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食べちゃいたいけど、生きててほしい

作者: 昏々
掲載日:2026/01/30

 精肉コーナーには、特有のにおいがある。

 陳列棚には、主に牛・豚・鶏の動物肉がパック詰めにされた状態で整然と並べられている。眩い照明を当てられた肉は、どれも桃色に輝き、美しく、ほのかに甘い香りがする。脂のにおいだろうか。

 動物肉の陳列棚は、しかし短い。動物全体の頭数が徐々に回復し、食肉用の家畜もだいぶ増えてきたとはいえ、まだまだ希少であることは変わらず、その分値段も張る。この店のような一般的なスーパーの買い物客には、気軽に手が出せる食材ではない。

 だから、肉が食べたい時は、もっぱら人肉だ。

「人肉」と書かれたプレートを境に、陳列棚が暗くなる。照明のせいではない。動物肉と違って、人肉は元々色がよくないのだ。ただでさえ血の気の引いた肌の色が寒々しいのに、そこには味付けのための「入れ炭」が施されている。入れ炭は、文字通り炭を原料としているため、着色料を使っても発色には限度がある。また、においも、微妙だ。防臭処理しても尚残る煤が焼けたような、それ。棚全体が陰気な雰囲気を醸し出している。

 ただ、値段は手頃だ。動物肉の三分の一程度で買える。

 わたしは腿肉に手を伸ばした。今晩用と、作り置き用。二パック買っておく。なるべく消費期限の長いものを選ぼうと、身を乗り出した時、棚の縁に脚をぶつけた。自分の太腿が目に入る。……パック詰めされている腿肉は、スーパーが調理しやすい大きさにカットしてくれてある。わたしは、精肉コーナーのすぐ傍にある、店の従業員用出入り口に目をやった。あの奥は調理場にもなっていて、人肉もそこで加工されているのだろう。広い調理台の上、大きなまな板には加工前の腿が乗せられている。熟練の従業員は、躊躇いなく腿に包丁を入れると、骨から筋肉や繊維を剥がすように刃先を滑らせていく。まな板は赤黒い血と黄色い脂肪であっという間に汚れてしまう。従業員は慣れた手つきでさっと汚れを布巾で拭う。巨大な一枚腿肉を、そうして調理用サイズに切り分けていく……。

 そんな映像が一瞬、頭を過った。実際は全部機械でやっているのかもしれないし、加工の際に血や脂肪が垂れ流れるのかも知らないけれど。

 ……今晩は何を作ろう。スマホで人肉レシピを検索する。反対の手に提げたカゴを持ち直し、そのままレジの方へとゆっくり進む。レシピの人気ランキングは、一位~十位まで全て人肉料理だ。その中から、工程が少なくて、短時間でできて、作り置きにも適しているものを探す。

【人肉の味噌焼き(漬け込み不要)】

 よし、これにしよう。レジ待ちの最後尾に並んだところで、しかし肝心の味噌を切らしていることを思い出し、わたしはそっと列を抜け、来た道を引き返した。



 ほんの八十年前に世界が滅びかけたなんて、今は信じられない。

 八十年前、未知のウイルスの大流行によって、世界は一変した。ウイルスの標的となったのは、人間を除くあらゆる動物だった。感染力と致死率が極めて高く、家庭のペットから国立公園で保護されている絶滅危惧種まで、あらゆる生き物が犠牲となった。流行から数年足らずで動物の数は激減し、それは生態系に多大な影響を及ぼすと同時に、当然ながらわたしたち人間の命を脅かすこととなった。

 食糧危機だ。家畜のみならず、海や山や川……地球上のどこにも動物がいない。少ないながら生き残った動物は、国際的なしかるべき機関が速やかに保護に動き、並行して、各国で「動物を獲ること・食べること」を禁止する法律が制定された。

 穀物や野菜、果物、木の実、海藻、昆虫……。肉や魚、乳製品などがなくなっても、それらはある。人間は食料の全てを奪われたわけではなかった。しかし、今までの食事の大部分を補っていた動物性食品の穴を、それ以外の食品で埋めることは、現実的にも心理的にもまず不可能だった。

