田中、初めての力。
光が消えた。
瞬きをする。視界がじわりと開けていく。
最初に感じたのは、風だった。
ほんのりと草の匂いを含んだ、生ぬるい風。次に感じたのは、足の裏の感触。平らで固い白い床の代わりに、柔らかく不均一な何かを踏んでいる。
田中颯太はゆっくりと目を開けた。
どこまでも、草原だった。
背の低い草が一面に広がり、遠くになだらかな丘が連なっている。空は高く、薄い青。雲がゆっくりと流れていく。日本の空とよく似ているが、どこか違う。光の質、とでも言えばいいのか——太陽の位置が少しずれているような、見慣れない影の落ち方をしていた。
「……来た」
田中は小さく呟いた。
実感が、遅れてやってきた。
ここは異世界だ。愛沢まゆに半ば強制的に転移させられ、女神リーナに授かり物をもらい、そして今、田中颯太は本当に異世界の大地に立っている。
「来てしまった」
もう一度呟いた。
呆然と立ち尽くすこと数秒。胸に抱えた革装丁の本が、ずっしりと重い。田中は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「よし」
声に出すと、少し落ち着いた。なろうで読んできた主人公たちも、大体こういう場面では一度落ち着いて状況確認をする。田中はそれを知っていた。
改めて周囲を見渡す。
草原。丘。空。
人の気配はない。建物も見えない。道らしきものも、少なくとも今立っている場所からは見当たらない。
「……ど真ん中に転移させないでほしかったな、リーナさん」
誰に言うでもなく田中は呟いたが、リーナはここにはいない。まゆも当然いない。いるのは田中ひとりと、手の中の本だけだ。
ふと、田中は自分の体を見下ろした。
学校の制服ではなかった。
くすんだ茶色の厚手のシャツ。丈夫そうな布地のズボン。腰には細いベルト。足元は革底のしっかりした旅靴で、上履きの痕跡はどこにもない。肩には小ぶりな革のバッグまでかかっていた。中を確認すると、簡単な旅道具と、小袋に入った硬貨らしきものまで入っている。
どこからどう見ても、旅人の格好だった。
「……気が利くな、リーナさん」
田中は思わず笑った。制服のまま異世界を歩き回ることの不自然さは、田中も転移前から少し気にはなっていた。聞く機会がなかっただけで。
服だけではない。本を手に取ると、バッグにちょうどいい大きさの内ポケットがあることにも気づいた。まるで最初からそのために作られたような造りだ。
「……本当に気が利く」
田中は本を内ポケットに収め、バッグを軽く叩いた。
転移前に何も言わなかったのは、わざとだろうか。それとも当然のことすぎて説明するまでもなかったのか。どちらにせよ、リーナへの好感度が少し上がった気がした。
田中は本を見下ろした。
革の表紙。抽象的な紋様。ページを開けば、これまでに読んできた作品の主人公たちの力が選べる——リーナはそう言っていた。同時に使えるのは二作品分。入れ替え制。
「とりあえず、今は使わなくていいか」
田中は本を小脇に抱え直した。リーナの説明によれば、降り立った場所はモンスターの発見が比較的少ない安全な場所だという。ならば今すぐ戦闘能力が必要なわけではない。
まず動くことだ。
「道を探そう」
田中はそう決めて、歩き始めた。
どの方向に進むべきかは正直わからない。ただ、草原で立ち止まっていても何も始まらない。低い丘の方角に向かって歩けば、高い場所から周囲が見渡せるかもしれない。
足元の草を踏みしめながら歩く。学校の上履きのままだったことに今さら気づいたが、今更どうしようもない。
歩きながら、田中は考えた。
この世界のことを、まず知らなければいけない。言語は通じている——リーナとの会話が成立していたから、おそらく補正がかかっているのだろう。これもなろうのテンプレだ。しかし、通貨、常識、この国の仕組み。情報がなさすぎる。
「情報収集。まずそこから」
呟きながら歩くこと十数分。丘の手前まで来たところで、田中は足を止めた。
草原の先、なだらかな斜面を越えたところに、細い線が見えた。
道だ。
土が踏み固められた、幅のある道。馬車が通れるくらいの広さがある。田中は少し速足になった。道があるということは、人がいる可能性がある。町への道筋がわかるかもしれない。
斜面を下り、道に近づいていくと——声が聞こえた。
複数の人の声だ。焦ったような、困ったような、少し荒っぽい声音。
田中は慎重に近づいた。
道の上に、馬車が止まっていた。
二頭立ての大きな荷馬車で、荷台には布をかけた荷物が積み上がっている。が、馬車は傾いていた。よく見ると、左後ろの車輪が割れている。木製の車輪のスポーク部分が根元からへし折れ、車軸が地面に刺さるようにして止まっていた。
馬車の周りに三人の男がいた。一人は頭を抱えて車輪を眺めている年配の男、一人は腕を組んで唸っている中年の男、もう一人は荷台の荷物をずらそうとしているが一人では持て余しているらしい若い男だ。三人ともくたびれた旅装束で、商人か行商人といった風体だった。
「直しようがねえな、こりゃ」
中年の男が唸った。
「予備の車輪は積んでなかったんですか」
若い男が言う。
「積んでたら苦労しねえ。次の町まではまだあるぞ、どうする」
「荷物を置いていくわけにも……」
年配の男がため息をついた。
田中は道の端で立ち止まり、その光景を眺めていた。
車輪が壊れた馬車。困っている商人たち。
そして田中の手の中には、あらゆる作品の主人公の力が詰まった本がある。
