空のない町
真っ暗な町には、空がありません。
家も車も人もあります、枯れているけれど木や草だってあります。
それなのに、空だけがありませんでした。
世界は今、夜明けです。でもここには、空が無いので朝も、ありません。
それは少し昔のことだけど。真っ黒な煙に、空はずっと遠くへ押しやられてしまいました。
雨も風も、今まで無色透明だったもの全てが、今では墨のような色をしています。
煙突からのぼる煙が、今も少しずつ、空を町から引き離していきます。
この町には空が大好きな女の子がいました。
鬱々とした暗闇の中で、枯れ木が騒々と薙ぐと、女の子の心も粟立つような気がしました。
このまま黒い煙がどこかへ吹き飛ばされ、空が見えるんじゃないか、そう思います。
女の子は煙を見上げて呟きました。
「空、戻ってきてくれんかな……もう空はみんなのこと、嫌いになっちゃたかな」
私は好きなのに、と女の子は思います。その後、自分が好きなのが空なのか皆なのか分からなくなって、首をかしげました。
空は遠くにいます。皆は近くにいます。
空は、女の子に優しく接してくれません。皆も、女の子に優しく接してくれません。
幼い女の子には理由は分からなかったけれど。
自分は邪魔なんだな、と、ただそれだけは分かっていました。
(このけむり、隣の町に行けばなくなってるかな?)
首を垂直に戻して、女の子は目の前に続く道を見ました。隣の町は、ずっと遠くです。
「えぇと、もし歩いて行くんなら、いっぱい寝ないといけない長さかな……私の体で、そんなとこまで行けるかな?」
自分の足を見下ろして、呟きます。
「でも、そこに空があるなら、私行ける」
親も友達も、味方もいない女の子は、空が大好きでした。
たとえ自分が空に嫌われているとしても。空が、大好きでした。
町の誰にも別れを言わず、女の子は歩き出しました。
空を求めて。
真っ黒な地面を踏んで進みます。やっぱり真っ黒な家には、黄色い灯りが満ちていました。
その家からも、その隣の家からも黒い煙が出ていました。
「嫌いだな……私、このけむり、嫌いだな」
嫌い、と言ってから、女の子は「あっ」と口を噤みました。
そして、立ち止まります。
そういえば、いつだか自分もその言葉を言われたことがあったからです。
そのとき女の子は、とても悲しくなりました。ひどく、ひどく傷つきました。
「私たちは貴方のような、古くて役に立たない機械を好まない。大嫌いよ」
好まない。嫌い。それは女の子も同じでした。
(私も、人の形をしたものは、あんま好まんかったし、嫌いだったっけ)
そして、自分も人の形だけどなぁ、と思い出します。けれどそれはなぜか、嫌ではなくて。
女の子はふいに目が熱くなるのを感じて、目元を手で触ってみました。
「濡れてる……どうしたんかな? 私、故障したかな?」
手で顔を撫でると、女の子はまた歩き出しました。それはとてもゆっくりとしていました。
ジャラジャラ。ジャラジャラ。
歩みに合わせて、腕に巻かれた番号札が音をたてます。
413番。
「あーあ、どうしてみんな、私んこと嫌うかな? 私、悪いことなんて、なーんもしていないってのに」
この町では女の子を誰も受け入れてくれませんでした。
ずいぶん長い時間歩いて、女の子は急に体から力が抜け落ちるのを感じました。次に、足元が滲んでいきます。――最後に、その場に崩れ落ちました。
木の実のように、ころんと。
(あれぇ? まだいっぱい歩かないとなのに……もう休まなくちゃなのかな?)
瞼が重くなり、息をするのも大変になって。
女の子は、そっと眠りにつきました。
安らかで、この間だけは誰も彼もみんな仲間のような気がして。
もう起きなくてもいいな、と女の子は思いました。
(それでも、起きたいって、思うのは、きっと、空があるから、ね)
すやすやと、長く短い休憩の時間。
空も夜もない町で。
女の子は眠ります。
そして、世界が昼になった頃、女の子は目を覚ましました。
「ふぁ――――」
変な姿勢で寝たためか、足が鬱血していて、じんじんと痺れました。
けれど、女の子は立ち上がります。空が隣の町にあるかもしれないから。
とくに変色が目立った右足を引きずって、ひたすら前進します。
町は大きく、どんなに歩いても、似たような風景が続くだけです。それでも、女の子は歩きました。隣町を、空を、目指して。
町の終わりが近づくにつれて、段々空気が冷たくなります。
世界はもう、夜になります。
そんなことも気にならないくらい、女の子は一生懸命でした。半ば無意識的に足を動かし続けます。
ようやく訪れた、町の境界線。
女の子は微笑みながら溜め息を吐くと、そっと足を隣の町へ伸ばしました。
その時。
ぱちっとなにかが弾ける音がして、女の子はその場に蹲りました。
「足……痛い。ここから出ようとすると、足が痛くなる」
女の子は恨めしそうに隣町との境界線を睨みます。そして空を見上げます。
けれど隣の町にも、
「なんで…………なんで、空がないの」
黒い煙しかありませんでした。
ばっと女の子は立ち上がると、前も後ろも確かめずに走り出しました。
腕をばたばたと振り、もう何もかも嫌になってしまったから。
(風になれたら、いいなぁ。そしたら、いつか空を見つけるんだ)
目を瞑りながら走ったせいか、足が縺れて転びそうになります。けれど、すぐに体勢を整えると、家や車や人を掻き分けるようにして走り続けました。
誰かが、邪魔な子ね、と女の子を忌々しげに見つめて吐き捨てます。
誰かが、やだちょっと! 私に近づかないで、と女の子を追い払います。
あぁ、私の居場所はここじゃないんだ、と改めて女の子は感じました。
ここは私を、受け入れてくれるような優しいところではない、と。
そして、私は邪魔でいらない物なんだと。
また目が熱くなります。
また足が縺れます。
ふいに爪先へなにか硬いものが触れ、女の子は前のめりに転びました。
手が地面に当たり、小さく跳ね返ります。女の子は、そのときになってようやく自分が石に躓いて転んだんだなと分かりました。
再び掌が地面と密着し、軽い痛み。目の前の、やはり枯れている草が柔らかに揺れます。膝が土を滑るようにして擦れ、感じる熱さ。まるで電気が走ったような、鋭い痛みでした。引き伸ばされた時間の中、観察だけがいつもの数倍の速度で行われていきます。
暗闇に引きこまれていくような感覚の後、女の子は今更だけど
「うきゃっ!」
小さな悲鳴を上げました。
手足に残る痛みに呻きながら、女の子は膝を折って座ります。
「血が…………空の色……私の血は、空なのね? ねぇ、そうだよね! 」
真っ黒な世界、膝から流れ落ちる血は青く。
真っ黒な世界、目から零れ落ちる涙も青く。
「私の中に空があるの? だったら出てきてよ! 全部、全部、全部ぅぅう! 私は、私は血なんていらない! 血なんてなくなってもいいから、空が欲しいよぉぉおおおおおぉぉ!」
空のない町に、女の子の悲痛な泣き声が響きました。
隣の町では夜が明け、朝が、青空のある朝が、始まりました。