シンデレラじゃなかった
[シリアス][重め]
※R15は保険です。
※設定上、妊娠、不妊関連の蔑称などが含まれます。
※本編シンデレラ嬢は王子様と結婚しました の外伝です。
そちらを読んでいないと断罪シーンがかっとばしになり、
分かりづらいかもしれません。
※本編とは雰囲気が全く違います。
本編はコメディ、これはシリアスと割り切って下さい(懇願)
※これを読むと本編のざまぁ感が確実に薄れます。
※12月18日22時 あとがき加筆修正、無駄に長くなりました。
※12月30日 本文加筆修正。リリスの気持ちを若干補足。
あたしの名前はリリス。
本当のあたしの家は、下町近くにある飲み屋兼料理屋だ。名前を狼の尻尾亭という。冒険者ギルドの向かいという好立地にあぐらをかかない値段と味で、冒険者の間では『王都に行ったらまずここ!』と言われるほどの、自慢の有名店。
祖父は叩き上げの料理人で、祖母と二人厨房を切り盛りしており、母のラアラはそこの看板娘だった。小柄で華奢に見えて、少し人より力持ち。よく食べよく笑って、クルクル店内を動き回る姿は小動物のようだったという。
夜は酒場として灯りをつけていた狼の尻尾亭。母は十六の歳になると、夜の給仕係も始めた。その頃の看板娘はそりゃあもうモテていて。馴染みの冒険者からの求婚は後を絶たなかったが、母はその全てを『一昨日おいで!』と笑いながら断っていた。『一昨日も来てたよォ!』『あら、でも一昨日のあなたは私に求婚しなかったわ!』テンポの良いやり取りに周囲が笑いに包まれる。プロポーズを却下された冒険者は、それでも翌日にはまた店に顔を出すのだ。看板娘のラアラは皆のもの。そんな空気があったという。
一風変わった客が時たま現れるようになったのは、その頃だった。エールをがぶ飲みしながら賑やかに仕事の話や冒険の自慢をする荒くれ者たちの近くではなく、窓際の席でひとりグラスを傾ける青年はどことなく身なりが良かった。給仕の合間にラアラが話しかけると、その話を静かに頷きながら聞いて、時折相槌と共に薄く笑顔を見せたという。
普段相手にしている客たちとは全く違うその姿に、母はその青年が来る度にソワソワするようになった。常連たちから惚れたのか?とからかわれ、そんな事ないわ!と強く否定する。けれどその頬はランプの光よりも赤みを帯びていた。
そのうち、看板娘の気持ちを知ってか知らずか、週に一、二度ほど来ていたその青年は、昼間にも来るようになった。露店で買った小さな花の束。数枚しか入っていない焼き菓子。飴の小袋。ほんのちょっとしたものをプレゼントし、少女を喜ばせる。やがて一緒に出かけだしたその二人の姿に、父親である祖父は不安を感じていたという。そうしているうち、母の十八の誕生日が過ぎた。銀細工の小鳥の髪飾りをプレゼントされたその日、看板娘は出かけたまま夜遅くまで帰ってこなかった。
そんな日々が続くと。続いていくと信じていたラアラ。彼女はある日、体調が悪いことに気がついた。昨日今日だけではない。一体いつから食欲をなくしていただろう。母親に相談すると、難しい顔をしたあと、その日の仕事は休めと部屋に返された。
店を閉めた夜遅く、ラアラの母親は一人の冒険者を連れて娘の部屋に入ってきた。医術も齧ったことがあるというその治癒術士の女性はラアラの体調の詳細を聞き、魔力の流れをひとしきり診たあと、ラアラに懐妊を告げた。事情を察して顔を青くする母親と、歓びに頬を染める娘。対象的な二人に申し訳なさそうに一礼して、その冒険者は帰っていった。
次の逢瀬の日。
ラアラはこじんまりとしたカフェの衝立の影で、喜びのニュースを彼にそっと伝えた。彼は目を見開き驚いたあと、よくやった、嬉しいよとラアラを抱き締めた。
そして、それ以降、その青年は狼の尻尾亭の周辺に姿を現さなくなった。
