エッセイー学習、ペルソナの項―
筆が乗って、夜遅くなってしまいました。
学習の項―エッセイ―
勉強には、原動力が必要ですよ。
当たり前のことですが、大事な事です。
勉強してこうなりたい!ああなりたい!というような強ーい、確固たる意志があれば頑張れるでしょう。
或いは、「貴様が100点取ったら100万円やろう」とか言われた暁には、テストの難易度にもよりますが、まぁ頑張りますよね。
或いは、自分にストイックな人なら、「次のテスト90点取ったるわ」って決めたら頑張れるのかもしれません。
まぁ僕には無理なんですけどね。
元々意志は弱い方で、中学受験の時も、親には勉強してると言いながらフォート〇イトやったりド〇クエやってたりしてました。なので、自主学習記録には十時間やらなんやら、凄まじい勉強時間が残っていますが、あれは九割嘘です。
十時間?無理です五時間が限界です。
それでも理科と社会、算数なんかは、出来ないところがあるとモヤモヤしてしまう性格だったので、苦手は決して残さずやっていました。あ、でも算数オリンピックや開成過去問は例外というか論外ですよ。自分の領域ではないな、と思って最初から諦めてました。
思えば、分からないところがあるとモヤる、というのが今に生きてるかもしれませんね。
その積み重ねが効いて、今は授業中に適当に内職してても、なんとなく雰囲気で理解できます。
さっき書いたモヤる、というのはもしかしたら“プライド”に関連してるかもしれません。
たまに自分で自分にびっくりするんですが、僕、かなりプライドというか自尊心が強いと思うんです。
だから、親を始め、周囲の人たちから自分が「落ちこぼれ」と思われる(多分に被害妄想癖が絡んでいるとは思いますが)のが本当に嫌でした。
そう考えるともしかしたら、僕の勉強の原動力は“プライド”にあったのかもしれません。
人間不信癖と被害妄想癖が重なって、僕のプライドは相当にひねくれていたと思います。
だから平均を突き放す勢いで成績が取れていれば、もうそれで満足してしまうんです。
中学受験の時、良くも悪くも塾に行っていなかったことで、自分を遙かに突き放す成績を持っている人を知らなかったんですね。
偏差値65の壁は厚かったですが、多分あの時、65を平然と超えている人たちのことを意識していたか、と言われたら答えはNOです。
それが為に、「偏差値65の壁」を、「偏差値65を超える人たちと、自分の努力の決定的な差」としてではなく、「無機質な厚い壁」として認識していたのだと思います。
だからこそ、僕のプライドはそこで止まってしまい、高みを目指すことを無意識のうちに諦めてしまっていたのかもしれません。思えば算数オリンピックの例でもそうで、周りにそれを解けるような奴がいなかったのが原因なのかもしれません。(実際は開成に行ける奴がいたのですが、そいつは自分の学力を韜晦していました。少しも威張らずに。凄いですね)
そもそもが僕の「プライド」って、周りと比較してどうこう、っていうマインドなんです。自尊心とはまた違います。
だからこそ、いつしか僕は模試(模試だけは受けてました)で「点数」を見ず、「偏差値」と「順位」のみを見るようになっていきました。
点数を見た方が良い、と思っているわけではないです。むしろ、平均点次第で「90点」の価値が大きく変わる素点より、母集団の同じ「偏差値70」は普遍の価値を持ちます。
で、「素点」か「偏差値、順位」のどちらを重視するかの意見は別れると思います。
勿論ストイックで周りを気にしない人なら、常に100点を目指し続けることが出来るでしょう。
僕のように、周り本位で動いてきた人間にとっては、「高い偏差値」を目指し続けることが合理的です。
まあ、どちらが良いというわけではありません。僕一人の私見を挟む問題でもないので。
ただ、自分にとって「燃える」方を基準に選べばいいと思います。
それで、中学受験後の話です。
受験当日にようつべ2時間見てから適正に臨んだ僕は、まぁ程々の余裕を残して合格することが出来ました。
肩の力抜いて、どころの話じゃないですね。
で、一年の序盤の間は英語をとにかくやりました。
最初のベネッセ全国模試では、英語の校内偏差値34。僕より低い人は両手で数えられるほどしかいませんでした。
真面目にやって壊滅的な結果を出した僕は、とにかく英語の教科書を熟読しました。
それで、毎日1Pの英語自学を真面目にやりました。
単語の練習もやりましたが、まず文法からやりましたね。そしたら、意外と単純なんです。日本語と同じ「言語」なんだ、と意識すれば後は単語を覚えるだけです。これについては、自学やってれば問題ないです。
単語帳を買うまでもなく、特別レッスンを受けるまでもなく、他教科と同程度まで伸ばすことが出来ました。
英単語なんて、意味とスペルを知っているのはappleとIと、you、godくらいのものでしたのでね。でも流石に偏差値30台に留まるのはプライドが著しく傷つけられるので、ちょっと気合入れて勉強しました(でも、あんまり危機感は無かったですね。自分に対して“俺、まだ英語について何の勉強もしてねぇし”と言い訳してたので)。
そんで、総合が校内平均をちょっと上回っているくらいをフワフワして、一年生が終わりました。
家で英語自学以外の勉強をまともにしていなかったのと、周囲に突出して秀でた成績を持ってる人がいなかったことで、「まぁこんなもんだろ」と思いながらの一年間でしたね。
二年次、クラスが狂っていました。
まず両極端。一桁ウジャウジャいるじゃないですか。これには僕も、現実を見ざるを得ませんでした。
「ここに受かったってだけで、どの面下げてエリート意識持ってんだ、」と。
そもそも、平均をちょっと上回ってるだけっていうのは、約二人に一人は自分よりも勉強できるってことなんですよ。僕は社交性が無かったので、上位層との関わりを殆ど持っていなかったんです。周囲にいたのはM君くらいかな?