「……これ、出番じゃないか」
田中は小声で言い、本を開いた。
白いページに、文字が浮かんでいる。縦書きの細い文字で、田中がこれまでに読んできた作品のタイトルがずらりと並んでいた。膨大な数だ。ページをめくるたびに新しいタイトルが現れる。
「ものづくり……ものづくり……」
田中は素早く目で追った。
あった。
『ものづくりスキルで無双する異世界開発記』。
田中がずっと追いかけている作品だ。主人公・イツキが持つのは、あらゆるものを設計・製造・修繕できる「創造スキル」。最新刊時点では、壊れた機械どころか城壁すら一から建てられるレベルまで成長している。
車輪の修繕など、朝飯前のはずだ。
田中はそのタイトルに指を触れた。
ページが淡く光る。じわりと、手のひらから何かが浸み込んでくるような感覚があった。温かくも冷たくもない、ただ「満ちていく」感じ。
数秒後、感覚が落ち着いた。
田中は手のひらを見た。何も変わっていない。ただ、頭の中に何かが増えている。知識というか、感覚というか——材料の性質、構造の理屈、修繕の手順。それらが、まるで最初からそこにあったかのように収まっていた。
「……なるほど。こういう感じか」
田中は本を閉じ、商人たちのもとへ歩いて行った。
「あの」
声をかけると、三人が一斉にこちらを向いた。
「何だ、あんた」中年の男が言った。警戒心というより、純粋に驚いた顔だ。「こんなところで何してる」
「通りかかったんです」田中は言った。「車輪、壊れてますよね。直せるかもしれないので、見てもいいですか」
三人が顔を見合わせた。
「直せるって……あんた、職人か何かか」
「まあ、少し」
嘘ではない、と田中は思った。少なくとも今この瞬間は、イツキの技術が田中の中に宿っている。
年配の男が「頼む」と言うように頭を下げた。
田中は車輪の前にしゃがみ込んだ。割れた木のスポークを手で触れる。破断面を見る——乾燥による脆化と、路面からの衝撃が重なったものだ。スポーク自体の材質はナラに近い広葉樹。繊維の方向からして、縦方向の圧力には強いが横からの衝撃には弱かった。
田中の頭の中で、修繕の手順が自然に組み上がっていった。
周囲を少し見渡すと、道の脇の茂みに使えそうな枝がある。太さ、強度、どれも悪くない。田中は立ち上がり、茂みから適当な枝を数本拾ってきた。それを手に持ち、目を閉じる。
スキルを、使う。
感覚としては、ただ「そうなるのが当然だ」と思うだけだった。手の中の枝が、適切な形に、適切な強度で削れていく。繊維が締まり、断面が滑らかになる。まるで何年もかけて職人が仕上げたような精度で、スポークの代替品が出来上がっていく。
三人の商人が、息を呑んでいた。
「な……何をしたんだ、今」
若い男が目を丸くしている。
「スキルです」田中はそれだけ言い、車輪の修繕に取り掛かった。
折れたスポークを外し、新しいものをはめ込む。車軸との噛み合わせを調整する。車輪全体の歪みを確かめながら、少しずつ形を整えていく。
作業は、思ったより早く終わった。
田中が立ち上がり、「終わりました」と言うと、三人はしばらく車輪を眺め、おそるおそる馬を引いて馬車を動かしてみた。
がたり、と一度揺れて、馬車は普通に動いた。
「……直った」
年配の男がぼそりと言った。
「直りましたね」
「すごい。本当に直った」
若い男が声を上げた。中年の男は田中を見て、それから車輪を見て、また田中を見た。
「あんた、ただの旅人じゃないな」
「旅人ですよ、一応」田中は答えた。「たまたま通りかかっただけです」
「礼を言わないといけないな」年配の男が改めて頭を下げた。「助かった。本当に助かった。ところで——」
男は首をかしげた。
「こんなところで何してたんだ。近くに村はないぞ」
田中は一瞬答えに詰まった。
異世界転移してきました、とは言えない。言えるわけがない。田中はさっきから考えていたことを口にした。
「田舎から出てきたんです。こっちの方向に町があると聞いて歩いてたんですが、思ったより距離があって。正直、足が痛くなってきたところでした」
三人が顔を見合わせた。
「田舎ってどのあたりだ?」中年の男が聞く。
「……かなり遠い方です」
田中はできる限り曖昧に答えた。具体的な地名がまだ一つもわからない以上、下手なことは言えない。
男たちは少し考えるような顔をした後、年配の男が口を開いた。
「俺たちはこれからルディアの町に向かう。乗っていくか? これだけ助けてもらったんだ、それくらいはしてやれる」
ルディアの町。
田中はその名前を頭に刻んだ。この世界で最初に覚えた固有名詞だ。
「……いいんですか」
「構わんよ。狭いが、荷台の端に座れるくらいの隙間はある」
中年の男がぶっきらぼうに言ったが、その口元は少し緩んでいた。
田中は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。お世話になります」
荷台に乗り込みながら、田中は胸の中で本をそっと確かめた。革の感触。ずっしりとした重さ。
第一の能力、初使用。結果は、上々だ。
馬車がゆっくりと動き出す。草原の道を、蹄の音を立てながら進んでいく。田中は揺れる荷台の端に腰かけ、流れていく景色を眺めた。
青い空。緑の丘。見たことのない形の雲。
異世界だ。
本で何千回と読んできた、「異世界」が、今、目の前にある。
田中颯太の異世界生活は、こうして静かに、しかし確かに始まった。