悲しみに暮れる母親、怒りを隠さない父親と店の常連たち。ラアラは自室で三日だけ泣いた。そして、店に戻った。貴族男に遊ばれた可哀想な娘。そんな噂、この子の為にも流させない。幼い頃から自分の力で生きる者たちに揉まれて育った狼の尻尾亭の看板娘は、強かった。おなかの中の子のために生きると、たった一人で決めたのだ。
何かにつけて心配しては声を掛けてくれた治癒術士のレミーは、ラアラの親友になった。母親と共に出産にも立ち会ったそうだ。ラアラに似た可愛らしい娘が産まれ、狼の尻尾亭はお祝いムード一色だった。
産後の肥立ちも良く、半年ほどでラアラは看板娘に返り咲いた。店の隅には赤子用のスペースが設けられ、常連たちは看板娘の娘を入れ代わり立ち代わりあやし、可愛がった。牙を持つ獰猛な獣を恐れない屈強な男が不安げな顔で赤ん坊を恐る恐る抱き上げる姿は可笑しくもあり、微笑ましくもあった。赤子が歩き始めてからは、みんながみんないつ足元にぴょこりと出てくるか分からない赤子を心配し、とても行儀が良くなって。店主はいつもそうなら俺は苦労しねえのにな!と笑って言った。
ある日、最初から熱心に赤子の世話をしていたあるひとりの冒険者が、ついにラアラにプロポーズをした。冒険者はやめて店で働く、親父さんの跡を継ぎたい。花を差し出してそう言った彼にラアラは困った顔を浮かべた。しかし、ラアラの母が子を連れてきて彼に抱かせると、子は満面の笑みで彼にしがみつき、母を振り返った。父と母、プロポーズした彼と娘の四人に笑顔を向けられて、ラアラは仕方ないわね、と花束を受け取ったのだった。
ラアラの娘リリスが七の歳を数えた頃だった。教会から帰ってきた母娘は、尻尾亭の前に停まっている貴族用の馬車に気付いて足を止めた。顔色を悪くしたラアラは急いで近所の友人の家にとって返すと娘を預け、すぐに出ていった。気丈な母親の青い顔に、リリスは不安でいっぱいになりながら母の友人にしがみついていた。急いで出ていった母も、今頃厨房に立ってあるであろう祖父と『父』も、そして幼い弟と妹も心配だった。何が起きたの?どうしてお母さんは怖い顔してたの?あたしたち、どうなっちゃうの?
不安が爆発したリリスは、母の友人の制止の手を振り解き、愚かにも扉を開いて外に駆け出していった。
店に入って中を見ると、ラアラの悪い予感は当たっていた。あの男が店に来ていたのだ。客は全て外に出されており、怒気を孕んだ父親と夫が男と相対していた。貴族の正装で従僕と護衛を連れた男は、恋を囁いていたあの頃とは別人のように冷たい表情をしていた。
「あの後、娘を産んだそうだな?」
「それがなんだというの? 私を捨てたあなたには関係ないわ!」
「結婚して十五年経つが、妻が孕まなくてね。石女だと知っていたら結婚しなかったのだが。恩人の娘なので、今更離縁もできないのだよ」
冷ややかな言葉に、ラアラは顔色を一層悪くした。自分が恋をしていた相手の優しさは、作り物だった。なんとしてでも、娘を守らなければ。
そう思った瞬間。
「おかあさん! おとうさん!」
悲痛な幼い声が響いた。店内に駆け込んでこようとしたリリスが、護衛の腕に捕まったのだ。
「リリス!」
「ふむ、目の色はうちの家系の色だな。出来したぞ、女」
犬猫を物色するような無機質な目で、男がリリスをじろじろと眺める。気味の悪い視線に怯えたリリスはじたばたと暴れたが、子供の力では当然抵抗しきれなかった。
「では、娘は連れていくよ」
従僕が重そうな袋を差し出す。じゃらりと鳴った音、中身は金貨だろう。ラアラは受け取らなかった。代わりに大きな声で抗議する。
「その子は私の娘だけど、貴方の娘なんかじゃないわ! その子の父親はこの人だけよ! 返して!」
夫を背に、ラアラは叫んだ。男は酷薄な笑みを浮かべて掌を上に向け、彼女に向かって伸ばした。
「私を訴えるかい? それならば、教会で魔力を調べて私たちの親子関係を明らかにしようじゃないか」
言葉に詰まるラアラに、男は勝ち誇った顔で笑った。くるりと踵を返す。外に出ようとして、周囲に人が集まっていることに気がつき眉を顰めた。
「リリスちゃんを戻せ! 置いて、とっとと失せろ!」
