第62話~魔泉、そしてドール~
「あー……やっぱりオレピの実はうまかった」
朝食にも出てきたオレピの実。その味を思い出して、思わず笑みが浮かぶのも抑えきれないままそう呟く。『第五遊技場』には存在していないのだろうか?ないのだったら主の権限で種なりなんなり持って帰って育ててしまっても……。
「秋人様?」
「あ、ああ、いや、何でもない」
「そうですか?」
にへらと浮かべていた笑みを見られたのだろう。リアナがひどく困惑した顔と声音をこちらに向けていた。いかんいかん、恥ずかしい。
恥ずかしさを隠すように手元の地図を見れば、自然と現在地の場所へと視線が移ってしまう。町を出てすぐだから、今はここら辺だろう。
すでに時刻は朝だ。宿屋を出て街道を歩いている俺達が向かう先はエルフの里……ではなく、近くにあるという魔泉という泉である。どうして魔泉に向かうのか。その理由は簡単で、昨日の話を聞いたリアナがぜひともと言ってきたからであった。
いや、あれは断れない。眼の光もうっすらと消えかけていたリアナに、間近で凄まれながら提案されれば断ることなどできない。美人というのはこうも迫力があるのかと思わず尻込みをしてしまった……。
その時の事を思い出して苦い顔をしていれば、リアナがひどくそわそわとしながらこちらへと再び声をかけてきた。
「魔泉はこの道でいいんですよね?」
「地図通りならな。道なりに行けば看板があるって話だし」
手元の地図に再度、視線を落としながら答える。
念のためにと宿を出る前、女性ゴーレムから聞いた話ではそこまで迷うような道を進むことはないと言っていた。町を出て道なりに行けば分かれ道があり、そこに「魔泉はこちら」といった看板があるとのことだ。
というか、その話はリアナも聞いていたはずだ。それを思い出せなくなるぐらいには限定ドールへの期待が高いのか。……さっきからそわそわして落ち着きがないし。
どれだけ限定ドールが欲しいのだろう。でもここで下手にその話題に触れれば、長時間話されてしまいそうである。
「ピヒョ?」
ドールの話題を振るのは止めようとこっそり心に決めれば、隣を歩くロルが不思議そうな鳴き声を上げた。そちらへと顔を向ければ、ロルは何の話だというように俺の顔と地図を見比べている。
ふむ、気になるのか。なら見せるか。
「ほれ。ここを通って、ここが目的地」
簡単な地図をロルに見せつつ、今いる街道を指差す。そしてそのまま目的地である魔泉まで、描かれている道を指でなぞっていった。ロルの視線も、指を追うようにして地図の上を滑っていく。
ああ、そういえば、となぞっていた指が目的地に着いた頃、ふと気になる疑問が浮かんだ。
「なぁ、魔泉ってどんな場所か聞いたか?」
ロルが納得したような声で鳴きながら一つ頷くのを横目に、リアナへと問う。宿屋を出る前にも同じ質問をしたのだが、リアナは意気揚々と先を歩いて行ったので結局答えを得ることが出来なかったのだ。
今なら答えがもらえるかもしれない。そう思って聞けば、リアナは思い出すようにほっそりとした指を顎に当てて宙へと視線を投げた。
「名物は泉だという話です。文字通り魔泉だとか」
「文字通り魔泉って……嫌な予感しかしねぇ」
リアナの答えに思わず頬が引き攣る。
いや、それよりもである。
「というか、それだけか?」
「はい。魔泉には初めて行くのだと言ったら、何も知らずに見て驚くといいよ、と言われまして」
結局教えてもらうことは出来なかったのだと、当時を思い出すように宙へと視線を固定したままリアナは言葉を紡いだ。
おう……なんだろう、あのエルフ二人の楽しそうな顔が脳裏に浮かんだ。特にダークエルフではなく、エルフの方の。
けれど彼女達がそう言ったということは、よっぽど驚くものなのだろう。
