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窓を拾う。

作者: 阿部凌大

 窓を拾った。それは手のひらに収まるほどのガラス片で、だがそれは紛れも無く窓だった。

 地面の上に落ちたそれを除き込んだ時、私は自分の目を疑った。なぜならそこには砂浜に波を打ちつける海の広がりがあったからだ。そしてその紺碧の色は、私の故郷の景色を表していた。

 私はその小さな窓を急いで拾い上げると、誰にも見つからないように隅に隠し、夜な夜なそこに映る景色を眺めるのだった。波はいつまでも砂浜に打ち寄せ、引いていった。真っ黒な夜の闇には吹き付けたように星々が散らばり、月光は波の表面を煌びやかに装飾していた。どこまでも深い紺色を呈した海面にはその月も浮かんでおり、波のためにその輪郭は柔らかくぼやけ、まるでゆっくりと海の中に溶けていくようにも見える。私は眠ることも忘れ、それをいつまでも眺めた。

 幼少期から、遊び場はこの海だった。この景色を眺めるだけで、あの塩の匂いをありありと思いだすことが出来る。私はこの砂浜で貝を拾い、砂で山を作って、最後には裸足のまま心地よい砂を感じながら、目的も無くただ走り回った。あの頃はただそれだけで楽しかったのだろう。馬鹿みたいに笑っていたのを覚えている。何人かの友達らと、砂に飽きるとそのまま海へと飛び込んだ。親達に沖に出るのは禁止されていたが、体の小さい私達にとっては、少しの海があればそれで十分だった。水を全身に浴びながらはしゃぎ、たっぷりと口に入り込んだ塩辛い味に嫌気がさすと、砂場に上がり、潮風で体を乾かした。浮かび上がった塩や塵が体にへばりつき、それを手で払いのけるとまた海へと飛び込む。私達の体温はその度に海に溶けて、私はそれが海と一つになることのような気がしていた。

 手元のガラス片は、私の眼前と故郷の様子を繋いでくれる窓なのだろうか。そして窓から見える景色は移り変わるのだった。

 次に見えた景色は、その海から少し歩いた先にある森だった。色とりどりの果実や、ふんだんな野草やキノコが採れる森だった。猪や鹿などの動物も多く、時々熊も出て私達を困らせた。村の男達は猟銃を担いで、そんな森の奥深くへと分け入っていく。そして遠くで鳴り響く銃声を聞いた。その音を聞くだけで、火薬の匂いまでもが自分の鼻の中に滑り込んでくる気がした。自分達の背丈ほどもある大きな獲物を仕留めてくる男達を見て、私達子供は心底憧れたものだった。いつか自分達もその役目を背負うものだと夢見ていたし、そんな日が来ることを疑わなかった。

 その窓から見える夜の森は静かだった。村の人間はもう眠っているのだろう、暗い森は動きも無く、そこにあるのだった。だが私の記憶よりも随分と、それは静か過ぎる気がした。そしてそれはあの海にも言えることで、あの頃漂っていたはずの空気が、人の気配や匂いが、もうそこには感じられないのだった。いやきっと全く失われたわけではないのだろう。しかしそれは、限りなく薄められてしまっている。

 私はその森の景色を何日も眺めつづけた。それをどれだけ眺めたところで、夜行性の小動物が少し横切ることはあれど、それ以上の変化は見せてくれることは無さそうであった。だが私はもはや二度と見ることが無いと思っていた故郷の景色を、その一片だとしても、絶対的な隔たりを越えて覗き見ることが出来ているという不可思議なこの状況に、果てしなく感謝したのだった。そしてまたその小さな窓の中の景色は、変化を見せたのだった。

 そこに映ったのは、紛れも無く村の中だった。かやぶき屋根の家々が、規則的の欠片も見せず点在し、だがそれらは集まることで村を形成している。粗末な家々の、粗末な並び。とはいえこうして眺める私にとって、その並びは美しいことそれ以外に無かった。記憶の中で鮮明に、絶対に忘れんと何度も反芻していたはずの景色も、今現実として眼前に並ぶ景色と比べればそれは随分と剥離したものであったことに気づく。記憶の中では絶対に湧き出てくることが無かった懐かしいという思いが、もはや自分の意思では止めることが出来なかった。少しずつその景色が、ぼやけていく。私は両手の指で目にたまる涙をぬぐい、一刹那でも長くこの景色を捉えていたいと思う。この窓がいつまでもその景色を映していてくれる補償などどこにも無いのだ。私はただ眺め、刻み、祈った。この村がいつまでも平穏にいてくれればいいと、何の悪意にも襲われることなく、ただ存在してくれていればいいと。

だが随分とくたびれてしまったその壁達は、この村にはもうそれを掃除する余裕すら無くなってきているということを、私に示しているのだった。


 日本の隅でひっそりと生きるこの村にも、戦争の手は平等に伸びた。村の生活を維持していく上で、男の手というのは絶対的に必要なものだった。だから男手を取り上げようとする招集には当初応じず、徹底して無視の構えを取っていた。各地で始まりだしたという空襲の噂も耳にしたが、わざわざ都市部から遠く離れたこの村には関係が無い話だった。だから時折軍の人間がやって来て、村長らに何やら怒鳴りつける姿を見ていても、私達は何ら変わらず、村の生活を回すために動いていたし、当時ようやく一人前に近い年齢となっていた私は、少しずつ狩りの手ほどきを受け始めていた。