「貴族だからといって、なんでも許されると思うなよ!」
取り囲んでいたのは、たまたま現場を目撃した狼の尻尾亭馴染みの冒険者たちだった。今にも武器を抜きそうな、剣呑な空気が場をピリつかせる。
「チッ…、野蛮な者共め…」
舌打ちをした貴族の男に、従僕が何事かをそっと耳打ちした。許す、と言った男の側を離れ、従僕が囲いを抜けてだっと駆け出した。大通りに続く角を曲がって姿を消す。
「なんだ?」
「おい、誰かあいつを追いかけろ!」
数人が離れてそちらを追う。残った者たちはじり、と囲いを狭めた。あわやという雰囲気に拍車がかかった時。
「こちらです!」
先程走って逃げた従僕が人を連れて戻ってきた。角を曲がった向こうから、駆け足でやってきた者たちがやめよ!と叫ぶ。武器を手にした数人の邏卒が、殺気立つ冒険者たちに向けて威嚇のポーズをとった。
「これはこれは。お仕事ご苦労さまです」
兵の長と思われる男は場を見回すと、料理屋の入口から悲壮な顔を覗かせるラアラでもなく冒険者たちにでもなく、恭しく挨拶をする貴族の男に声を掛けた。
「何事かありましたか、ジューク子爵」
「なに、愛人に預けていた子供を引取りに来ただけだ。なのに、この粗暴な者共が連れていくなと騒いで抵抗してな。女も金を渡したのに、額が足りんと渋っている」
いつの間にか、金の入った袋は店の中に置かれていた。サラリと歪められた事情を説明する子爵に、その場にいた者たちは怒気を強めた。そんな馬鹿な、それで通ると思っているのか、と声が上がる。しかし。
「そうでしたか、分かりました。おい、おまえたち! これ以上騒ぎを大きくするのなら、問題を起こした無法者として王都への立ち入りを制限するぞ!」
兵長の言葉に、冒険者たちの目が見開かれた。あの兵士には、悲痛な顔で子供を見つめる母親も、母親の名を泣き叫ぶ子供の姿も見えていないのか?事情を聞こうとは、思わないのか?
「そいつの言ってることはデタラメだ! その子供を拐かそうとしようとしているんだ!」
「嫌がる母親から無理やり娘を引き離そうとしている男の、どこが父親だ!」
冒険者たちが堪らず抗議の声を上げる。だが、ジューク子爵は涼しい顔をしていた。
「父親が娘を迎えに来ただけですよ。この子は正真正銘、私と血の繋がった子だ」
兵士たちは冒険者たちの言葉を聞き流した。そして、子爵に軽く目礼した。その実情。
先程駆けた従僕は、今日のために近辺の邏卒の巡回ルートと時間を把握していた。騒ぎを有利に治めるために、彼らを呼びに行くのと同時に数枚の金貨を手渡していたのだ。元から国に属さない冒険者の事を見下していた兵長は、あっさり爵位持ちの男の肩を持った。
一触即発。
そんな言葉が相応しかった。
誰か一人でも動けば、すぐに乱闘が始まるだろう。武器に手をかける冒険者たち、既に武器を持ち、威嚇のため構える兵士たち。
その空気を破ったのは、幼い子供の声だった。
「もうやめて!」
護衛に抱えられたリリスが、涙を堪えながら周囲を見ていた。その瞳には、ラアラ譲りの強い意思が宿っている。
「わたし、だれにもケガしてほしくない。おかあさんとおとうさんにも、もちろんみんなにも」
リリスは子爵を見て尋ねる。
「あなたはわたしをたべたりしない?」
「そんなこと、する訳ないじゃないか。愛する我が娘よ」
白々しく寒い台詞を聞き流し、リリスは次に兵長に視線を向けた。
「わたしは『おとうさま』といっしょにいきます。へいしさんも、みんなも、ケンカしないでください。ケガしないでください。おねがいします」
リリスの言葉に、ラアラが泣き崩れる。傍らの夫がそれを抱き締めた。子爵の護衛は、リリスを馬車の中に放るように入れた。
「それでは、御機嫌よう。皆様くれぐれも、夜にはお気をつけて」
ジューク子爵は料理屋の店主と若夫婦にニタリと笑ってみせた。そちらが何かしようとするならこちらもそれなりの事をしますよ、と言外に匂わせて。
馬車のドアからリリスの顔が覗く。
「おかあさん!」
