閑話~主達、そして勇者達~
ホラビル神聖国首都、ホリービア。
その都市にある大聖堂のある階層は、大きな窓から入ってくる陽の光で暖かく照らされていた。窓の上部はステンドグラスとなっており、光を受けて淡く輝いている。
造りとしては何ともシンプルな階層である。
階段を上った先には三日月型のロビーが広がっている。観葉植物や花はもちろんのこと、いくつかベンチが設置されていた。
床は大理石なのだろう、光沢がある。
そしてそのロビーと別の部屋を隔てているようにあるのは両開きの扉だ。金属のドアノブ、渋い色合いをしている木製の扉、どちらもが細部に華美ではないぐらいの装飾が施されている。
そんな大聖堂のある階層は今、何とも豪華な顔ぶれが揃っていた。
階段の近くでいつもの光景を繰り広げているのは天ヶ上や橘、小峰といった勇者達。その勇者の傍にはアグレナス王国第一王女のシェルマとその側仕えメイドであるミレイアが立っている。
いつも通りといっても、若干表情が暗いのはいつもならこの場にいるはずだった人物のことがあるからだろう。もう戻ることも、話すことも無いけれど、失ったという事実はさすがに彼らでも大なり小なり堪えたのだ。
所変わって窓際、そこでは樹沢とキシェルが打ち合わせをしていた。
一つ上と下の層はホラビル神聖国とアグレナス王国の両国から兵士が出て、警戒に手している。天ヶ上不在の中、打ち合わせでは樹沢やキシェル、ハーレム組の面々はこの階層の警護を任されていたのだ。
事前確認の打ち合わせを樹沢とキシェルがしている一方で、階段の手すりに背を凭れて話しているのは早瀬とキシャーンという『第一闘技場』の面々である。
その近くではエベラと岩久良の『第二図書館』の二人が話し合っていた。
扉近くのベンチには楽しそうなミヨンネと、そんな彼女に対して微笑を浮かべている深山の『第三商店街』の面々が座っている。
そして階段を上がってすぐのところには、『第四工房』の主である大ヶ島がホラビルの兵士と話し込んでいた。
勇者、王女、そして第一から第四の主といった豪華なメンバーがこの場所に集まった理由はただ一つ。これから行われる会議に参加するためだ。
誰もが思い思いのスタイルで時間を潰している中、階段の手すりに凭れていた早瀬にキシャーンはそっと口を開く。
「早瀬様、そろそろ」
「ん、時間?」
「二十分前ですが」
キシャーンに言われて時間を確認してみれば、確かに会議の開始予定時間二十分前である。
そろそろ会場入りしておこう。そう考えた早瀬は手すりから背を離し、会議場へと向かおうとする。そんな彼女の半歩後ろへとキシャーンは移動した。
「早瀬さん」
さて、会場へと向かおうか。一歩踏み出しながらそう考えていた早瀬の鼓膜を声が震わせる。瞬間、早瀬は歩き出そうとした足を止めた。
その声だけで分かる。一体誰が、どんな表情で自分の名前を呼んだのか。それが容易に想像できたために、早瀬の眉間は自然と皺を刻み始めた。
「何、大ヶ島君」
くるりと振り返りながら早瀬は自分の名前を呼んだ主、大ヶ島に問うた。
本来なら活発で笑顔を浮かべている早瀬も、今はそれとはかけ離れた表情をしている。
一方の大ヶ島はそんな早瀬の表情を見て、さらに浮かべていた笑みを深くした。
「何、じゃないですよ。今回の不祥事、どう考えているんですかねぇ。早瀬さん?」
「……相応の対処をしているわよ、今も」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたまま紡がれる大ヶ島の言葉。言葉にも含まれたいやらしさに早瀬は眉間の皺を深くするも、声を荒げることなく答えた。それでも放たれた声音は、どうしても低くなってしまっている。
以前として笑みを浮かべたままの大ヶ島に早瀬は下唇を噛む。切れて血が出そうだと、痛覚をもって訴えてきても止めることは出来ない。
相応の対処をしているという言葉は嘘ではない。
