
すると、酷くやつれた顔の亜麻色の髪をした女性がドアを少しだけ開けて、おそるおそる顔を覗かせる。
彼女こそ、ツェツィーリアの母親であり、ここは母娘が現在住んでいる家なのだ。
「あの……どちら様でしょうか。ツェツィの知り合い……じゃ、ないですよね。」
ツェツィーリアの知り合いではないかと考えたのは、恐らくアルーシャの年齢を鑑みての発言だろう。
だが、アルーシャの衣服や容姿を見てその考えを改めた。普通に考えて、自分の娘が貴族と知り合いとなっているわけがない。
「突然の訪問、申し訳ございません。私はアルーシャ・フォン・ロレーヌと申しますわ」
「ロレーヌ……はっ、なんという無礼を。どうか、どうかお許しください」
ロレーヌという名を聞いた途端に、イルマはドアを開けて外に出ると、怯えた様子でその場で膝をついて許しを乞う。
ユシタニア王国で生きる者ならば、さすがに王国騎士団長の名前ぐらいは子供でなければ誰でも知っている。貴族と平民の身分差が激しいこの国はでは、そういった対応となるのも仕方のないことだった。
「御顔を上げてくださいませ。私は別に貴女に何かの罪を問いに来たわけではありませんわ。本日お訪ねしたのは、貴女にお話があっただけです」
「お話……ですか」
「ええ、そうですわ。外で話すわけにもいきませんし、お茶等は結構ですから、中でお話しませんか」
「は、はい。分かりました……」
笑顔で好意的に話しかけてくるアルーシャに対して、イルマはきょとんとした顔で頷くと、アルーシャを家の中に招き入れる。
リビングと呼ぶにはあまりにも狭い部屋に案内され、机を挟んで二人は椅子に腰掛けた。
相変わらずイルマはアルーシャに怯えた様子を見せるが、アルーシャはお構いなしに話を続ける。
「ツェツィーリアさんは、どこかにお出かけされているのかしら」
「え、ええ。食材と薬を買いに、市場へ」
「そうですか。是非、彼女にもお話を伺いたかったのですが……」
アルーシャはそう言うが、ツェツィーリアが出掛けているのは既に知っている。
元々こうしてイルマと二人で話すのが目的であったため、敢えてこのタイミングでの訪問を選んだ。
わざわざこうして話を振ったのは、ツェツィーリアの名前を出してイルマの出方を伺うためだった。
「娘にも、関係のあるお話なのですか。」
「勿論ですわ。単刀直入に、まず用件を申し上げましょう」
アルーシャはイルマの表情の移り変わりを観察しながら、それを悟られることなく語り始めた。
「ロレーヌ家で、あなたがた母娘を保護いたします」
「ほ、保護ですか?」
「ええ、そうですわ。お二人揃って、王都にあるロレーヌ家の邸宅内で暮らしていただきます。ご心配なく、何一つ不自由はさせませんわ」
これだけ聞けば、突拍子もない内容だ。見ず知らずの貴族の娘が、突然平民の家までやってきてまで言う台詞ではない。
だが、イルマがそれを聞くと、思わず息を呑み、額から一筋の汗が流れる。
そうされるだけの心当たりがあるということになる。正確に言えば、娘がそういった存在であることを彼女は知っている。
知っていなければ、このような反応にはなっていない。冗談か何かだと思われるだけだ。
「……王国騎士団長のご息女が、わざわざ家に来られてまでそんなことを仰られるなんて。娘は、本当に娘は……【聖女】なんですね」
「はい。間違いない、とこちらは見ておりますわ。既にご存知だということは、先に誰かがこちらに来られたのですね?」
「正教会の方々から、伺っております」
正教会とは、【ケルレウス正教】のことだ。イルマが彼らを正教会の方々と言ったとき、少しだけ表情が暗くなったことを、アルーシャは見逃さなかった。
アルーシャはゆさぶりを掛けるために、更にイルマに交渉を投げかける。
「私どもとしましては、【聖女】が正教会や貴族に政治的な道具として利用されることを、好ましく思っていません。ツェツィーリアさん自身がそう望むのであれば別ですが、せめて成人して大人と認められるときまでは、表舞台に顔を出すべきではないかと」
「……」
「きっと神は、何か為すべきことがあって、彼女に【聖女】としての力をお授けとなったのです。それをゆっくりと、ツェツィーリアさんには見つけて欲しい。そう、考えているのですわ」
この耳障りの良い綺麗事は、あくまで建前だ。聞いているイルマも、それを理解しているだろう。
それでも、建前を護ってくれるという安心感を、彼女に与えられればいい。こちらのほうが母娘に寄り添っているとアピールしたほうが、何かと都合が良いのだ。
もっとも、アルーシャ個人にとっては、あながち建前でも嘘でもないのだが。
「娘とさほど変わらないお歳なのに……ご立派で、感服いたしました」
「いえ、父からの受け売りですわ。どうでしょう、良い返事をいただけるかしら」
その質問に、イルマは返答に詰まってしまった。
好条件を提示したのに悩んでいるということは、よっぽどの何かがある。
