田中、異世界を味わう。
町が、近づいてくる。
最初は丘の向こうに滲む程度だった輪郭が、馬車が進むにつれてはっきりとした形をなしていく。石造りの建物が密集し、その外縁をぐるりと低い城壁が囲んでいる。城壁の所々に旗が立ち、風に揺れていた。城門の前には人と荷馬車が列をなしており、街道がそのまま門へと吸い込まれていく。
「ルディアだ」
ガロンがもう一度言った。一度目は遠くから見たときの言葉だったが、今度は到着を告げる声音だった。
田中は荷台の端に腰かけたまま、目を細めた。
城壁。城門。石畳の街道。旗。
「……本物だ」
思わず呟いた。なろうで何千回と読んできた「異世界の街への到着」が、今、目の前にある。文字ではなく、目で見えて、風で感じて、馬車の振動として体に伝わっている。
「あんた、顔がゆるんでるぞ」
テッドが振り返って言った。
「そうですか」
「旅人が街に着いたくらいで、そんな顔するか普通」
「田舎育ちなんで」
「……まあ、そういうことにしておいてやる」
城門での手続きは思ったより早かった。ガロンたちは顔なじみらしく、門番と二言三言交わしただけで通してもらえた。田中についても「連れだ」と一言言うだけで済んだ。
石畳の上を馬車が進む。蹄の音が変わった。草道の上で聞いていた柔らかい音とは違う、硬く響く音だ。
街の中は、にぎやかだった。
道の両側に石造りの建物が並び、一階部分が店になっているものも多い。行き交う人の数は多く、荷を担いだ男、買い物籠を提げた女、走り回る子供、座って話し込む老人——いろんな人がいる。服装も様々で、田中が着ているような旅装束から、少し上等そうな布地の服まで混在していた。
「ここで降ろしてもらえますか」
田中は馬車が広い通りに差し掛かったところで声をかけた。
ガロンが馬を止めてくれた。田中は荷台から地面に降りた。石畳の感触が、靴底を通じて伝わる。
「ありがとうございました」田中はガロン、テッド、荷台でまだ眠そうにしているルーの三人に頭を下げた。「馬車に乗せてもらったこと、それからいろいろ教えてもらったこと、本当に助かりました」
「礼を言うのはこっちの方だ」ガロンは言った。「あの車輪、自分たちだけじゃどうにもならなかった」
「そうそう。礼はおあいこだな」テッドが言い、それからふと思い出したように続けた。「そうだ、仕事を探すなら商人ギルドに行ってみるといい。登録だけならタダだし、仕事の話も転がってる」
「冒険者ギルドじゃなくて、ですか」
「冒険者ギルドは戦闘系の仕事が多い。あんたみたいにスキルで何かを作ったり直したりするタイプなら、商人ギルドの方が合ってる。地図師みたいな仕事もそっちに来る」
地図師、という言葉に田中は少し反応した。
「商人ギルドは中央通りをまっすぐ行ったところにある。でかい建物だからすぐわかる」
「ありがとうございます。行ってみます」
「達者でな」
ガロンが手を上げ、馬車は再び動き出した。蹄の音が遠ざかっていく。
田中はその背中を見送り、それから改めて街を見渡した。
ルディアの街。田中颯太、異世界最初の街。
「さて」
まずは商人ギルドに行こう——と、思ったところで、鼻が動いた。
何かが、香る。
肉を焼く匂いだ。しかも、ただ焼いた匂いではない。何か甘みのある、スパイスのような、かといって知っているスパイスとも違う——とにかく、腹の底を刺激してくる匂いだった。
田中の胃が、正直に鳴った。
そういえば、異世界に来てから何も食べていない。女神の白い空間には食べ物はなかったし、馬車の道中も水を一口もらっただけだ。
「……情報収集も兼ねて」
田中は呟き、香りの方向に足を向けた。
少し歩くと、通りが急に広くなった。
広場だった。
石畳の広い空間に、色とりどりの布を張った出店がずらりと並んでいる。市場だ。食べ物の屋台だけでなく、古着を並べた店、剣や短刀を並べた武器商、野菜や果物を山積みにした農産物の店、乾燥した草束や粉末を小瓶に詰めた薬草店らしきものまで、ありとあらゆる品物が並んでいた。
