出発前
特急列車は滑るようにホームへやってきて、悲鳴に似た汽笛を鳴らしながらゆっくりと停車した。二分遅れだった。
あっという間で、しかし重苦しい二分間であった。
自動ドアは詰めた息を吐き出すようにして開き、大きな鞄を持った人達がそこから雪崩みたいに降りてくる。
まつりは祖母に向き合った。濁った目はうつろで、絶えずぶつぶつと何事か呟いている。
もう数年はずっとこの調子だ。何を話しかけても反応は鈍く、まるで自分一人の世界に閉じこもり、他者を拒んでいるかのよう。
こんな状態の祖母を残して出発する後ろめたさは、どれだけ季節が春めいて陽気に浮き立ったとしても、変わらず自分の胸に重くのし掛かることだろう。
「おばあちゃん、それじゃあ行ってくるから。夏には絶対帰るからね。困ったことがあったら、叔父さんや伯母さんにちゃんと言うんだよ」
私は遠くへ行ってしまうんだから。
その言葉は口の中で噛み潰した。
降りていく人の波が消えると、今度は乗り込んでいく人の列が車両へ呑み込まれていく。
もう行かなくては。ボストンバッグを持ち上げようとして伸ばしたまつりの手を、唐突に祖母の両手が包み込んだ。
はっとして顔を上げた。小さな細い指が、慈しむようにまつりの手の甲を撫でさする。涙の出るほどに優しい手つきだった。
「まつりちゃん」
使い古され、ところどころほつれた巾着袋から、祖母は真っ赤な数珠を取り出した。
これには見覚えがあった。自分が地元を離れる際には、祖母から必ずこの数珠を持たされたから。
「持ってお行き。絶対に外しちゃ駄目だよ。どんなときでも」
小枝のような指先でゴムをひろげ、大事に大事にまつりの手首へ数珠をかける。連なる珠は小指の爪ほどの大きさで、血のように赤く、あるいは炎のように紅かった。
「もしも外したそのときは――」
祖母の声が低くなる。子供の頃から何度となく言い聞かされてきた脅し文句。
聞く度に、身体が震えた。
「マヒトツのオニが来るよ」
発車を告げるベルが、けたたましく鳴り響いた。