今宵
「樹今日どう? 飲み行かない?」
と、午後の講義が始まり例によってうとうとしかけた矢先、隣に並んですわる碧斗からふと言葉をかけられて、教壇からだいぶ席も離れ教授が黒板に向かっているのを幸い、樹は顔をふり向けて、
「今日? でも明日も大学じゃん」
そう返したものの舌は早くも酒の味をかすかに認め、ほろ酔い気分にうつらうつらしていた頭も今や覚醒したのを自分ながら心づきつつ、なおも「明日学校だし」
「そこをなんとか。ちょっと誘われててさ。いや俺から誘ってはいたんだけど、先方から急に今日なら大丈夫だって言われて。相手も二人なんだよ」
「女子?」
「もちろん」
「なるほど」
「だから頼むよ。俺らいいコンビじゃん。それにほら、樹がいたら女の子も喜ぶし」
かすかな嘲笑の影もなく、口の端に絶妙な微笑みをたたえて真面目に断言する碧斗の言葉には樹もこれといって反論はない。かえってこれまで折々の経験で、肌の白いやせた贅肉のない肢体に、さっぱりとしていながら彫りの深い鼻の細い口の引き締まったこの顔立ちには、たちまちにして女を虜にさせる磁力ならぬ魔力が備わっているらしいのも、自分可愛さの自惚れとのみ片づけるにも及ばない。言ってみれば、少女漫画で胸ときめかせながら度々出会ってきた恋の相手を忽然目の前に見いだすのと同じことで、がつがつ迫って来る様子を想像できないのも彼女たちを知らず知らず安心させてしまうものらしい。
「そっか。それならどうしようかな」
と、何の恥ずかしげもなく素直に肯定してしまったのにすぐに心づいてすっと目を黒板へ移し、教授が相変わらず経済学の解法を板書していたその白のチョークがポキっと折れて、代わりを手に再び板書がなめらかに始まったのを潮に碧斗を向くと、高校時代まで真剣に取り組んでいた部活動の名残で今も引きつづき鍛えているらしいほどよく引き締まった体つきと、それに見合う端整な横顔に出会った。
「俺も飲みたくなって来たかも」
「ほんと? じゃあ頼むよ。助かる。実はもう相手には大丈夫だって返事をしてて」
「いいよ」
との返事を得て、碧斗はほっと胸をなでおろした。今宵飲みに誘った相手は特に狙っているというわけではなく、ただ時々共に飲む女のひとりに過ぎないのであるが、際立って可愛いのみならず清楚な装いと品の良い表情が会うたびごとに、碧斗をすこぶる満足させるので、誰かを誘って飲みたくなった折々にはきまって彼女を思い出す。
これまでは二人きりで飲むことを少しも辞さなかった彼女ではあるものの、今回にかぎって互いに連れを要求したのは、碧斗がいつまでたってもさっぱり自分を口説いてくれないのに遂にしびれを切らしたのでもあろうか。しかし碧斗はその事に気がつくとなおさら相手に迫る気が起こらない。もし付き合って男女の関係を結んだが最後、今二人のあいだにつややかに漂う媚態がたちまち消え去るか、そうでなくともまったりとろいものに様変わりするのは知れている。このまま宙ぶらりんの遊戯をつづけるに如くはない。
と、そう思うので今回は是非とも顔のいい樹を誘って、樹がもし渋るようならどうにかこうにか宥めすかしてそれでも首を振るようなら無理やりにでも拉して行こうかと、少々うるさがられるのも今日ばかりは辞さないつもりで内心恐る恐る尋ねてみたのであったが、嬉しくも予想に反した樹の返答に、今夜の親睦の情景が今からもう頭を酔わせるようで、碧斗は指先で軽く机を叩きながら調子を取っていると、ふと気がついてシャーペンを取った。
その折、隣の樹は今宵の成り行きを勝手に占っている最中。相手の女子についてきくべきが、たちまち二つ返事をしてしまったのを今更悔やんではもう遅い。といって碧斗にかぎってつまらない女を連れてくるはずはなく、そのあたりはもう端から信頼しているので、碧斗にまかせておいて今宵はゲスト気分でぶらりと本番に臨めば間違いない。気に入られるか否かはなおさら議題にものぼらない。こっちが気に入るかどうかがまずは一等の問題なので、どうにかして女たちの情報をさきに掴んでおきたいものの、こころよい返事を与えてしまった手前、探りを入れるとこちらの体裁ばかり傷つけそうで、なかんずく碧斗に不審がられると面白くない。こうなればもうすっぱり何事もきかず、恬然と現場に赴くに如くはない。
とそう決めてしまうと樹は経済学の解法もそっちのけに、今真に入用なのは今宵行った先での解法だと言わぬばかり、頭の中で今晩の首尾を計算しようとした折から目に飛び込むのは経済学のグラフ。需要曲線と供給曲線が交わるところに均衡価格及び取引量が生まれるというおきまりの図に、自分は価格も高価で数量も希少なのでなかなか均衡する女は現れまいと、いきなりの自惚れ。これにはたちまちみずから苦笑して、女の方も自分と似たような質であれば嬉しいとさらに大自惚れ。碧斗のことだからまさか均衡の生じない者同士を面会させるはずもあるまい。これはもう期待していい事なので、自分はただ大船に乗ったつもりで席に出てせいぜい愛想よく振る舞えばとにかく今夜ひとときは楽しめるに相違ない。別にその次を期待しているというではなく、今夜が今夜楽しめればそれでいいというのが樹のつちかった常変わらぬ心情で、そして今晩かぎり明日にはすっぱり忘れて、二日酔いの頭にやわらかな記念が残存すればいよいよ上首尾なのである。
碧斗は碧斗でいやでも気をつけねばならぬのは今宵今夜の団欒先での樹の振る舞い。樹の優しく柔らかな見た目をすっと裏切る大胆さは、これまで度々誘い誘われてきた間柄ゆえ、知りすぎるほど知ってはいるので、その瀟洒な立ち居振る舞いで彼女を落とされてはたまらない。それだけは何とかして阻止せねばなるまいが、かといって顔の良い愛想の良い友達を紹介できるのは碧斗にしても鼻が高いので、あくまで樹を連れて行かないという法はない。
碧斗からすれば嬉しいことに自分にもそのようなところはあるものの、樹はさらにその上を行くほど自然と女に気に入られるたちなので、樹が今日の場に立ち現れるや彼女の方から、即座に流し目をくれるのは大概分かってはいるものの、それにつけても心配なのは彼女の今後の胸のうち。その後の成り行き。ゆらゆらゆれ動いたのちには自分と二人きりになるのを殊更に避けるようになることはなかろうか。自分の女にしたいほど思い詰めてはいないもののしかし樹にとられるのはもとより望むところではない。今こそ真に願わねばならぬのは彼女が連れてくる女子の格。ぜひとも樹のお相手をさせたいその子は、彼女の友達というからにはまさかさほど下った女が来るはずもあるまいけれど、もし好みの女が現れたところで彼女の手前そっちと懇ろになるわけにはいかないのが来るべき今夜の心残りである。
甘い悩みに浸っている碧斗の隣では、今宵の上首尾の予感に樹が経済学の設問を得意とはいうもののいつになくすらすら解いていって頭も一層冴えわたる最中。樹は教授が説明するより先にテキストを勝手次第に進んでひとり新たな解法の解説にふんふん頷いている折ふと心づいて隣を見ると、碧斗はなお指先を机にトントン鳴らしていた。
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