 誰もがそれをわかっていたから、世界各地では貴重な食料を奪い合う形で争いが勃発し、生き残り動物の保護施設が襲撃されるなどの事件も頻繁に発生した。世の中の不安定さや将来に対する悲観から、自殺者の数も増えた。動物の激減から間もなく、人間の存続が危ぶまれた。

 世界は行き詰まっていた。そんな中、とある国が、定例会見の場で一つの打開策を提案した。

「我々は、ついに、我々を食べなければならない時がきたのです」

 その国の広報官は言った。淡々としていながらも、切実な口調だった。

 我々を食べる――つまり、人肉食の提案だった。

 八十年経った今でこそ人肉食は当たり前で、人類が人肉食に至るまでの経緯は教科書に十数ページでまとめられているけれど、当時はおそらく世界中で議論が紛糾したことだろう。人間が人間を食べる。昔の人にとってはこれ以上ないくらいおぞましい所業だったと、わたしの祖父母より上の世代の人がテレビのインタビューなどで語っているのを、何度か見たことがある。

 最初の「人肉」は、クローン技術を用いて生み出された。そこからどんどん数を増やしてゆき、ウイルスが収束し、動物の数が徐々に回復してきてからも、人肉食という選択はなくなっていない。

 人肉はあくまで人肉として生まれ、育てられる。人間と姿形は同じだけれど、教育を受けたり、感情を育んだりすることはない。あくまで「食材」だ。その命は生まれた瞬間から見ず知らずの他人のためにある。

 ちなみに、人肉は不味い。調理しても独特の臭みみたいなものが消えないため、人肉は解体前に「入れ炭」を行う。入れ炭とは、人工的に味付けした食用の炭を、専用の器具を用いて人肉の皮膚に着色する工程だ。そうして身体に模様を描くことは、太古から様々な用途や理由で一般の人々も行っていたらしく、それこそ八十年前はファッションの一部だったという。が、今はもちろんそんなことをする人はいない。入れ炭=人肉の証なのだから忌避して当然だろう。



 まな板の上に腿肉を置く。厚くもなく薄くもなくカットされた一枚肉には、「腿」の原型はない。それを、まずは一口大に切っていく。

 腿肉に手を添える瞬間、思わず半目になる。人肉に触れる時の癖だった。わたしは入れ炭の見た目が苦手なのだ。昔ファッションとして楽しまれていた名残なのか、妙にデザイン性が高いそれは、何と形容したらいいのかわからない複雑で繊細な模様を描いていて、ゾッとしてしまう。飲食店の中には、入れ炭のデザインも含めて一皿である、という美意識を売りにしているところも多く、それを喜ぶ客も大勢いるのだろうが、わたしには理解できない感性だ。むしろ、人肉には入れ炭など施さず、素肌の状態を口にする方が「食べている」感じがしていいんじゃないかと、個人的には思う。

 フライパンに油をしく。全体が熱せられたところで、腿肉を置いていく。ジュッ、と、肌の焼ける音が立つ。入れ炭の下味がついているため、塩コショウは振らない。油が跳ね、腿肉の色が変わっていく。

 人肉には濃い味付けが好まれる。その理由は、入れ炭を施しても尚残る臭みをカモフラージュするためだが、見た目の問題もあるだろう。人肉は、火を入れると、色が悪くなる。動物肉のようなこんがりとした茶色にはならず、深刻な火傷を負ったような色に変わる。それが入れ炭の模様をただれて見せることもあり、お世辞にも「おいしそう」とは言い難い。だから、より濃い色で誤魔化すのだ。

 味噌、みりん、醤油、水を入れて煮込んでいく。人肉の欠点はまだある。におい、だ。フライパンからは排気ガスを熱したようなにおいが立ち上っていた。わたしはこのにおいを嗅ぐ度、交通量の多い国道沿いの景色がいつも頭に浮かぶ。