今こうしている間にも『第一闘技場』では多くの人が対処に追われている。けれどまた、目の前の大ヶ島が言うように不祥事というのも事実だ。
どうにも言い返せない状況の早瀬を前にして、大ヶ島はそこで話を切らなかった。
「不祥事が起こったのはホリービア周辺、つまり僕の所属するホラビル神聖国内ですよ」
追い討ちをかけようと言わんばかりに大ヶ島が言う。その様子は揚げ足を取ったとばかりに意気揚々としていて、否が応でも周りの視線を集め始めた。
早瀬の胸中に羞恥やら悔しさやらが滲み、渦を巻いて体を突き動かそうとする。
いつものように、いや、いつも以上に相手に向かってこの喉に溜まった言葉を突き刺したい。実際、そうしてしまえたらどれほど楽だろうかとも考える。
けれどことは自分のことだけで済むものではない。
早瀬が背負っているのは『第一闘技場』という世界であり、その世界に元からいたキシャーンを始めとする大切なメンバーだ。さらには自身の所属国でもあるオブリナント大帝国という国もある。
それを思っ耐える早瀬に、大ヶ島は嬉々として再び口を開く。
「今回のことが君、ひいてはオブリナント大帝国にとってどういうことを意味するか。理解していますよね?」
笑みを崩さないまま放たれた言葉は思いのほかフロアに響く。
ちらりと視線を向けた岩久良とエベラの顔は不快感を露にしていた。エベラにいたってはいつも冷たい視線をさらに冷えたものにしている。
遠くにいる彼らだって渋面を作っているのだ。早瀬の傍で控えていたキシャーンは顔にこそ出さないものの、唇を噛み締める。思いのほか力が強かったのか、彼の口内にじわりと鉄の味が広がった。
大ヶ島だけが笑う重苦しい空間。その中を意に介していないように歩く人影があった。
「そこまでにしたらどうかしら」
その人影――『第三商店街』の主である深山は赤い髪結い紐で纏めた黒髪を後ろに払いつつ、たしなめるように言う。笑みは浮かべているものの、どこか黒さが見える笑みだ。
そんな彼女に対して向けられる表情二種類。
一つは助かったとばかりにほっと浮かべた安堵の表情、そしてもう一つは笑みが消えて睨むものへとなった表情である。
相反する二つの表情は前者が早瀬、そして後者が大ヶ島であった。
目の前に大ヶ島がいるためか、早瀬は無言ながらも感謝を目礼で伝えてくる。さすがにそれに対して言葉で返せというのも無粋と思ったのだろう。深山は口の端に笑みを浮かべることでそれに答えた。
そして一つ瞬きをしながらいつもの黒い笑みを顔に浮かべると、大ヶ島へと向き直る。
「これから行うのは主が集って行う会議。その前にいがみ合いをするのは得策ではないと思うのだけれど?」
いつものように柔らかな物腰でやんわりとたしなめる深山。一方の大ヶ島は表情が変わることなくしかめ面のままである。
同属嫌悪なのか、それとも別の違うものかまでは分からない。けれどどうにも目の前で自身へと笑みを向けてくる深山を大ヶ島は酷く気に入らない。
それはもしかしたら、国同士が対立しているからというのもあるかも知れなかった。
そんな考えが脳裏にちらりと過ぎる。けれどさすがにこのまま黙っていてはいけない。そう思考を切り替えて、大ヶ島は口を開いた。
「……分かりました。でも、今回のことは議題にしますから。闘技場の魔獣がホリービア近辺に現れたことはもちろん、犯人は魔族の可能性があることも」
吐き捨てるようにそう言えば、それではと大ヶ島はその場を去っていく。
そして彼は背中に視線を浴びつつ、それを気にすることもなくしかめ面のまま会議場へと入っていった。
大ヶ島の開いた会議場への扉が、無造作にバタンと思いのほか大きな音を立ててしまる。
早瀬は深山と同じように大ヶ島の姿が消えるまでその様子を見送っていたが、消えると同時に小さく息を吐いた。ほぼそれと同時に、ロビーに張り詰めていた空気が緩む。
強張った肩から力が自然と抜けたのを感じつつ、早瀬は呆れたように扉のほうを見つめる深山へと近づいた。
「ありがとう」
ぼそり、と呟かれた言葉に一拍遅れて深山が反応する。