水が紫、とかか?いや、もしかしたらそれだけでなく、植物さえも紫色をしているなど禍々しい様子なのだろうか。……おうふ、想像したらなかなかにえげつない。
想像した光景に思わずゾッとしてしまう。
「ピッ! ピヒニョ!」
突如、ロルが服の裾を引っ張るとともに、何やら前方を鉤爪で指し示しながら鳴き始めた。
一体何だと指す方へと視線をやれば……あ、なるほど。
「教えてくれたのか。ありがとうな、ロル」
そう言って撫でれば、ロルはひどく嬉しそうに目を細めて頭を擦り付けてきた。
ロルが指し示した方には分かれ道があり、そのちょうど分かれている部分に看板が一つ立てられていた。おそらくあれが魔泉のある方向を示す看板なのだろう。ここからでは遠すぎて、あいにくと文字は見えないが。
道なりに歩き、看板に近づいていく。そうすれば遠くて見えづらかった文字も見えるようになってきた。看板の上方には左を指し示す矢印、そしてその下方には「この先魔泉」と書かれている。
ただ単にそう書かれているだけならば良かったのだが、文字の字体やら色使いやらなんともおどろおどろしい看板だ。いや、魔泉って泉が名物なんだよな?どうしてこんなにおどろおどろしいんだ?……やっぱり、予想が当たっていた?こんなの、どう見たって――
「まるでお化け屋敷の看板じゃあないか……」
内心でつぶやくはずの言葉が思わず外に漏れ出てしまう。
仕方がないだろう、これはどう見たって泉が名物とは思えない。むしろこの先にあるお化け屋敷を案内する看板です、と紹介されたほうが納得するというものだ。
そんなことを考えていれば隣から視線を感じた。どうにもリアナがこちらを見ているらしい。
一体どうしたのだろうかと彼女の方へと顔を向ければ、リアナは少し不服そうにこちらを見つめていた。
「私達のものの方がよりお化け屋敷らしいです」
「なに張り合ってんだ」
リアナの言葉に思わずそう返してしまう。
そもそもだ。魔泉の売りは泉であって本来お化け屋敷ではない。いくらそれらしいといっても元が違うのだ。
けれどもリアナはどうにも納得がいかないのか、先程からぶつぶつと呟いている。もっとおどろおどろしくできるだとか……そういう問題ではないだろう。
「ひとまず、だ。看板に従って左へ行くか」
このままではいつまでも呟いていそうなリアナの思考を遮るように少し強く言う。そうすれば正気に戻ったらしく、はっと何かに気付いたような顔をしたと思えば今度はだらしない笑みを浮かべた。
……これは正気に戻ったというのだろうか。いや、言わない気がする。
「ピッヒョピー!」
リアナってこういう性格だっただろうかと再び疑問が襲う中、ロルが元気よく鳴き声を上げた。
「ええ、行きましょう。すぐ行きましょう!」
握り拳を作りながら嬉々として言ったリアナは、いざ行かんとばかりに威勢よく小走りで左の道を進んでいく。
さすがのロルもその様子に呆気に取られてしまったのだろう。ポカンとした表情でリアナの後ろ姿を見つめていた。かくいう俺も呆気に取られているのだが。
「あいつ、あんな感じだったっけ?」
「ピヒー?」
俺の問いにロルも首を傾げながら答える。いや、そこは鳥らしい鳴き声で返してくれよ、なんて思いがよぎりながらも、リアナの背を見つめていた。
そんな俺達をよそに、リアナはこちらに向かって早くと急かすように手を振っていたのだった。
□ □
「人、多くなってきましたね」
急ぐ気持ちを表すように半歩先を行くリアナが、あたりをきょろきょろと見回しつつそう言った。
確かに彼女の言う通りである。
今まで追い越してきた人、追い越された人はもちろんのこと、前方を行く人やすれ違う人の数は多い。どの顔も楽しそうだったり土産か何かでも入っているのであろう袋を携えていたりと、その様子は確かに観光地近くの光景だ。
「魔泉まで近いんだろ」