今の生活を続けたいとは思ってはいないだろう。そうなれば、彼女には別の選択肢があるということになる。
アルーシャがわざわざここまでやってきたのは、それを聞き出したかったからだ。
ここまで来れば、変に相手を待つ必要もない。
「イルマさん、少しだけこちらを見ていただけませんこと?」
「な、なんでしょうか」
俯きながら悩んでいたイルマが、ふと顔を上げてアルーシャの方を向く。
その瞬間、イルマの瞳は濁り、顔からは生気が無くなってしまう。机の上に置いていた腕から力が抜けてしまい、だらんと机の下に放り出された。
これは、【魅了】と呼ばれ、相手の一時的に放心させて何でも言う事を聞かせる呪いの一種だ。
一度目の人生において、魔法の才には恵まれなかったアルーシャだったが、二度目の人生では自身に呪いを扱う才能があることに気づかされた。
もちろん、このような他人の尊厳を踏みにじる呪いは、この国においても禁忌とされている。どれだけ才能があったとしても、以前までのアルーシャは使おうとしなかっただろう。
だが、今は違う。既に一線を超えてしまった彼女にとって、例え愛する者の母親であっても、自らの毒牙にかけることに何の躊躇いもなかった。
「――――――話しなさい。」
今までの温和で丁寧な口調を止めて、冷徹に命令を行う。
虚ろな目をしたイルマは頷き、ボソボソと小さな声で話し始めた。
「ベルトルト様のところに、夫が……」
「……なるほど」
ベルトルト・フォン・グライスナー。ベルトルトと言えば、グライスナー領を統治している伯爵のことにほかならない。
彼の下に妻と娘を捨てた夫がいると聞けば、大体の状況に想像がついた。
それさえ聞ければ、もう十分だった。【魅了】を解いて、イルマを解放する。
「大丈夫、ですか?」
「――――――はっ、申し訳ございません。少し、ぼーっとしていたみたいで。」
「こちらこそ、急に訪問してしまって申し訳ございませんでした。あまり気を負わず、ゆっくりとお考え下さいませ。また日を改めて、伺わさせていただきますわ。」
アルーシャは仰々しくお辞儀をすると、席を立って玄関へ向かう。
イルマは何か言いたげな表情だったが、特に後ろから声を掛けられることもなく、アルーシャはドアを開けて外へ出た。
外に出ると、背に荷物を背負った商人の男が立っており、アルーシャが出てくるのを待っていた。
だが、この男は商人ではない。アルーシャが予めレスデに差し向けておいた密偵だ。
アルーシャは周囲に聞こえないように、小さな声で耳打ちをする。
「調べはついていて?」
「はい。彼女は市場で買い物をしていたようですが、どうやらタチの悪い子供達に絡まれているようです」
「そう。貴方達は手筈通り、グライスナー家と正教会を調べなさい。ビスマルク氏が恐らく何処かで軟禁状態となっているはずですわ」
「畏まりました」
アルーシャは密偵からドレスソードを渡され、それを腰に提げる。帯刀したままでは警戒されると思い、外していたのだ。
そうして、母娘の家から離れ、ツェツィーリアが絡まれているという市場へと向かったのだった。
***
「――――――迎えに来ましたわ。私の愛しいヒト」
アルーシャはツェツィーリアを抱きしめ、耳元でそう囁いた。
ツェツィーリアはもっと訳の分からないといった様子で、されるがままとなっている。
見たこともない貴族のお嬢様に、急に愛を囁かれる。彼女が十歳という若さでなくても、理解が追い付かないだろう。
「え、えっ……えっ……?」
「ごめんなさい。つい、感極まってしまって」
アルーシャは身体から手を離して微笑むと、ツェツィーリアの手を取って立ち上がらせた。
さらに、衣服についた土埃をはたいて落としてやると、彼女の擦りむいた膝を見て今度は苦々しい顔を向けた。
「……派手に擦りむいてますわね。走れそう?」
「これくらいなら、大丈夫です、けど」
「ならよかったわ。申し訳ないけれど、事情を話したり、自己紹介をしている暇もありませんの。」
取り落としたドレスソードを拾って、鞘に納めて再び腰に差したアルーシャは、ツェツィーリアの手を握る。
「一先ず安全な場所まで、逃げますわよ」
「えっ、あの……はい。」
ツェツィーリアは何か言いたげな様子だったが、強引に引っ張られてその機会を失う。
取り敢えずこの人に付いていくしかない、と連れられるままに走り出した。
(お母さん、私……どうなっちゃうの。)
アルーシャの横顔を眺めながら、心の内で溢れ出す不安を吐露する。
白馬に乗った王子様が、お姫様のことを救いだしに駆け付けるというお伽話を耳にしたことがある。
ツェツィーリアは自分のことをお姫様であると思ったことは無いが、助けてくれたときはその話が思わず脳裏によぎってしまった。
もっとも、駆け付けたのは白馬に乗った王子様ではなく、むしろお姫様のような気がするのだが。
こうして、お姫様と聖女様のひと時の逃避行が始まったのだった。