わらべ唄
洗面所で顔を洗い終え、居間に入ると吉野さんが台所で迎えてくれた。
「神蔵先生、おはようございます」
どうやら朝食を作ってくれているらしい。
そんな吉野さんに「おはよう」と返事をすると、台所にもう一名がいることに気がつく。
蛍だ。
蛍は吉野さんが作った朝食をおぼんに乗せ、運ぼうとしていた。
俺の顔を見るなり、蛍は「先生。ぼーっとしてないで顔洗ってきましたかー?」と呆れ顔でいる。
「洗ったよ。俺も何か手伝えることは……」
申し訳なくなり台所を覗くと、蛍は驚いた顔をする。
「いつも私に家事を任せてくる先生がめずらしい。今日は雨でも降るんじゃないですかね」
蛍の茶化しにちくりと胸を突き刺される。
俺は不器用で、家事は苦手だった。
だから普段は蛍に家事は任せっきりであったのは事実なため、俺はばつが悪くなり、唸る。
「ふふ。蛍さんが手伝ってくれているので、もう手は足りてますよ。神蔵先生はどうぞ座っててください」
吉野さんが場を和やかにするように、俺に声をかけてくれる。
俺は吉野さんの言葉に甘えて、渋々と席に着いた。
テーブルにはもうすでにいくつかおかずが置かれている。
蛍も料理上手だが、吉野さんも料理が上手であると感心する。
(初瀬はこんな人を嫁さんにもらえるんだから幸せ者だろうに。二人の関係は上手く行ってたんじゃないか?どうして彼女に暴力を)
気がかりなことを頭の中に思い起こす。
(……昨夜あの書物を読んだが俺は今正気を保てているし、さっぱりだが……)
顎に手を当てて考え事をしていると、吉野さんと蛍によってテーブルの上に次々と料理が置かれていく。
「お待たせしました。さぁ召し上がってください」
吉野さんは食事するように促してくれる。
だがその前に。
「吉野さん。食事が終わった後、あの書物についてお話したいことがあります」
◎○
「俺の見解では……これは呪いなどの忌々しい物ではないかと思います」
俺は昨夜読んだ書物をテーブルに置き、説明する。
「恐らくこれはある旅人が花籠の風土を調査した記録のようです」
「調査?」
吉野さんは不思議そうに声を出した。
「著者は不明ですが、風土のことを研究する学者のものではないかと思います。花籠山と吉野さんが暮らすこの集落の関係性について3つの章に分けて書かれていました。順に追って説明しましょう」
テーブルの上で書物を開き、俺は文を指で示した。
「まず一の章では集落は霊山の花籠山の麓にあること、集落の住民にとってこの山は神そのもので、生きていく中で必要なもののようです。そして花籠山は神域であるため穢れを持ち込まないために、立ち入ることを禁止されている、と」
そして次の頁をめくる。
「次にニの章ではゴンドラの唄と花籠について書かれていました」
「ゴンドラの唄…?」
隣にいた蛍が分からないというように首を傾げる。
俺が説明しようとすると。
「いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないもの」
柔らかな歌声で吉野さんは口ずさんだ。
その雰囲気は儚げで、悲しげであった。
「ゴンドラの唄は花籠ではわらべ唄のようなもので、親から歌い継がれてくるものなんです」
歌い終えた吉野さんが俺の代弁をしてくれる。
「また花籠には悲しい恋のお話があります。むかし、恋い慕っていた恋人たちがいたのですが、娘には嫁ぎ先が決まっていたようで、泣く泣く想い人とは別れることになり、花籠とは別の土地へ嫁いで行ってしまったのです。それを見ていた娘の妹が、姉を慰めるために歌ったものがゴンドラの唄と言われています」
「だから悲しい響きなんですね」
蛍はしみじみといった様子で吉野さんの話を聞いていた。
「これは…驚きました。二の章には今吉野さんが話してくれたことが書いてありました」
「そうなんですか。幼い頃祖父から話を聞かされていたものがそこに書かれていたんですね。今思えばこの書物は祖父のものなのかもしれません」
「おじいさんのもの?」
「祖父は花籠のことでは詳しかったし、山の神事にも積極的関わっていましたので」
吉野さんは淡々と語った。
その表情は暗かった。