「確かにそうですね。店も多くなってきましたし」
そう言う彼女の視線は道の両サイドにある店へと投げかけられている。
観光客を狙って移ってきたのか、それとも元からここにあったのか。そこまでは分からない。けれども屋台や飲食店、宿屋といった店の数々が立ち並んでいた。
ちらりと屋台へと視線を投げれば、道行く人に何やら名物である饅頭を売っている。反対側へと視線を向ければ、休憩のために入ったのかそれとも腹ごしらえか、魔族はもちろんのことエルフや獣人といった人々が談笑していた。
それにしても本当に人族の姿が少ない。ちらほらと見かけても、それは商人や冒険者ぐらいしかいない。
一方、リアナは先程から必死にあたりを見回していた。
「ところでドールを売っている店は……!」
うん、ですよね、分かっていた。分かっていたけれども、血眼になっている彼女の形相が怖い。
思わずすっと身を引いてしまいながらも、そういえばとリアナに話しかける。
「昨日話していた人達に店の場所を聞いていないのか?」
ドールの話を昨日のエルフの女性二人に聞いたのであれば、どの店で売っているかも聞いたはずだ。
「確か、湖のほとりにあるお土産屋だとおっしゃっていました。お土産屋の中でも最も大きいとも」
「あぁ~……つまりだ」
そこで言葉を切れば、前方を見やる。
湖手前に位置するここからでは、人垣や店が壁となって湖を見ることはできない。けれども横に大きく伸びている店の列は湖の大きさを物語っていた。
「この湖をぐるりと周る必要があるのか」
思わず頬が引き攣ってしまいそうである。いや、実際ちょっと引き攣っている。広すぎだろ……。
「けど、ここで立っていても進展しませんよ?」
一方のリアナは好きなもののためなのか湖の大きさにものともせず、ずんずんと進んでいく。
リアナの言い分はもっともだ。ここでぽかんとしていたって見つかるわけがない。そう納得すれば、ロルとともにリアナの後を追いかけた。
リアナを先頭にして、人の流れに乗って歩いていく。ひどく混雑しているというわけではない。けれども少なくない人の数は十分壁のように思えた。それに相まって湖を囲むように店が並んでいて湖を見ることができない。
「それにしてもこれじゃあ湖が見れないな」
ぼそりと不満が口から出てしまう。湖が名物だというのに、これではその名物を見ることができない。どこか湖へと近づく道が途中であるのだろうか。
そんなことを考えていれば、瞬間、鼻を甘い匂いがくすぐった。
甘いといっても決してしつこさがあるわけではない。しいて言うなら果実の甘さだろうか。そんな匂いが通りに満ちているようだった。
どこかの店でそれらしい甘味でも売っているのだろうか。そう思ってあたりを見回すも、それらしい店は見当たらない。甘味を売っているとしても、明らかにその店から漂う匂いではない。
ではこの甘い匂いは一体どこから漂ってきているのだろうか。
お土産屋を探しながらも匂いの元を探していれば、湖側に連なっていた店の列が途絶えた。
「うわぉ……」
瞬間、湖側を見たリアナの口からなんとも間抜けな驚きの声が漏れる。そんな驚き方をするとは珍しいなぁ。
「なんでそんな驚き方……うわぉ」
リアナにつられて湖側に視線をやれば、思わず同じような驚き方をしてしまう。おおう、本当かこれ。こりゃあ確かに名物にもなる。
湖側の店の列が途切れたことにより、名物である湖を見ることが出来た。
澄んだ透明な水が満ち溢れた泉……ではない。さながら血の池地獄のように真っ赤である。もしもこれで沸騰しているように気泡が湖面へと浮かんでは消えていれば、本物の血の池地獄と言っても過言ではないだろう。何より、周りにいる鬼の魔族達が地獄のようなその光景に拍車をかけていた。
そこでふと、先程から漂ってくる甘い匂いが強くなったような気がした。