「リリス…!」
名前を呟くことしか出来ない母に向かって、リリスは涙でぐしゃぐしゃの顔で無理やり笑顔を作った。
「またね!」
さようならではなく、またね。
子供の語彙から精一杯捻り出した、再会を願う言葉。それを聞き更に涙を零す母を見納めて、リリスは馬車に引っ込んだ。それ以上見つめ合っていたら、もう笑顔を保てないと分かっていたから。
◇ ◇ ◇
ジューク子爵家に引き取られたリリスは、子爵に言われるまま貴族の生活を始めた。子爵の家は典型的な構造の貴族屋敷で、リリスは月に一度の子爵とのお茶会の時以外は、二階の子供部屋に引きこもり、淑女教育を受け勉強を続けた。他にすることがなかった。覚えることは虚しく、褒められても嬉しさはない。ただただ、開放される時を夢見てリリスは我武者羅に教えられたことを頭に体に詰め込んでいった。
子爵夫人と会うことは終ぞなかった。心無い房事の度に出来損ないの女、役立たずの胎と子爵から罵られ続けた夫人は、リリスが来た頃にはもう心を病んで自身の部屋から出ることはなかった。その後、義母は義娘となったリリスの顔を一度も見ることのないまま、部屋で自死を遂げた。リリスが来てから、二度目の冬のことだった。
教育は順調に進み、リリスの覚えの良さを子爵に報告した家庭教師はより高度な教育を受けることをお勧めする、と別の家庭教師への紹介状を書いた。
上位貴族向けの家庭教師が代わりに来るようになり、教えられる内容もレベルが上がった。子供のリリスでも簡単に分かった。これはわたしが裕福な上位貴族を引っ掛けるために必要な教育なのだ、と。子爵が上位貴族との繋がりを欲しているのを、リリスは冷ややかな心で悟っていた。
いつか、この男を破滅させてやる。二度も母を苦しめ、今もなお苦しめ続けているこの男を。絶対に。
◇ ◇ ◇
遠回しに『身なりのいい婿を捕まえてこい』と言って、子爵はリリスを学園に送り出した。屋敷から出るようになれば家族に手紙のひとつでも出せるかと思っていたが、行き帰りの馬車は例の護衛が監視のためについてきた。学園内で人に頼んで手紙を出したとして、仮にそれがバレたら屋敷から完全に出られなくなるかもしれない。リリスは家族への連絡を諦めた。学び舎という仮初の自由を、やる気なく受け入れた。
やがて、リリスは言いつけられた通りに上位貴族の子息たちに近付き始めた。無能を婿に選ぶことも当然考えたが、計算高い子爵がそれに気付かずに結婚の許可を出すとは思えず断念した。嫡男でなく、尚且つ家門か本人に何らかの隠された弱みのある者を。子爵令嬢程度が嗅ぎ回れる事情には限界がある。当然リリスが考えているような婿探しは難航した。
次第に投げやりになっていったリリスは、いっとき考えるのをやめ、ただの少女として学園生活を送り始めた。令嬢の仮面を脇に置き、幼い頃に封じ込めた爛漫な性格に日を当てる。日頃表情を崩さぬよう教育された婚約者や令嬢に不安感や不信感を持っていた子息たちは、小動物のように快活で、花のような笑顔を見せるリリスを持て囃すようになった。
成績で目立たぬようにとわざと点数を落として在籍したリリスの中級クラスにエルドレッド王太子が入って来たのは本当に偶然だった。勉強に身が入らず、上級クラスから落ちてきたという。エルドレッドは、令嬢らしからぬ振る舞いをするリリスにすぐに興味を持った。
この王太子、学園内で聞くところ、勉強嫌いで鍛錬嫌い。努力と積み重ねが苦手だという。将来の国政の演習として生徒会を任されてはいるが、仕事のほとんどを側近候補の貴族子息にやらせていると、水面下で噂されていた。
これは、使えるかもしれない。
次の日からリリスはエルドレッドの周りに侍るようになった。 エルドレッドの劣等感を刺激する不愉快な婚約者『完璧令嬢』の愚痴を聞いては慰め、励ます。長所を探し、作り上げては、大袈裟に褒める。彼が嫌悪する婚約者とは真反対の、彼に理解を示す女を演じれば演じるほど、エルドレッドはリリスに夢中になっていった。本来なら婿取りして跡を継ぐはずの子爵家令嬢をどうにかして正妃に娶りたいなどと、リリス本人に聞かせるようになっていった。
