もうありえない昨日のこと
【ベットがいなくなる前の話。グループの日常。】
冬だった。
彼はまだ俺の隣にいて、一緒に研究したり、飯を食ったりしてた。
それが、当たり前だったから
どれだけ大切な事だったのか、今になってやっと分かったんだ。
「部長!」
チップがいつものように遺伝子部の部室で顕微鏡を覗いていると、彼が慌てた様子で入ってきた。
「おー、どうしたぁベット。」
「どうしたじゃないですよ!アンタ、この間のレポート、兄さんに見せたでしょう!」
「あー、うん。見せたぁ。」
間延びしたチップの声に、ベットは怒る気力を無くしたらしい。
溜息を吐くと、窓際にあったソファにどっかりと腰を下ろした。
「なんだ、シズに何か言われたのか?」
「何か言われた訳じゃないんですけどね。」
チップは顕微鏡を片付け、ベットの隣に座った。
「兄さんはまだ、俺に負い目を感じてるみたいで…謝られたんです。そんな研究をさせてすまないって。」
ベットは顔の前で手を組むと、祈るように目を閉じた。
「兄さんは、何も悪くない…悪いのは親父じゃないか。どうして兄さんが悩む必要があるんだ。」
「お前とシズが一卵性双生児だったから、遺伝子学の実験台にしたんだっけ。」
「マウスみたいなものなんでしょう。親父にとって、俺達兄弟は。」
チップは眼鏡をかけて、テーブルに置いてあったレポートを手に取った。
「『遺伝子の保存と、データ化におけるハードの改良』…お前はやっぱり天才だ、ベット。こんな事、俺には思いつかない。」
「天才じゃないですよ。」
ベットはチップからレポートを取り上げると、床に放り投げた。
「教育カリキュラム通りに育った結果です。」
「俺もそういう風に育てられたかったなぁ。」
「冗談。」
ベットは眉を寄せた。
「つまらない人生です。学問と武術だけを徹底的にたたき込まれて…まぁ、兄さんは、それプラス宗教でしたが。」
窓から射し込んでくる光に目を細めながら、ベットは煙草に火を付けた。
「うまく育った傑作が兄さんで、失敗作が俺だった。だから俺はジョーカー家から戸籍を外された。そんだけの話ですよ。」
深く吸い込んだ煙を、ゆっくりと吐き出す。18歳には見えない仕草に、チップは思わず笑ってしまった。
「…何笑ってんスか。」
「いや…。っていうか、煙草吸っちゃ駄目だろぉ。成長の妨げになるぞ。」
「これ以上、どう成長しろって言うんですか。怪獣になっちゃいますよ、怪獣。」
「今でも充分怪獣っぽいぞ。」
ひでぇ、とか何とか言うベットから煙草を取り上げて、灰皿に押し付けた。
白い煙が、揺れながら上がっていく。
「なぁ、ベット。」
青い瞳と、金色の髪の男。
「今度、ゆっくり話そう。」
チップがそう言うと、男は精悍な顔つきを和らげた。
確かに、彼はいた。
ふざけ合ったり、笑い合ったり。
同じ空間で、息をしていた。
取り返しの付かない事をしてしまった。
俺はまだ、彼とゆっくり話すという、約束を果たしてない。
シズ。
どうしてベットは、お前の弟なんかに生まれてしまったんだろうな。