「ん……?」
すんすんと甘い匂いを嗅ぐ。それはどうにも湖の方から漂っているらしかった。
「いや、まさか」
「どうなさいましたか?」
「今まで匂っていた甘い匂い。料理か甘味だろうと思っていたけれど、湖から漂っているのかこれ?」
再度、匂いを嗅いでみてもやはり匂いは湖の方から漂ってきている。まさかとは思ったものの、やっぱりこの甘い匂いは湖から漂っているじゃあないか。
「確かに……そうですね。甘い匂いが湖からします」
「だよなぁ」
スンスンと匂いを嗅いでいたリアナも賛同する。
なるほど、これは確かに名物だ。パッと見ただけではさながら血の池地獄のように真っ赤な湖。けれども漂う匂いはしつこさのない果実のような甘い匂い。なんとも真反対である。
匂いと見た目の大きな違いに驚かされていれば、「それよりも」とリアナが思考を遮るように口を開いた。
「それよりも、です。目的はドールです。早く件のお土産屋を探しましょう」
そう言うやいなやリアナは早々に歩き出す。
確かに魔泉に来た目的は限定ドールなのだが……いや、変なことは言わない方がいいだろう。自分で同じようなことがあれば揚げ足を取られかねない。……オレピの実に関しては、そうなりそうだし。
苦い顔を伴いながらもちょっとした反省をしながら、話で聞いたお土産屋を探して道沿いに再び歩きだす。
ちらりと視界の端に何やら古びた看板が飛び込んできた。何だろうかとそちらへ視線を向ければ、湖に関してのことが書かれてある。よくあるよな、こういうの。大抵こういう看板には湖にまつわる逸話や伝承が書かれてあるもんだ。
少しだけ歩くスピードを落として、ざっと斜め読みをする。そこまでだらだらと書いてあるわけではない。すぐに読み終える量だ。
へぇ、あの湖の赤色や甘い匂いの原因は魔獣だったのか。鳥型魔獣の習性でベリー系の果実を湖に落としていて、気づけばああなってしまったと。すごいな、どれだけ落としたというんだ。
「秋人様?」
どれだけの果実を落とせばああなるのか。そう考えていれば、歩くスピードが遅い俺に気付いたリアナが声をかけてきた。
「あ、ああ、悪い。すぐ行く」
そう声をかければ小走りに、先で待っているリアナの元へと駆けていった。
再びお土産屋を探す。看板のところからどれほどぐらいだろうか。もうそろそろ入口の反対側に辿り着いてもいい頃だ。
「あ、どうやら反対側に来たみたいですよ」
「へ? あぁ、本当だ」
リアナが言いながら向ける視線の先には、入り口と同じようにT字路となっていた。湖を周回する道とは違う方は、どこか違う町だかに繋がっていることだろう。
それにしてもすでに反対側に辿り着いたのかと最初の地点へと視線を向ける。けれどもここも最初の地点と同じようで、大きな店に遮られて湖の向かいを見ることなどできなかった。
「ん?」
ぴたりと動きを止める。
もしかしたらこれはわざわざ湖を一周せずとも済むかもしれない。
「リアナ、ここじゃあないか?」
「ん……本当ですね」
俺の指し示す先、ちょうどT字路前に他の建物よりも一階分大きい店があったのだ。
木造のそれは他と比べて色合いが渋く、古くからそこに建っているのだろうと思わせた。店頭に並ぶのは饅頭といった甘味だけでなく、リアナが探し求めていたドールやらと色々と置かれている。……木刀、はなさそうだ。
店前にはこれまた木製の看板が掲げられている。限定ドール、と書かれていることから呼び込みの看板なのだろう。けれども伝えるはずのその文字も、看板に張られた白い紙によってわずかしか文字が読み取れない。
どうしてだろうか。限定というからにはドールを前面に押し出して売っていてもおかしくはないのだが。
「秋人様、行きますよ!」