頭の悪いふりをして、殿下は生徒会の仕事をどうしてやらないのですか?と尋ねてみたことがある。エルドレッドは、自分は現王、先王と違って凡才だから自分を磨いてもたかが知れている。ならば周りを優秀な者で固め、周りにやらせれば良い、と言った。
どこか諦めたような顔をしていたのはどういう心境だったのだろうと、少しだけ不思議に思った。
この少しボンクラな所がなければ、いい人なんだけど。そんな事を思いながら、リリスはエルドレッドの傍に居続けた。あの女との婚約を破棄したい、と何度も言う彼に『虐め』の話を持ち出す。リリスが彼に侍るようになってから、誰かから度々嫌がらせを受けるようになっていた。エルドレッドは見事にそれに食いついた。あの女の仕業かもしれない、そうでなくても上手く犯人のように仕立てられれば婚約破棄の言い訳に使えるかもしれないと、彼は婚約破棄について真剣に考えるようになった。
リリスへの嫌がらせの犯人が決定的でない以上、罪を被せるだけでは決定打に欠けると思い、リリスは自分とエルドレッドの取り巻きと一緒に学内の醜聞を聞き回った。そこで、想定していなかった令嬢の名前が挙がってくる。ココノ・ヒース。庶子上がりの子爵令嬢である。編入してきた時に挨拶をしたことのある、平民が抜けきらない娘だった。その令嬢が、レティアータから嫌がらせを受けているらしい。リリスは取り巻きと手分けして、噂の出処である目撃者を探し始めた。
「これを理由に、あの女との婚約は破棄してやる。俺の妃はおまえだ。リリス、待ってろよ」
目撃者の証言を書き付けた紙を手に、エルドレッドは王族用サロンのソファにどかっと座った。満足気に、隣にいるリリスの頭を撫でる。正直なところ、リリスにとってはその婚約破棄が上手く行こうが失敗しようが、どちらでも良かった。
成功したなら妃になれるかもしれない。正妃を狙うほどの野心はなかったが、側妃でも、充分に子爵の鼻を明かせるだろう。そうなった暁には王族の力を使って子爵を苦境に追い込んでやる。失敗したなら無能な王太子を教唆したとして、親である子爵ごと処罰されるだろう。死なばもろとも。あの男に泥を舐めさせてやる。
暗い表情をしているリリスを気遣ったのか、エルドレッドがリリスの肩を引き寄せる。近付いた顔。頬に、そっと優しく触れる感触。
口付けられた箇所を指でおさえる。目の前のエルドレッドは、やんわりと微笑んでいた。
「エル様」
利用するだけのつもりだったのに。エルドレッドと過ごすようになってから、子爵家に閉じ込められて以降徐々に凍てついていったリリスの心に、いつの間にか僅かな明かりが灯っていた。利用するだけで、自分の心は渡さないつもりだったのに。
「リリス、愛してる」
目の前にいるのは、婚約者以外の女に愛を囁く愚かな男。非常識で、凡夫で、好いた者にはとことん甘い。この人が、自分のことを本当に好いてくれるのなら。何が起きようと自分のことを手放さないというのなら。
リリスはひとときだけ、甘い夢に身を浸した。
◇ ◇ ◇
「レティアータ・マルシア公爵令嬢! 平民上がりの令嬢を虐めるその醜い性根、私の婚約者としては失格だ! お前との婚約は破棄させてもらう!」
エルドレッドは卒業記念パーティーの場で、散々厭うていたあの女に婚約破棄を突きつけた。けれど、証拠として用意していた物は、レティアータ自身とココノの手によって悉く覆され、リリスの受けた虐めすらもココノによって真実の犯人が明かされた。
レティアータが婚約破棄を受け入れる旨を宣誓する。
終わったな、とリリスは思った。エルドレッドの周りは既に、側近候補たちが固めていた。これから王宮に連れ戻され、国王から叱責されたあと処分が下されるのだろう。多分、自分も同じように。あたしは最後まで見苦しくいよう。泣き喚いて自分は悪くないと叫び、反省しないふりを貫いて。あの子爵を巻き添えにして散ってやる。