少し目を見開きながら声のした方へと振り向けば、気まずげに視線をそらしている早瀬の姿があった。
その様子に、深山は思わず小さく笑みを浮かべる。
「気にしなくてもいいのよ、別に。どうせ彼、会議の時にこれでもかと突っついてくるのだろうし」
肩を竦めながらそう言う深山に、早瀬は苦笑で返すしかない。深山の言う予想は容易に想像できるのだ。
先程のこともある、十中八九現実になるだろうと早瀬は苦笑を浮かべたまま溜息を吐いた。
けれどすぐに用件を思い出したような表情をすると、深山へと視線を向ける。
「あぁ、そうそう。一応、言っておくわ。近々貴方のほうに犯人探しの手伝いを頼むかもしれないから」
「えぇ、別に構わないわ。話ではどう聞いても人族ではないのだろうし。こちらとしてもその犯人をかばう気などさらさら無いもの」
早瀬の言葉にそう返す深山の表情は穏やかだ。
大ヶ島のように、とまではいかないものの何も条件を出さない様子は少しばかり不気味にさえ思えた。
言葉通りに捉えても良いのだろうか。それとも何か裏があるのだろうか。早瀬はそう思わず怪しんでしまう。差異はあれど深山だって腹の中で何か考えているようなタイプなのだ。怪しんでしまうのも道理と言えた。
「……そう、その時はよろしく」
そんなことを考えていたためか、少しばかり遅れた早瀬の返事に深山は笑みで答える。そしてそのまま彼女はふと思い出したように視線を会議場へと続く扉に向けた。
「そろそろ時間ね、会議場に行きましょうか」
深山の言葉に早瀬も時間を確認する。気付けば会議開始の予定時刻まであと少しといったところだ。
「ん、それじゃあまた会議で」
「えぇ」
早瀬の言葉に続いて無言でキシャーンが一礼する。そんな二人に深山は小さく手を振りながら答えた。
そんな深山に再度小さく頭を下げた後、早瀬はキシャーンを連れて会議場へと向かう。
その後ろ姿を見送っていた深山に、後ろから声がかかった。
「やぁ、深山君。お久しぶりだね」
「あら、岩久良さん。お久しぶりです」
笑顔のまま声のかけられたほうを見れば、柔和な笑みを浮かべた岩久良が立っている。後ろでは無言のまま一礼するエベラがいた。
言葉をかけてきた岩久良に深山は返事をするものの、岩久良はその返事に小さく苦笑を浮かべる。
「最初は校長先生と言ってくれていたのだがな。けじめ、というものか」
どこか哀愁を漂わせながら、岩久良はそう言う。その彼の目が遠くを見ているのは、こちらの世界に来たばかりの頃を思い出しているからだろう。
確かに当初は岩久良のことを校長先生と呼んでいた。実際、前の世界では彼だって校長であったし、頼るべき大人でもあったの。自然とそう呼ぶことに深山自身、違和感はない。
しかし今も言うのかと聞かれれば、すぐさま否と答えるだろう。先程彼の口から出た言葉がその答えであった。
「この世界『アトレナス』で私達は生きていると決めたのでしょう? 前の世界の関係をそのまま引っ張るのもどうかと思いません?」
「いやはや、耳が痛い」
ある一種のけじめだと、深山は言外に答える。その答えに岩久良は苦笑を浮かべたまま頭をぽりぽりとかいた。
彼自身、そこまで意識したことではないのだろう。けれどそのまま口は閉じられることなく、独り言のようにポツリと言葉を吐いた。
「それを『第五遊技場』の主に言ったのならば、どう彼は返すだろうね」
その言葉に一瞬、二人の間を沈黙が制する。岩久良はアグレナス王国で誘き出した彼を、深山は噂で聞いた彼――神楽嶋秋人のことを思い出した。
言われてみれば、秋人も前の世界の関係をそのまま引っ張っているといってもおかしくは無いだろう。少なくとも、天ヶ上達に対しての感情は諸々前の世界と変わっているようには思えない。
噂でしか知らない深山だが、話を聞いていればそのような印象を受けた。
そんなことを考えていた彼女だが、考え込んだ表情のまま、けれども、と言葉を紡いだ。