不思議に思っている俺をよそに、リアナは意気揚々と頬を薄ら朱に染めて店内へと入っていく。どうにも興奮しているらしい。まぁ、先程までずっとドールを探していたしな。よっぽど好きなのならば、理解もできる。
思わず苦笑を浮かべながらリアナの後をついて行く。あ、とりあえず魔獣も入っていいかどうか聞かないと……って、大丈夫なのか。
視線の先にあるのは魔獣の入店可の張り紙である。もしかしたら俺と同じように魔獣を連れているような冒険者やらがいるのかもしれない。
けれどまぁ、念のため。
「ロル、誤解されないように傍にいろよ」
「ピピッ!? ピヒィ~……」
万が一、野生だと勘違いされてロルに冒険者が挑んでは困る。そう考えてロルへと振り向きつつ言えば、予想外だったのかロルは驚いた声を出した後にひどく残念そうな目でこちらを見た。
「まさか、自分だけで散歩とか考えていたか?」
「ピヒィ~……」
俺の言葉にロルは気まずげに視線をそらす。
「ピピッ! ピニョピィ!」
諦められないのか、自分だけでも大丈夫だとばかりにロルは自身の胸をドンと叩いた。いや、違う、そうじゃない。
「ロルが大丈夫でもな、もし戦いを挑まれたらその挑んだ方がアウトなんだ」
呆れながらも、説得するように言う。
ロルがもし魔獣や冒険者やらに戦いを挑まれたとしても、それは大丈夫だろう。ロルだって『第五遊技場』の一員なのだ。
けれどももし冒険者に挑まれて、その冒険者を撃退してしまったら?そうなればオブリナント帝国、その帝都にあったギルドでの二の舞になりかねない。また謎の鳥型魔獣が現れた、なんて話になるのだ。
「頼むから、な?」
「ピヒィ……」
頼んだ結果を一言で言うならば、ひどく不満そうである。コッコの姿に誤魔化していることもあり、あまり自由に動いていないからなぁ……。
「分かった」
「ピ?」
「今日の夜、俺が同伴するという条件で自由に動いていいから」
「ピピッ! ピッヒョヒョ!」
何とも嬉しそうな鳴き声を上げながら、ロルは体を震わせた。なんだか俺、ロルに対して甘くないか?……普通か?
果たしてどっちだろうかなどと考えていれば、目の前で人の動く気配がした。そちらへと顔を向ければ、困惑した顔のリアナが突っ立っていた。
「どうした?」
意気揚々と店内へ入ったかと思えばこの表情である。何もないと考える方が難しい。
疑問に思いながら依然として困惑顔のリアナに問えば、彼女もその表情を変えることなくゆっくりと店内を指差した。
「なんだか、おかしくて……」
「おかしい? どういう風に?」
「いえ、なんと申し上げたらいいか……。とりあえず、入ってみていただけるとわかります……」
そう言ってリアナは店内とこちらを交互に見やった。これは早く入らないと先に進まない。いまだに困惑した顔のリアナの横を、こちらも困惑しながら通って店内へと入る。
入った瞬間、どうしてリアナが困惑していたのかが理解できた。
(うん、これは困惑する……)
店内に漂う空気は何とも不穏なものだった。
商品は棚などにきちんと陳列されているあたり、今日の開店を維持できないほど品が切れているというわけではない。けれども俺達以外に客はおらず、閑古鳥が鳴いている。
決して店が常日頃からこんな感じ、というわけではないのだろう。実際、俺達のあとに入ってきた人がどうにも不穏な空気を感じ取ってそっと店から出て行っていた。
殺気とか、そんな物騒な話ではない。しいて言うならば困りごとでてんてこ舞いとなっているような空気だ。
それにしてもどうしてこんな空気になっているのか。そう考えていれば店の奥のから女性店員が一人、慌てた様子でこちらへと駆け寄ってきた。
「あ、い、いらっしゃいませ!」
どうにかそう言いながら女性店員は笑顔を浮かべるも、その笑顔はどこかぎこちない。意識をどうにかこちらへと向けてはいるものの、誰がどう見たってこれは別のことへも向ける意識を割いているようだった。