振り返ると、ココノ・ヒース子爵令嬢とレティアータ・マルシア公爵令嬢が友情を確かめるように、抱き合っているのが見えた。そういえばあたし、女の子の友達いなかったわ。そんなことに今更気づき、いいえと頭を振る。友達を作らなくて良かった。こんな破滅的な行為をするような自分に、友達を作る資格なんてそもそもなかった。
利用しようとして巻き込んだエルドレッドのこれからを考えて、リリスの胸にちくりとした痛みが走った。
◇ ◇ ◇
結論だけ言えば、エルドレッドは廃嫡になった。強い処罰を望むマルシア公爵の怒りの声もあり、子を作れぬよう処置された上で放逐される予定だという。公爵令嬢は事件の翌日には隣国の王子と婚約が決まったという。リリスに関しては、公爵令嬢を陥れるために王太子を教唆した罪が問われた。ジューク子爵家は領地と財産を差し押さえられた上で、爵位を剥奪になるという。
それを告げられたリリスは、ざまあみろ、と笑った。貴族籍をなくした子爵は、見下していた平民としてこれからを生きていくしかない。それはあの男にとっては忸怩たる思いだろう。笑うだけ笑って、リリスは貴族牢の寝台に身を投げた。後に残るのは、虚しさだけだった。
エルドレッド、レティアータ、側近候補たちやその親。自分の復讐のために、随分と沢山の人の道を歪めてしまった。あたしはこれからどうなるんだろう。ぼんやりと視線を彷徨わせていると、人が来たと兵士に起こされた。
こんな所に誰が来たのかと身を起こし、リリスは目を見張った。こんな小娘のために動くはずのない国王を視界に認め、慌てて平伏したリリスに、頭を上げよ、と国王が言う。次いで、王に連れられたエルドレッドが部屋の中に入ってきた。国王はちらりとエルドレッドに視線をやり、それから改めてリリスの顔を見た。
「これは、おまえを愛しているという」
国王はあまり表情が読めないが、国の主たる姿ではなく一人の父親のように見えた。後ろにいるエルドレッドはリリスの無事な姿を見て、安堵したような表情を浮かべている。
「これは断種の呪いを含めた、諸々の機能を持つ魔道具を着けて放逐する予定だ。このような暗愚でも、私の息子である。最後にそなたに会いたいという望みを叶えてやろうとここに連れてまいった。元ジューク子爵令嬢、そなたはこの男に特別な想いはあるか?」
「...それは、どういうことでしょうか?」
尋ねられた国王は、再び後ろの息子を見遣り、それからリリスに視線を戻した。
「こやつは、愛するおまえと共に在りたいと言っておる」
まさか。国王の命令ではなく、エルドレッド自身がそれを望むなんて。リリスは驚きに言葉を失う。
「リリス、俺と一緒になってくれ」
もう王族ではなくなった、情けない男が情けない場所で捻り出した言葉。それは彼の本音だった。
リリスが『王太子でなくなったエルドレッドは自分の事でいっぱいで、リリスなんて必要としないだろう、捨てられて当然だ』と思うように、エルドレッドも『王太子でなくなった自分はリリスにとってなんの価値もないどころかお荷物だろう、捨てられて当然だ』と思っていた。
「共に行くことを望むのなら、揃いの魔道具を誂えてやる。それがそなたの贖罪になるだろう。息子の顔はこの国以外でも知られておるから人目を気にして生きることになるであろうし、子も成せぬ。心が離れたとて、その身は離れることも出来なくなる。…相互監視の役割も担えるので、こちらとしても都合が良い」
そう告げる国王に、リリスは粗末なワンピースで王族に向ける最上級のお辞儀をした。心は決まっていた。愚かで間抜けで凡才で、それでも憎めない甘さを持つ、凍えていたリリスの心に明かりを灯したこの男と、罪の意識を背負いながら共に生きることを決めた。
「よろしくお願いいたします」
リリスのその声に、国王は鷹揚に頷いた。
◇ ◇ ◇