「彼の場合はちょっとベクトルが違うように思うけれど。多分、言ったとしても彼は態度を早々変えようとは思わないのではないかしら」
「そう、だろうな」
言った後、じっと見つめてきた深山の視線から逃れるように岩久良は視線を外しながら答える。態度を早々変えようとしない理由など、簡単に思いついたからだ。
岩久良にとっても苦い記憶であるそれは、当の本人である『第五遊技場』の主にとってはどうだったか。そんなことは、想像に難くない。
過去の自分の行動に渋面を浮かべていた岩久良と、その様子を何の表情も浮かべず見つめる早瀬。何とも気まずい空気が流れていたが、その空気を破るように大聖堂の鐘が鳴り響いた。
大きいけれど澄んだその音が止むと同時に、エベラがすっと岩久良の傍へと寄る。
「岩久良様、そろそろ」
耳打ちされたエベラの言葉に、岩久良も小さく頷き返す。
「そうだな。それじゃあ深山君、また会議で」
「えぇ」
岩久良の言葉に深山はにこやかに返した。そんな深山にそれではと言いながら岩久良もエベラを連れて会議場へと入っていく。
そんな彼らと入れ違うように、深山の従者であるミヨンネが隣へと近寄ってきた。
「深山様、そろそろ私達も行かないとあのいけ好かない第四にちくちく言われますよぉ?」
ミヨンネのその言葉に深山は思わず笑みがこぼれてしまう。その笑みを隠すことなく、深山はミヨンネの言葉に小さく頷いた。
「そうね、ミヨンネ。私達も行きましょう」
「はぁい!」
そう言って少しばかり早足で会議場へと向かう深山。元気な返事の後に、ミヨンネはその後ろをとてとてとついていく。
「岩久良さんは申し訳なさそうな顔をしていたけれど、果たして大ヶ島君はどうなのやら……」
扉を開けるミヨンネの姿を見ながらそんなことをぼそりと深山は呟く。その呟きは傍にいるミヨンネ出さえ聞き取れないほど小さく、誰も答える者はいない。
深山自身、その問いに誰かが返してくれることなど期待もしていなかった。
深山が中へと入れば丁度、岩久良が席に着いたところだった。早瀬は何やら小さくキシャーンと話し込んでいる様子だ。
そんな中、大ヶ島は待ちきれないといった様子で深山へと視線を送った。
「早くしてください。このままでは時間を押してしまう」
「えぇ、分かっているわよ」
何とも楽しそうな声で言う大ヶ島の言葉に、深山はごく自然に返す。彼がどうしてこうも楽しそうなのか、そんなことを聞くほど阿呆ではない。
深山は楽しげな大ヶ島を放っておいて自身の席に座った。
全員が席に着いたのを確認するように大ヶ島がぐるりと会議場を見回す。四人の主とその従者だけしかいない空間というのは、無駄に広さを感じさせるものであった。
確認を終えた大ヶ島は視線を正面へと戻す。そしてなんともにこやかな顔で口を開いた。
「それじゃあ、会議を始めようか」
□ □
会議が始まるちょっと前、樹沢やキシェル、ハーレム組の面々は場所を窓近くへと移して話していた。
話に花を咲かせているという様子はない。どの顔も何とも暗いものであった。
「……陽菜先輩の代わりはミレイアに頼む」
「分かりました」
誰もが暗い面持ちの中、天ヶ上の言葉にミレイアは言葉短く答える。
了承の返事を確認した天ヶ上は視線をミレイアから正面にいる樹沢へと移した。
「僕達の配置は階段付近、樹沢とキシェルが扉ということでいいのかな?」
「あぁ、それでいい」
天ヶ上の確認に樹沢は頷きながら答える。
しかしそのまま言葉を切ることなく、少し躊躇いがちに言葉を続けた。
「あと勇気、少し聞きたいことがある」
そう言いながら樹沢はちらりとハーレム組の面子である女性陣へと視線を向けた。彼女達に用事があるという様子ではなく、どちらかと言えば席を外して欲しいといった様子である。
けれど天ヶ上は目の前の樹沢に対して少しばかり首を傾げながら尋ねた。
「彼女達を見てどうしたんだ? 彼女達のことで話があるのか?」
「はぁ……、そうじゃない」
