田中、女神に合う。
「——つまりですね、愛沢さん、この作品の真の面白さというのは、単なるチート無双じゃなくて、主人公が異世界の『常識』を根底からひっくり返していくカタルシスにあるんですよ。わかりますか、このニュアンス」
「うん、わかった」
「わかってないでしょう。その相槌、三回連続で同じトーンでしたよ」
夜の住宅街。街灯がぽつりぽつりと並ぶ歩道を、田中颯太は愛沢まゆの隣を歩いていた。
といっても、もうとっくにまゆの家の前には着いている。玄関先の小さなポーチの前で、田中はもう十五分ほど喋り続けていた。
愛沢まゆは田中と同じクラスの女子で、今日は学校帰りにたまたま方向が同じになり、ついでに送ってきた——というのが表向きの話で、実際のところ田中には下心のひとつもなく、ただ「話し相手がいる」というだけで異世界ラノベ論を延々と展開してしまうのだった。
まゆはどちらかといえば聞き上手な質で、「へえ」とか「そうなんだ」とか言いながらそれなりに付き合ってくれる。田中にとって、それで十分だった。
「まあ要するに——」
田中がそう続けようとして、ふと横を向いた。
いなかった。
「……え」
確かにさっきまでそこにいた。街灯の橙色の光の中で、少し眠そうな目をしてこちらを見ていたはずの愛沢まゆが、跡形もなく消えている。
家の扉は閉まっている。どこかに歩いていった気配もない。
田中は左右を見渡し、後ろを振り返り、空を見上げ——空を見上げた。
「いや、空にはいないか」
自分でツッコみながら、田中は急速に焦り始めた。スマートフォンを取り出し、共通の友人である悠仁の番号を押す。呼び出し音が二回鳴ったところで、
「よいしょっと」
後ろから声がした。
田中は通話をキャンセルし、振り返った。
そこには愛沢まゆがいた。さっきと何も変わらないセーラー服姿のまゆが、何事もなかったような顔で立っている。
ただ、その隣に、見知らぬ少女がいた。
年齢は中学生くらいだろうか。長い紺色の髪が夜風に揺れている。肌は紙のように白く、瞳は暗闇の中でも光を帯びているように見えた。服装は、なんといえばいいのか——現代の服ではなかった。
「あの、愛沢さん」田中は努めて平静に言った。「今、どこ行ってたんですか」
「ちょっとそこまで」
「『ちょっとそこまで』で瞬間移動するんですか」
「まあ、そんな感じ」
まゆはどこか気まずそうに笑った。隣の紺色の髪の少女は、田中をじっと観察するように見つめている。田中もじっと見つめ返した。
沈黙が数秒続いた。
「……愛沢さん」
「なに」
「一個だけ聞いていいですか」
「なに」
田中は息を吸った。
「異世界でございますか」
まゆは玄関の扉に手をかけていた。その手が、止まった。
ゆっくりと、まゆは振り返る。街灯の光の中で、その表情はどこか不思議なものを含んでいた。驚き、でも呆れてもいない。むしろ、少し楽しそうな——
「田中くんさ」
まゆは静かに言った。
「異世界、行きたい?」
その瞬間だった。
愛沢まゆの体が、光に包まれた。
じわりと広がる金色の輝きは、街灯の光でも月の光でもなく、もっと根源的な何かのように見えた。田中は目を細める。光が収まったとき、そこに立っていたのはもうセーラー服のまゆではなかった。
白を基調とした、裾に金糸の刺繍が施された長衣。頭には細い冠のような飾り。異世界ものの小説で何度も読んできた、あの「聖女」の格好そのものだった。
「な——」
「女神に会ったら、よろしくねー」
まゆは微笑みながら言った。その笑顔は、どこまでも日常的で、まるでコンビニへの使いを頼むような口調だった。
「ちょ、待ってください愛沢さん、僕まだ何も——」
了承していない。
田中がそう言い終わる前に、光が来た。
今度は田中自身を包む光だった。温かくも冷たくもない、不思議な光。体が浮くような、でも沈むような——感覚を表す言葉が見つからないまま、田中の意識は夜の住宅街から、どこか遠い場所へと引っ張られていった。
最後に聞こえたのは、紺色の髪の少女のつぶやきだった気がした。
「まゆ様も、相変わらずですね」
目を覚ますと、知らない天井があった。
「……知らない天井だ」
田中は思わず呟いた。
ゆっくりと体を起こす。どこも痛くない。頭も、不思議なほどはっきりしている。
辺りを見渡した。
真っ白な空間だった。壁も床も天井も、白というよりは「白さしかない」とでも言うべき均質な何かで出来ていて、遠近感がつかみにくい。ただ唯一、少し先に木製の机と椅子があり、そこに人が座っていた。
女性だった。
年齢は、わからない。二十代にも見えるし、もっと上にも見える。肩まである銀色の髪。細い指が書類の上を動いている。顔立ちは整いすぎていて、どこか現実味がなかった。
田中は立ち上がり、その人物のもとへ歩いて行った。
一歩、二歩、三歩。
足音がしない。白い床を踏んでいるはずなのに、何も聞こえない。
「あの、すみません」
その一言で、女性の動きが止まった。
ぴくり、と肩が小さく揺れた。書類から顔を上げ、田中を見る。その表情には、驚きがあった。ただし——田中が期待するような「異世界の住人が勇者様を出迎える」系の驚きではなく、「宅配便が来たと思ったら違う番号だった」系の素朴な驚きだった。
「あなたは……」
「田中です。田中颯太。高校二年生です」
「……田中、さん」
「愛沢まゆさんの知り合いです」
女性の表情が、すっと柔らかくなった。