両極端のクラスにおいて、僕はボッチにはなりたくないので、話せる仲間を探します。必然、そいつは頭が良いです。
友達に成績完敗してるのって、今までの僕では初めてだったんです。
しかもそいつが煽り性というか、そういう気質だったので、僕のプライドがゴリゴリと刺激されました。
自主学習会というものに参加し、二時間×一週間、静寂の中で必死に勉強しました。
そして家に帰っても猛勉強…はできませんでした。
とにかく集中できない。
意志が弱くて、すぐに別のことを始めちゃう。
こいつぁ困った、と思いながらも、休日はゲームしてだらだらして過ごし、特に必死に勉強することなく二年次があっと言う間に過ぎていきました。
そこで驚いたのは、自分の成長ですね。
隣にいる友達が、高順位を現実のものにしているんです。僕が今まで取ったことが無いような順位を、平然と。
その事実が自分を急かし、自分でもびっくりの成長を遂げることが出来ました。
で、ですよ。
自慢話というか昔話というか自分語りが続いてしまったので、真面目に自己分析系エッセイに軌道修正したいと思います。
今までこういう歴史を持っている僕は、自分の性格というか性質をこう分析しました。
「上位の人たちを“個体認識”すれば、そいつを抜こうという気が起き、成績が伸びる。」
いつしか僕にとって、「勉強」とは「他と競う物」になっていたんです。別に僕は、これについては善悪を論じることはしません。
ペルソナの項
ガラリと話題を変えて、今度は僕の性格についての話です。閑話休題ですね。(使いたいだけ)
ここでは、僕の日頃学校で被っている「猫」あるいは「ペルソナ」について。
仮面の下の僕の性格について話すのはまた今度にしておくとしても、一つだけ。
「自分で嫌気が差してくるほどのプライド」「自尊心」が挙げられます。もっと踏み込んだ表現、端的な表現をしてしまうと、「承認欲求」でしょうか。
そしてもう一つ大事なことがあって、「行動力の欠如」ですかね。
これについて今さらっと調べてみたら、とあるビジネス記事で「行動力が足りない人の特徴」として、「慎重すぎる」「探究心・向上心がない」「変化を好まない」「ネガティブ思考」「周りの評価を気にしすぎている」などと書いてありました。あはは、びっくりするくらい合ってますね。
周りの目を気にする癖と、変に思われたくないというプライドがあるので、何をするにも足が竦んでしまうわけですね。
これじゃあ友達も出来ない。困った僕は、緊急対策として、「固いペルソナ」を創り出しました。小4くらいですかね。もう少し後だったかな?
そのペルソナこそが、「変人」という分かりやすいもの。
薄っぺらい話ですが、「変人」という称号が周囲に認められるというだけで、承認欲求が満たされます。
しかもこれで学校生活楽しくやれるし、失敗しても「変人」だからおどけて誤魔化せます。聊か気が楽になりました。
中学に入ってからも、気楽な方に進みたがる僕の悪癖により、そのペルソナを使い回しました。運動もイマイチな僕にとってのアイデンティティは、これしかなく、これしか承認欲求をいち早く満たす方法がなかったのです。
ただ、あらゆる環境で効果を発揮したこのペルソナ様ですが、どうしても誤魔化しきれない部分がありました。
一人の時とかに、ペルソナと乖離した人格になってしまうのはギャップ萌え狙えるので良いですが(狙えない)、繊細な人間関係になってくると、どうしても誤魔化しきれなくなってきます。
「変人」という看板背負ったままでは、良くて「クラスの周回衛星」止まりです。一対一、緻密な人間関係になることなんて到底叶いません。
どうしようもない、と諦めたらそこで終わりだと思います。全員と親友になる必要なんてないんです。こいつだ、と思った人には仮面を時々外しながら近づき、垣間見える仮面の下を直視してくれる人には、心を捧げる。
そういう地味な積み重ねの果てに成立した関係というのは、ペルソナ被ってる間よりも、遙かに心地よいことに気が付くんです。
そういう風に心を開いている相手って、今のところ片手で数えるくらいしかいませんけど、それで十分過ぎますね。
と、後半ポエム風味が入ってしまいましたが、こんな感じで締めさせてもらいたいと思います。
いやはや、エッセイというのは、書きたいことを雑に書いていっていいというのは、とても気持ちいいものですね。
読書感想文とかもそうやって書いていきたいですが、生憎、今年は拘りたいのでそうは行きません。
ではでは。
どうよ。