樹沢の考えを読み取るどころかそのまま口に出してしまった天ヶ上に、樹沢は思わず溜息がこぼれた。ハーレム組の女性陣はそんな樹沢に少々きつい視線を送ってくるが、こうも空気が読めないのかと呆れる樹沢にとってどうでも良いことであった。
けれどさすがにこちらも大きな声で言うのもどうか。そう考えて天ヶ上にしか聞こえないような声量で言葉を続ける。
「緋之宮先輩のことだ」
その言葉を聞いた瞬間、天ヶ上ははっきりと目を見開いた。驚きからではない、思い出したくないとでも言わんばかりの顔だ。
事実、彼にとって緋之宮の件は堪えた案件なのだろう。そのことに少しばかり申し訳なく思うも、樹沢にだって聞きたいことがあった。
ようやっと樹沢の話したいことが分かった天ヶ上はいつもの笑みを女性陣へと向ける。少しばかり違うとすれば、微かに笑みが引き攣っているところだろう。
「すまない、先に配置先に行っててくれないか?」
「え、でも……」
「真由、頼むよ」
「む……勇気が言うなら」
少しばかり食い下がった橘に天ヶ上は眉尻を下げて頼む。
そんな天ヶ上の様子に橘は勇気が言うならと、渋々持ち場である階段付近へと移動していった。それでもまだ彼女達な名残惜しいのか、ちらちらと天ヶ上のほうを振り返りながら歩いている。
その様子に苦笑を浮かべる天ヶ上に対し、樹沢は隣に立つキシェルへと言葉をかけた。
「キシェル、悪いけど天ヶ上と話したいことがあるんだ。先に扉の警護に行ってくれ」
「……分かったわ」
キシェルは一度、樹沢と天ヶ上を交互に見やる。そして静かに答えた後一人、配置された扉の前へと歩いていった。
そんな彼女の後ろ姿を見送った後、樹沢は再び天ヶ上へと向き直った。
「今回のこと、正直驚いている。それに魔獣に対しては怒りも。……天ヶ上、お前はどうだ?」
今回のことが何か、詳しく言わずとも天ヶ上でも分かる。緋之宮の件だ。そしてその瞬間、あの時見た緋之宮の最後がフラッシュバックのように目蓋の裏ちらつく。
目の前に立っていた樹沢はその刹那、天ヶ上の瞳が怖気づいたように揺れたのを見て取った。
少しばかりの沈黙の後、天ヶ上はゆっくりと口を開く。
「僕だって魔獣を討伐したいさ。先輩が殺されたんだ、悲しくないなんておもうわけがない。けれど……」
「けれど、なんだよ?」
言葉の最初はやはり天ヶ上だってそう思うだろうと、樹沢は予想していた反応に少しばかり安堵していた。けれどどこか躊躇うような素振りが見え始めると、微かに眉根を寄せる。どうにも嫌な予感がするのだ。
その予感が外れてほしくて、違うのだと天ヶ上自身の口から言って欲しくて続きを促す。
続きを促された天ヶ上は躊躇いながらも、閉じていた口を再び開いた。
「君だから正直言うよ。僕は勇者だから、そう簡単にぽんぽんと魔獣を討伐しようとしていいのかって」
「は?」
真剣な面持ちで告げられた天ヶ上の言葉に、樹沢は思わずそう返した。
目の前の男は何を言っているのだろう。自分を勇者だと言っておきながら、勇者だから魔獣を討伐してもいいものかと疑問を浮かべている。死ぬようなことはしたくないというのか。いや、もしかしたら魔獣でも事情があるからとかそんなことを考えているに違いない。
そうでも考えなければ、樹沢は目の前の男が本当に信じられなくなりそうだった。
そんな樹沢をよそに天ヶ上は喋り続ける。
「僕は勇者なんだよ。だから先輩みたいに簡単に死んでいいわけじゃあない。今回のことは残念でも、僕は勇者として死なないように控えるべきではって」
「お前、何を言っているか分かっているのか?」
樹沢は最初よりもさらに眉間の皺を深くして尋ねる。
声を荒げてしまいそうになるのをどうにか抑えながら言った生で、微かに声が震えてしまっていた。
拳を強く握り締める樹沢に天ヶ上は不思議そうな顔を向ける。思わず、その顔を殴りたくなった樹沢は痛みを感じるほど拳を握り締めた。
こうでもしなければ抑えることなど出来ない。声が震える。この腹の熱く、どろどろとした胸糞悪い何かを今すぐにでもぶちまけてしまいたい。
けれどそんなことは出来ないから。
(薄情者……!)