「ああ」
一言でその表情に、すべてが収まっていくような変化があった。彼女は書類を机の上に置き、田中をまっすぐに見た。
「まゆさんのお友達ですか。——ということは、彼女、権利を使ったんですね」
「権利、ですか」
「ええ」
女神——田中はもうそう呼ぶことにした——は、静かに立ち上がった。背が高い。
「まゆさんには、私から少しお願いをしたことがあって。そのお礼として、いつでも異世界に来られる権利をお渡ししたんです。その権利を、あなたに使ったようですね」
「……俺に、ですか」
「驚きましたか?」
「いや、なんとなく想像はしてました」
女神は少し目を丸くした。
「小説で読んだことがあったので」田中は言った。「このパターン。割とあります、なろうに」
数秒の間があった後、女神は静かに笑った。声を出さない、ほんの少しの微笑みだった。
「では、説明がしやすそうですね」
そう言って女神は田中の前に、一冊の本を出した。
いや、正確には「出した」という言葉が適切かどうかわからない。何もなかった空間に、突然、革装丁の古い本が存在していた。
「これがあなたへの授かり物です」
田中は本を受け取った。ずっしりとした重さがある。表紙には文字もなく、ただ抽象的な紋様が刻まれているだけだった。
「この本は、あなたがこれまでの人生で読んできた作品の力を引き出すことができます」
「……作品の、力」
「異世界ものの小説、ずいぶんたくさん読んでいるようですね」
田中は黙って頷いた。年間数千タイトル。これでも少し控えめな見積もりだと、自分では思っている。
「この本を開けば、あなたが読んだ作品の中から能力を選び取ることができます。ただし」
女神は人差し指を立てた。
「同時に使えるのは、二作品分の能力まで。それ以上は使えません」
「二作品、ですか」
「三つ目を加えたければ、すでに使っている二つのどちらかを外す必要があります。入れ替え制、とでも思っていただければ」
田中は本を見つめながら、その制約の意味を考えた。読んできた作品の数は膨大だ。チート能力の宝庫といっても過言ではない。だがそれを好きに全部使えるわけではない。どれを選ぶかが鍵になる。
「能力の強さは?」
「その作品の、最終巻——あるいは現時点での最新刊の水準が適用されます」
「じゃあ、使えるのはどのキャラクターの能力でも?」
「いいえ」
リーナは静かに首を振った。
「使えるのは、その作品の主人公の能力だけです。脇役や敵キャラクター、どれほど強力であっても、主人公以外の力はこの本には宿りません」
田中は少し考えた。
制約として考えると、確かに惜しい気もする。強敵として描かれた魔王や、主人公を上回る実力を持つライバルキャラの力が使えないのは、選択肢としては痛い。
だが——逆に言えば、主人公の力は使える。
数千タイトルの主人公たち。最終巻まで積み重ねてきた成長の果ての強さ。あのラストバトルで世界を救った、あの力が。
「……なるほど」
田中は呟いた。それだけで十分すぎる、とも思った。
田中の脳裏に、いくつかの作品タイトルが浮かんだ。最終巻まで読み切っているもの。連載中でも最新刊まで追いかけているもの。あの主人公の、あの覚醒。あのラストバトルの強さ——
「……それ、かなりとんでもないことになりませんか」
「なるかもしれませんね」
女神は静かに言った。
「ただ、今回は私の手違いから発生した転移でもあります。デメリットはそれ以上設けていません。その制約だけが制限となります」
「手違い、というのは」
「まゆさんへの権利の付与は、本人が使うことを想定していたのですが……まあ、彼女らしいといえば彼女らしい使い方です」
女神はどこか苦笑いとも諦めともとれる表情をした。田中には愛沢まゆの「よろしくねー」という顔が目に浮かんだ。確かに、らしい。
「最後に」
女神は言った。
「一番大事なことをお伝えします」
田中は顔を上げた。
「あなたはいつでも元の世界に帰ることができます」
静かな、だが揺らぎのない声だった。
「満足したとき。やり遂げたとき。あるいは——万が一、異世界での生の途中で命を落とすことがあっても。どのような形であれ、あなたは必ず元の世界に生きて戻ることができます。ですから」
女神は初めて、はっきりと微笑んだ。
「怖がらずに、行ってきてください」
田中は本を胸に抱えたまま、少しの間黙っていた。
頭の中を、何千という物語が流れていく。異世界に飛ばされた主人公たちの、最初のページ。彼らが戸惑い、立ち上がり、強くなっていくページ。田中はそのすべてを、文字として読んできた。
「……一個だけ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「女神様は、お名前は」
女神は少し意外そうな顔をした。それから、
「リーナと申します。あまり名前を聞かれることがなかったので、少し驚きました」
「そうなんですか。なろうだと名前聞くの割とテンプレなんですが」
「……なるほど」
リーナは今度こそ、はっきりと笑った。笑うと、少しだけ人間に近く見えた。
「では、田中颯太さん。良い旅を」
光が来た。
今度の光はやさしく、どこか懐かしい匂いがするようだった——匂いというのは変な言い方だが、田中にはそう感じた。本のページをめくるときの、あの感じに似ていた。
新しい世界の、最初のページを開く。
田中颯太は、異世界へと降り立った。