新しい名前の身分証と最低限の衣類、食料、旅費を持たされた二人は、夜遅くに王都の外に運ばれた。エルドレッドは当然王都内では広く顔が知られており、リリスも貴族界隈に関してはそれなりに知人がいる。そのまま王都に留まるには不都合が多いだろうと配慮されたのだ。必要があるのなら隣の国まで送り届けるが、と護衛には言われが、二人はそれを断った。リリスがエルドレッドの意見を斥け、行きたい所があると頑なに言い張ったのだ。
目深にフード、あるいは帽子を被り、朝を待って二人は旅人に紛れて王都の中に戻った。王都の城壁近くの下町を、リリスが先導して駆けてゆく。やがて見えてくる冒険者ギルドの看板と、その向かいの懐かしい料理屋の看板。僅かに躊躇ったが、リリスは帽子をとり、正面の入口から中に入った。
「いらっしゃい、空いてる席に...」
ドアの開閉音に顔を向けた女性が、声を途切れさせた。十年ほどが経過していた。連絡ひとつ出来なかった。その間、家族は自分のことをどう思って過ごしていたか、知らなかった。何を言われるだろうと、リリスは唇を噛み締め身構える。
「リリス...?」
小さな声で娘の名を呼んだ母親は、駆け寄ると勢いよく彼女を抱き締めた。涙を零しながら何度もリリス、と繰り返す。そのうち、義父、祖父と家族が続いて走ってくる。リリスのことを知っている冒険者も、集まり始めた。
「お母さん、お母さん、ごめんね、あたし、あたし...っ!」
「いいの! アンタが無事なら、私はそれでいいの、おかえり! おかえりなさい!」
出ていくと決めた時の母の顔を思い出して泣きじゃくるリリスと、またねと言った幼い日のリリスを思い出して泣くラアラ。
祖父と義父は二人を包むように肩を抱いた。うっすらと目には涙が溜まっている。
「リリスちゃんを連れ戻してくれたのはアンタかい?」
感動の再会劇を入口の脇で見ていたエルドレッドは、古株のような冒険者に話しかけられ、驚いて飛び上がった。慌ててフードを深く被り直す。
「あ、ああ、そうだ。それが何か?」
「何気にしてんだ、冒険者なんてなみんな訳有りだらけだぜ。人でも殺して手配されてるってんでなければ、誰もアンタの素性なんて探らねぇよ!」
ガハハ、と笑って男は他の冒険者の方に混ざりに行った。祝いのエールだ!親父さん!と叫ぶ声に、今はそれどころじゃねえや!黙ってろ!と返事がぶつけられる。狼の尻尾亭は、俄に活気づき始めていた。
◇ ◇ ◇
左手の手首にキラリと白銀の腕輪がきらめく。夫と対の魔道具でもある腕輪は、思ったよりも軽かった。洗ったテーブルクロスを庭に干すと、リリスは昼過ぎでまだ賑わう狼の尻尾亭の店内に戻った。
「リリスちゃん! 昼メシ、肉二つ頼む!」
「はぁい! お祖父ちゃん、肉ふたつ、持ち帰り!」
「あいよ!」
狼の尻尾亭の新たな看板娘となったリリスは、昔の母親のようにそこで働いていた。あまりにも元気な冒険者たちに最初こそおっかなびっくりだったリリスだが、ラアラの気性を引き継いでいる彼女はすぐに店の空気に順応し、荒くれ者たちをあしらえるようになった。リリスの恋人として紹介されたエルドレッドは名をルドと変え、髪を染めた姿で裏方で厨房の手伝いをしている。注文の料理を取りに行くと、そんなんじゃまだまだ娘はやれないなあ!と義父がルドの背中を叩くのが見えた。その姿にクスリと笑う。
最初は家族に紹介されるのを渋っていたエルドレッドだったが、偽りないリリスの身の上話を聞くと反応が変わった。学園にいた頃は、男子生徒たちの同情を引くために『あたし、平民だった時は貧乏で苦労してたの!』と言っていたが、実際は全く違っていたからだ。誘拐同然に子爵家に押し込められていただなんて。自分には想像も出来なかった、とエルドレッドは憤った。
話のあと、改めて手を握りエルドレッドはリリスに愛の言葉を告げた。リリスは母譲りの愛らしい顔でにっこり微笑んで、エルドレッドの唇にキスをした。そして、次の日、二人はリリスの家族を集めたテーブルで、今までのことを洗いざらい話した。
祖父と祖母はなんともいえない渋い顔をした。義父は困ったような笑顔で頭をかいている。
