花籠集落
電車には数人の乗客しか乗っておらず、水鳴駅で降りる者は俺たちしかいなかった。
小さな無人駅で改札もなく、切符を車掌に渡す。
電車が走り去るのを見届けてから駅から出ようとする。
「あの」
脇から女性の声がかかった。
出入口の左脇に小さな待合室があり、そこに一人の女性が座っていた。
俺たちの顔を見て、立ち上がる。
「もしかして、神蔵先生ですか?」
「そうですが…あなたが吉野さん?」
俺が恐る恐る呼ぶと彼女は安堵したようで、「はい」と返事をした。
ロングヘアのすらりとした女性であった。
「初めてまして。私、吉野静季です」
「どうも。神蔵奏汰です」
俺と吉野さんが挨拶をし終えると、吉野さんの目が蛍に向かう。
「こんにちは。私は神蔵先生の助手をさせて頂いています。朝霧蛍と言います。よろしくお願いします」
律儀に蛍が名乗ると、吉野さんも「どうも」と微笑んでいた。
そして駅の外を指差しながら吉野さんは言った。
「向こうに車があるんです。私が住んでるところまで、遠いのでお二人を迎えに来ました。さあ行きましょうか」
外に出ると、一台の軽自動車が停まっており、その車に乗り込んだ。
吉野さんの運転で、閑散とした商店街の通りを走る。
店はあるようだが、スーパーやコンビニのような店はなく、懐かしい感じのする商店街であった。
しばらくすると、辺りは畑に囲まれた道へと進む。
車内はラジオが流れていて沈黙が続いていたが、俺は吉野さんに気になっていたことを聞いてみた。
「今日、初瀬は?」
「すみません。隼人さんは仕事があるって言って、今朝早くから出掛けていて」
申し訳なそうに吉野さんは謝る。
「いや、いいんです。初瀬にはこんな美人な人がいるなんて、知らなかったから、会えてよかったです」
そう言うと、「そんな」と声を出し、謙遜している様子であった。
ルームミラーを通して吉野さんと目があった気がしたが、すぐに目を逸らされてしまった。
奥ゆかしい感じがして、初瀬が好きなそうなタイプであると、ひとりでに納得していると、真横から痛い視線が刺さる。
それは蛍からの視線なんだが、あえて気がつかないふりをしておこう。
やがて山道へと変わり、さらに車は山奥を目指す。
「随分と山奥なんですね」
蛍がぽつりと感想を漏らした。
「えぇ。花籠は私が生まれ育ってきた集落で、とても静かで良いところなんですが、ただ交通便が難で…ね。だから外から来るお客さんなんて、滅多にいないんです」
「でもそういうところって秘境という感じがして、何だか憧れます」
蛍はめずらしく胸を踊らせている様子で話していた。
いつも仕事のとき、彼をカメラマンとして連れているが、首からかけた愛用のカメラで一刻も早く、花籠の景色をおさめてみたいとうずうずしているようだった。
普段は大人っぽく振る舞う蛍だが、こういうところはまだ少年のような幼さがあるのかもしれない。
朝霧蛍 19歳
奏汰の助手で、カメラマンである。
奏汰の家に居候している。
冷静で、時々奏汰のことをいさめることがあり、奏汰よりしっかり者である。