出所の無い感情を心の中で叫ぶことでどうにかやり過ごす。
長い付き合いだからと信じていた何かが、それでも皆の中心にいるような奴だからと期待していた感情が、否定されそうになる感覚を樹沢は覚えた。出来ることなら感じたくはなかった感覚だと、内心で毒づく。
胸中の思いをどうにか鎮めようとしている樹沢に対して、天ヶ上は不思議そうな顔を向けたまま言葉を続けた。
「当然だろう? 勇者は一種の光だぞ。それを考えれば僕という存在が、勇者というこの僕が死ぬリスクを冒すのは馬鹿らしいとは思わないか」
そんなことを呆れたような表情でのたまう天ヶ上に、樹沢は思わず一歩詰め寄る。怒りも何も感じていない天ヶ上は、そんな彼にどうしたと呑気な声をかけるだしでしかない。
理屈は分かった。確かに勇者を失うことは光を失うことかもしれない。こいつはこれでも勇者だ。まだ彼のことを勇者だと信じている人間がいる。その中で彼が死ねば、落胆する人々だって出来る。上の人間ならそれを防ぎたいと考えるだろう。
けれど、けれどもだ。
「それはあくまで上の人間の考え方だろ。勇者って名乗るなら……いや、せめて勇気、お前自身が先輩の死を思うなら――」
「悲しさは分かる。けれども何も君だけが悲しいわけじゃあない。僕だって悲しいんだから。少しは落ち着くといい」
樹沢の言葉を遮るようにして、天ヶ上は言葉を紡いだ。樹沢が怒っている今の状況が、天ヶ上からすれば緋之宮の死で怒って冷静ではないように見えるのだろう。
実際、それに近いかもしれない。もっとも怒りの対象は決して魔獣だけとは限らない。
そんなことを樹沢は内心で呟いた。
「話はこれでいいかい? もう会議も始まっているだろうし、僕は配置につくよ」
そう言って天ヶ上は肩を怒らせている樹沢の横を通り抜けようとする。瞬間、樹沢の肩にポンと天ヶ上の手が置かれた。
「今回のことは、僕もとても悲しかったよ」
それだけを言い残して、天ヶ上は去っていく。樹沢は後ろ出いつもの様子を繰り広げるハーレム組の声を聞いた。
自分も持ち場に向かわなければいけないと分かっている。けれど足が動かない。もう半ば諦めていたことのはずなのに、どうも自分は天ヶ上に甘かったようだ。少なくともこんな状態になるぐらいには、彼に対して微かな希望を見ていた。
もしかしたら緋之宮先輩の死に涙を流すかもしれない。
この後、討ち漏らした魔獣がいないか探すために、協力しようという話が出たかもしれない。
共に戦おうと、手を取り合ったかもしれない。
全てがかもしれないで終わってしまった。
「お前、あの村の襲撃から本当に変わってねぇよ……」
命を優先するのも、怖気づくのも人としては当然だ。自分だって怖いときがある。
死んでしまうのではないか、どうして戦わなければいけないのか、どうして自分が勇者なのか。
けれど泣いてはいられない。キシェルを救ったあの一件以来、樹沢は『勇者』だと名乗る決意を固めたのだ。
『勇者』は人のために恐怖を殺して、戦う。何より怖いのは、力さえ持たない人々だから。『勇者』は名乗れば無条件でそうだというものではない。力さえあればだなんて、そう思えない。
(小難しいこと考えてたら、頭痛くなってきた……)
苦笑を浮かべながら、樹沢は力を抜くように長く息を吐く。
自分は変わって、彼は変わらなかった。その事実が思いのほか大きく見えた。
(行くか……)
どこかやるせない気持ちになりながらも、樹沢は持ち場である扉のほうへと向かう。
今は、どうか今だけは取り繕うこともなく落胆の気持ちを外へと出させてほしかった。溜め込んでいてはどうにも辛いものがある。
こんな自分を見れば、キシェルはどんな表情をするだろうか。つっけんどんにしながらも心配そうにこちらを見る様子が容易に想像でき、自然と苦笑が漏れてしまう。
樹沢は苦笑を浮かべながら、とぼとぼと持ち場へと向かって歩いていった。