「なんだかんだ言って、俺も訳有りだからな。リリスが決めたんなら反対はしないよ」
その隣で揃いの指輪をつけ夫と手を繋ぐラアラは、ただ微笑むのみ。娘が決めたことなのだ。それなら背中を押してやりたい。ラアラはそう思って娘に全てを委ねた。
「名前は、偽名を。見た目も可能な限り変えます。雑用でも下働きでも、何でも使ってください」
そう言うエルドレッドの顔からは、王族だった頃の傲慢さが抜け落ちていた。いい顔になったわね、とリリスは思う。
リリスにとって、今日まではとても長い道のりだった。一歩も外に出られない屋敷で、家にはもう帰れないだろうと何度も絶望した。母親に会いたくて、夜の窓辺で何度も泣いた。リリスを褒める子爵はまるで商品の品定めをしているようで、高く売れないようにめちゃくちゃにしてやりたいと何度も思った。学園に行くことは婿を探すのと同義。それに涙を流した夜は、数え切れなかった。
いくら泣いても尽きない涙に疲れ果てた頃に、出会ったのはエルドレッドだった。運命なんて信じていないし、真実の愛なんていうのも信じてない。けれど。
「あたし、ルドと出逢えて良かったわ」
枕元で囁くリリスに、エルドレッドは苦笑を浮かべる。手を伸ばし、リリスの柔らかい髪を撫でた。
「無能すぎて、王子様じゃなくなってしまったけれど。それでもかい?」
ふわり、ふわりと撫でる手は優しい。一人で耐えて耐えて、耐え続けてきて。折れそうになっていたリリスの髪を、最初に撫でたあの時の手を思い出す。
「王子様じゃなくたっていいわ」
エルドレッドの肩口に顔を擦り寄せ、リリスはうっとりと目を閉じる。相手の温もりが、心地よかった。掛けているのは昔のような高価な羽毛ではない安物の布団だけれど、寄り添う二人にはそれで充分だった。
「だって、あたしはシンデレラじゃないもの」
二人は顔を見合せ、ふふ、とどちらからともなく笑いを零した。外は夜の帳が下り、星空がきらめいている。リリスの細い指先が、ランプの灯を消した。
お読み下さりありがとうございました!
いいね、★、感想いただけると泣いて喜びます。
リリスちゃんも実は逞しい子だった。という話。
男爵令嬢、子爵令嬢側も単なるおバカだけでなく
『庶子上がり』の部分に『何らかの事情、含み』が
ある場合もあるよね?と思って出来た話です。
この話読んで本編のざまぁ感薄れちゃったよ!
という方々、本当にごめんなさい。
コメディとシリアス、混ぜるな危険。
※リリスからレティ他への謝罪はタイミングや状況的に出来ないし、仮に出来るタイミングがあったとしてもリリスから自発的にはしません。(向こうから謝罪を要求されない以上は、基本する側の自己満足でしかなく、その場合謝罪された側は許さなければいけなくなるから、という思考に基づいています)
※この辺から少しグダグダ語る
ココノはココノ、リリスはリリスの人生を生きているので
それぞれに事情と思うことやることやれることがあり、
話の視点を変えることで別の見方が出来るという感じ。
どちらの視点が好みかは、人によるでしょう。
ココノはお年頃年齢までお嬢育ちの母と
シングル家庭で生きてきたので、
彼女も彼女なりには苦労人です。
母を守るために強くなったタイプ。
基本ポジティブで楽観的で行動的、
そして苦しかったこと辛かったことは
言わない溜めない寝たら忘れるを実行してるだけ。
境遇がもう少し違ったら、出会い方が違ったら、
ココノとリリスが仲良くなる可能性もあったのかもしれません。
(だがそうなるとリリスとエルドレッドが結ばれない)
同じ話の中で混ぜるな危険をやってしまった私が全部悪い!
とだけ言って終わりにします。
お付き合いサンクス。
※表記ブレ(主に漢字変換ブレ、敬称略称ブレ)は
執筆環境依存の仕様です。
ご指摘頂きましたら確認して直します。
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