 人肉は、見た目も・味も・においも、よくない。それでもわたしたちが人肉を食べ続けるのは、安価で、栄養があって、またいつ食糧危機が訪れるかもしれない不安を抱いていて……今のところ食べるのを止める理由がないからだ。生まれる前から当たり前にある「食材」だから、食べている。

 フライパンの中がぐつぐつと煮詰まる。それを眺めながら、腿肉にフォークで穴をあけておくのを忘れた……、と気づく。レシピに、その一手間で味が染み込みやすくなると書いてあったのに。

 そうして完成した味噌焼きを、半分を皿に盛りつけ、もう半分をタッパーに移す。皿の方は、白米をよそった茶碗と一緒にテーブルへ。タッパーは冷蔵庫へ。見た目はさておき、味噌とタレの甘辛い香りが全てを丸く収めている。

 テーブルに着くと、わたしは箸を持つよりも先に、タブレットを起動させた。食べるよりもまず、チェックしなければならないことがある。ニュースサイトを開く。世の中の出来事が氾濫している中、「新着記事一覧」をスクロールしていく。……見つけた、「12番」の文字。

【〇〇動物園、近日中に12番の展示再開の見込み】

 その見出しを何度も読み返し、記事の本文にも目を通すと、わたしは椅子の背にもたれた。大きく息を吐き出す。会える……12番にまた会える……。胸にじわじわと喜びが広がっていく。

(12番……)

 その姿を間近に見たのはたった一度きりだった。だからこそ、あの瞬間の衝撃を忘れることはない。歪んだ表情も、入れ炭を施される前の白い素肌も、自分自身の運命に慟哭しているかのような泣き声も、全部全部、仔細に思い出すことができる。

 味噌焼きの甘辛い香りの奥に、うっすらと排ガスの臭気を拾う。国道沿いの景色が浮かぶ。けれど、車は一台も走っていない。代わりに、12番が走っている。果てしなく続くアスファルトの道を、泣きながら、両腕をでたらめに振って、どこにも辿り着けないことを知らないまま、何かから逃げるように疾走している。

(……12番)

 早く会いたい。世の中には12番の写真が溢れているけれど、わたしは実際に12番を見て確かめたかった。あの時の衝撃が、本物だったのかどうか。やっぱり12番を食べたいと、渇望するのかどうか。12番を他の誰にも食べられたくないと、必死になるのかどうか。……もう一度会って、知りたい。12番のこと、わたしのこと。

 12番に想いを馳せながら、わたしは箸を持ち、いただきます、と手を合わせた。



 動物園の展示スペースから12番が脱走したニュースは、三か月が経った今も褪せることなく人々の関心を引いている。わたしは、実際にその現場にいた。12番が脱走する瞬間に立ち会っていた。その前日の金曜日から……いや、もっと前から、わたしが12番に出逢う運命は動き出していたんだと、今は確信している。

 金曜日、高校・大学の同級生である「師匠」から久しぶりに連絡があった。師匠と最後にメッセージのやり取りをしたのは半年ほど前で、実際に顔を合わせたのはそれよりもっと前だった。

「明日、暇? 動物園行かない?」

 メッセージを読んだ瞬間、わたしはドキッとした。あまりにもタイムリーな誘いだったからだ。が、すぐに、師匠は「それ」を見越して連絡してきたのだと気づいた。でも……一体、なぜ。卒業以来、師匠は「choose――」には関わっていないはずだ。

「choose――」とは、「choose what to eat」……食べる物を選択するというスローガンの下、反人肉食を主張し、それに基づいた活動を行っている団体だ。元々は大学のサークルだったが、団体の規模が大きくなった現在は法人化し、全国各地での講演やSNS上での広報活動、オリジナル食品の発売などを行っている。

 この「choose――」の創設者が、師匠だった。当初は「食べる物を選択する」というスローガンのみで、反人肉食に限定していたわけではなく、裾野が広かった。また、当の師匠には「反〇〇」のような確固たる思想はなく、単純に「俺、流行りものが好きだから」という、(当時、空前の健康食品ブームが到来しており、「食べる物」に意識を向ける人が急増していた)師匠らしいと言えばらしい、それだけの理由だった。