 だが私が獲物を撃つ音よりも早く、一発の発砲音が村に響いた。

「これが最後だ。非国民どもめ、役に立たないならば、次は皆殺しにしたって構わないのだぞ」

 軍人たちの足元には、村の男が一人転がっていた。顔をゆがめながら腹を押さえ、そこからは赤い液体が漏れ出ていた。

 村の男達は次々と村を出た。私も同じく、そして気色の悪い服を着させられ、銃を持たされ、船に乗せられ戦地へと送られるのだった。私はそれからどれほどの時間が流れても、自分がなぜこんなところにいるのか、訳が分からなかった。上官と呼ばれる生物の命令を無視し、殴られることも度々あった。そして村を出て半年か、それか一年ほど経った頃、気づけば私は最前線に配備され、深く暗い森の中に足を踏み入れるのだった。

 その森は私が知っているはずの森とは何もかもが違った。木々はやけに背が高く、ぐねぐねと不自然な歪曲を描いており、そんな多量の生物の群れの中に足を踏み入れていくことは、酷く不快で、肌を伝う液体が単純な汗なのか冷や汗であるのか、その区別はつかないのだった。

 森の中を進むと、鼓膜を突き破るような銃声が至る所から響き始めた。木々が破裂し、その中に飲み込まれていくような感覚だった。私は後方の仲間達を捨て去り、がむしゃらに走り始めたが彼らは少し声を上げるばかりで、後はもう私を追うことは無かった。ぬかるみや木の根に足を取られ、よろめきながらも、私は獣のような唸り声を漏らしながら、銃を握りしめ走った。何かから逃れようと、懸命にもがいていたのかもしれない。だが目の前の木々の間から、一人の敵兵が顔を出した。

 その男は私の顔を見ると、声を荒げ、構えていた銃の先を私の方に向け、また叫んだ。その瞬間、爆発と等しい発砲音が響いた。その男の額には小さな穴が空き、そこから泉のような血を噴き出しながら、崩れ落ちたのだった。私の方がほんの少しだけ早かったようだった。それは私の身体が反射的に起こした発砲であり、私が求めていた発砲音とは、何一つとして異なるものだった。私はあの森の中で、獣を撃てていればそれで良かった。銃を捨て、森の中を歩いた。次に意識を取り戻した際、私は既に森の外にたどり着いていたようで、遠くから走ってくる敵兵に銃を向けられ、彼らの陣地へと運ばれたのだった。私は捕虜となった。


 織のような場所に入れられ、日に何度か食事が与えられるばかりで、後はそれだけだった。深夜を除き常に監視の目はあった。勿論武器など無く、ほとんど裸同然の恰好で、用を足す際にだけ檻から出され、銃を向けられ監視されたまま用を足す。滑稽、そしてどれほどまでに無様な恰好かも分からないが、その時の私にはもう何も感じられなかった。

 私が窓を拾ったのはそんな時だった。用を足し終わり、地面に置かれたそれを発見すると、私は転んだふりをしてそれを手の中に収め、檻の中へと運び入れた。それから深夜にそれを眺めては、海を越え遠く離れた故郷の姿を思うのだった。


 いま窓の中に映るのは、眠りにつく女や子供たちの顔だった。母、妹、そしてかつての私達のように、村の中を駆けまわっている子供たちの寝顔だった。彼らの顔はみな、やせ衰え、疲れ切っているように見えた。そして窓に映る景色は消えた。それはただのガラス片となり、それからどれだけ眺めていても、それ以上のものを私に与えてはくれなかった。

 この窓は、私に一袋何を伝えたかったのだろうかと思う。私はこの窓のおかげで、再び故郷を眺めることが出来た。それは私が守るべき場所、そして人、家族だった。

 これ以上私の村を、敵に、部外者に、荒らされ、奪われるわけにはいかない。私は一人でも多くの敵を、倒さねば、殺さねばならなかった。まともな武器は無い。だが私の手の中には、小さく鋭利なガラス片があった。

 用を足すために見張りの男を呼びつける。その男は面倒くさそうな顔をしながら、無気力に鍵を開けた。その顔には既に警戒など浮かんではいない。私は僅かに空いた檻の隅間から腕を出すとその男の胸ぐらをつかみ、勢いよく引き上げるともう片方の手に握っていたガラス片で、男の首を切った。

 首を押さえる男を蹴り飛ばし、思い切り顔を踏みつける。何度も、何度も、その顔からは血を噴き出し、痙攣のような様子を見せながら男は蠢き、そして動かなくなる。騒ぎを聞きつけたらしい敵たちがこちらに近づいてくる音が聞こえる。私はたった今殺した男の銃を拾い上げると、走り出した。窓は捨てた。


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