客も多い。声が飛び交い、交渉の声と笑い声が入り混じる。
「すごい」
田中は素直に圧倒された。
活気がある。においがある。音がある。なろうの文章で読んできた「異世界の市場」は何度も何度も目にしてきたが、実際にその中に立つのは全然違う。五感全部で感じる情報量が、比較にならない。
香りの元を探しながら市場の端を歩いていくと、すぐに見つかった。
串に刺さった肉を炭火で焼いている屋台だ。金属製の網の上に、こんがりと焼き色のついた肉串が並んでいる。その下で炭が赤く輝き、何かのたれを塗るたびに煙が立ち上がり、あの匂いが広がっていく。
店番は恰幅のいい中年の女性で、手際よく串をひっくり返しながら客に愛想よく声をかけていた。
「一本ください」
田中は銅貨を一枚取り出した。値段がわからないまま声をかけたが、女性は銅貨を受け取って串を一本手渡してくれたので、どうやら相場通りだったらしい。
串を受け取る。
肉は濃い焼き色がついていて、表面がわずかに光っている。たれが焦げた部分は黒く、そこから香ばしい匂いが直接鼻に来る。
田中は一口かじった。
「……」
肉の繊維がほぐれ、口の中に味が広がる。
なんだこれ、と思った。
甘い。でも砂糖の甘さではない。何か、果実を煮詰めたような深みのある甘み。その下に、鼻に抜ける独特の香辛料の風味。肉自体の味も、豚や鶏や牛とは違う。もっと締まっていて、かみしめるたびに旨みが出てくる。
どれも知っている味に似ているが、そのどれとも違う。
「うまい」
思わず声に出た。隣に並んで肉串を食べていたおじさんが、田中をちらりと見た。
「旅人か?」おじさんが気さくに言った。「初めてか、ここの串」
「はい。この肉、何の肉ですか」
「ウルガの肉だよ。この辺の草原に群れで住んでる獣だ。癖がないから食いやすいだろ」
ウルガ。田中は頭の中に書き留めた。草原に群れで住む獣。馬車から見えた草原で、そういえば遠くに何か動くものが見えた気もする。あれだったのかもしれない。
「たれが美味しいです。何が入ってるんですか」
「企業秘密だよ」と女性店主が笑いながら言った。「まあ、ルディア産のハニーベリーが入ってるくらいは教えてやる」
ハニーベリー。覚えた。
田中は二口、三口とかじり続けた。食べながら、周囲を観察する。市場の客層、並んでいる品物の種類、値段のつけ方の雰囲気——全部が情報だ。
串を食べ終えると、田中は市場の中をゆっくりと歩いた。
武器屋の前で足を止め、並んでいる剣を眺めた。短剣から長剣まで種類があり、値段はというと木札に数字が書かれている。読める、とわかって少し安心した。文字もリーナが補正をかけてくれていたらしい。
薬草店の前では、並んでいる小瓶の中身を興味深く眺めた。ラベルに書かれた名前は読めるが、それが何なのかはさっぱりわからないものが多い。店主の老人がじろりとこちらを見たので、田中は会釈をして足を進めた。
古着屋では、自分が着ている服と同じような旅装束が何着か並んでいるのを見た。リーナが用意してくれた服のクオリティは、この市場で売られているものと比べても遜色ない。むしろ少し上等な部類に入りそうだ。
「本当に気が利く」
田中はもう一度呟いた。
ひとしきり市場を歩き回ったところで、田中は足を止めた。
楽しかった。素直にそう思う。情報収集と言いながら肉串を食べ、特に目的もなくうろうろしただけだが、それでも得たものは多い。この街の空気感、物の値段の感覚、人々の様子——文字で読んだ異世界の描写が、少しずつ肉付きを持ち始めている感じがした。
ただ、このままでいられるほど時間と金に余裕があるわけではない。
田中は中央通りの方角を確認した。
商人ギルド。テッドが教えてくれた場所。
地図師の仕事が転がっているかもしれない場所。
「行くか」
田中は背筋を伸ばし、市場の喧騒を背中に感じながら歩き出した。