それが一体何なのかは分からないが。
「何かお探しでしょうか?」
「えーっと……限定ドールを探しているのですが」
ひどく気まずそうにリアナは尋ねる。まぁ、それも納得がいく。こうも変な空気の中、何でもないですと立ち去るのもなんだし、かといって尋ねやすい空気かと言われればそうではない。
困惑した表情は治ることのないまま投げかけられたリアナの問いに、店員は一瞬表情を凍らせた。ピシリ、と擬音でも付きそうなほどである。
「ド、ドールですか? 申し訳ございませんが、現在ドールは販売できない状態でして……」
ヒクリと口の端を引くつかせながらも、女性店員はどうにか答えた。
「えっと、理由を聞いても?」
「え、っと、それ、は、ですね……あの~……」
恐る恐る聞いたリアナに対して、女性店員はひどく動揺しながら視線をあっちこっちへと移していく。尋常じゃあない。冷や汗が流れていそうだと感じたのは気のせいではないだろう。
これはこのまま引き下がった方がよいのかもしれない。目の前でいまだにどう説明しようものかと混乱している店員を見ながらそう考えていれば、奥から今度は男性が一人、こちらへと歩いてきた。
店の人間ではあるものの、女性店員と同じ立場とは思えない。四十手前の男性が着ている衣服は女性店員とは異なって職人が着ているもののように思える。それに肘まで腕まくりされた服の袖端には、何色か色が付着していた。染物とか、だろうか?
「限定ドールをお求めとの話ですが……申し訳ありません。実は現在、ドールの販売が不可の状態でして」
「もしかして、もう売り切れたとかですか?」
「いいえ……ドール自体はあるのです。けれどそのドールに着せる服に必要な素材が現状足りない状況でして……」
だからドールが作れないのです、と言った彼は再び謝罪の言葉と共に頭を深々と下げる。それに続くように女性店員も「申し訳ありません」と頭を下げた。
ふむ、こうなればもう引き下がった方がいい。手に入らないのならば、反対に迷惑になりかねない。
本来ならそうなのだ。
ちらりと横目でリアナを見やる。そこには同時にこちらへと視線を寄越すリアナの姿があった。一言も言葉を発さない。けれども尋ねてくるその瞳に、俺は仕方がないと肩を竦めて見せた。
ここで何を言おうとも、今の彼女を止めることなどできないだろう。
「すみません、もしその素材を持ってきたなら、ドールを作っていただけることは可能でしょうか?」
「え、ええ」
男性はひどく困惑した様子ながらも答える。困惑するのも当然か、客が突然そんな話を振ってきたんだ。それに任せるとしても、本当にちゃんと素材を持ってきてくれるからといった不安もあるはずだ。
「ですが簡単にその……素材を取ってくることなど……。必要なのは魔獣の素材ですよ?」
魔獣の素材ともなればよっぽどのことが無い限り前提条件として討伐がついてくる。彼は暗に、危ないから止めておけと言っていた。
けれどもそれで引く程、リアナは弱くも無ければドールにかける熱意も違う。
「何の問題もございません」
「へ?」
ぱかりと開いた男性の口から漏れたのは何とも間抜けな声だった。それと同時に目の前の彼は呆けた顔さえもこちらへと向けていた。
そんな男性に向けて、リアナはゆっくりと笑みを浮かべる。
「私達にお任せください」
「え~っと……」
ニコニコと笑顔を浮かべるリアナと、ポカンと口を開ける店員二人。もうどちらが客でどちらが店側なんて、一見しただけでは分かりようもなほど何ともおかしな空気となってしまった。
そんな光景に思わずため息を吐きたくなるも、堪えるようにロルの頭を撫でる。あぁ、柔らかい……。
一方のロルはこの空気を気にすることなく、こちらへと不思議そうな視線を送っていた。