 ただ、師匠にとっては遊びの一環でも、そこに集う人の中には本気で「食べる物」と向き合っている人もいた。そういう人たちが増えていくと、「choose――」は自然と形を変えていった。遊びよりも本気の度合いが強くなったところで、師匠は「choose――」から手を引くことを決めた。

 わたしは「choose――」のメンバーではなかったが、創設にほんの少しだけ関わっていた。利用された、と言ってもいい。その縁で、師匠を介し、「choose――」の現代表である幹くんと知り合った。師匠は「choose――」を手放し、わたしも変わらず活動に参加することはないけれど、幹くんとは現在も交流が続いていた。

 わたしは、自分の中で定期的に募る「憧れ」が上限に達すると、幹くんに会いたくなって会いに行っていた。

 人肉食が常識となって二十年ほどが経った頃、海外のとある牧場で事件が発生した。その牧場では、人間でいうところの幼児期~青年期まで数十体の人肉を育てており、出荷の実績もあった。が、その裏で、牧場主は、幼児期の人肉数体を隔離し、人肉には厳禁とされている教育や教養を身につけさせていた。すると、当然、人肉たちは人間のような思考や感情を持つようになり、自分たちが「他人に食べられるために生まれてきた存在」であることを自覚し、それに恐怖を抱くようになる。人肉を人間にしてしまった罪は重い。しかし当時(現在もだが)、それを罪に問う法律は存在していない。牧場主がなぜそんなことをしたのか、人肉たちがどうなったのか、事件そのもののインパクトが強かったためか、結末に関する情報は尻すぼみで曖昧なものが多い。

 わたしは、この牧場主を羨ましいと思っていた。人肉は、人間ではない。けれど、人間と同じ形をしている。空っぽで、純粋。だから、こちらの気持ち一つで、いかようにもその中身を詰めることができる。そうして「人間」を作り上げる。しかも人間でありながら、しかし「人肉」なのだ。最終的には食べることができる。……牧場主は、きっと愛情を持って、本当の意味で人肉を育てたのだ。その人肉を、食べていてほしいと思う。そこには究極の愛があったはずだと、わたしは夢見ている。

 幹くんはもちろん人間であり、どんなに愛情を注ごうと、憧れの究極には絶対に辿り着けない。そもそもそこまで彼に対して強い想いはなかった。でも、出逢った時から、わたしの憧れに一番近いところにいてくれているのは、事実だった。

 そういうわけで、師匠から連絡を貰う一週間ちょっと前。わたしは「choose――」の事務所を訪ねていた。

 雑居ビルの階段を上がり、磨りガラスの小窓がついた扉を開けると、受付カウンターには誰も立っていなかった。しかし、目隠しのパーテーションの向こうには人の気配があった。

 受付に置かれたベルは鳴らさず、わたしはパーテーションの向こうを覗いた。室内は意外と広く、デスクの島が二つあった。一つは幹くんたち幹部が作業する用、もう一つは会員たちの作業場になっている。

 その作業場の方に、幹くんはいた。会員たちと談笑しながら、せっせと商品の梱包を行っていた。最近の「choose――」は、「特製代替肉」や「入れ炭の添加物に効くお茶」などのはっきり言ってグレーな商品の販売に力を入れているようだった。

 幹くんがふと顔を上げた。わたしに気づくと、にっこり微笑み、作業の手を止めてこちらにやって来てくれる。

「薫さん、今日こそいい返事を聞かせてもらえますか?」

 幹くんはいつも通り挨拶代わりにそう言い、わたしもいつも通り苦笑して首を横に振った。返事、というのは、顧問の件だ。幹くんには以前から「choose――の顧問になってください」と言われていた。

 幹くんは「残念です」と、しょんぼりしてみせる。わたしが幹くんに会いたくてここに来たことはわかっているはずだし、それについて触れないのであれば、幹くんの方もわたしの気まぐれに異論はないということだ。

 わたしは手土産の紙袋を差し出した。幹くんは中身を見ると、「わ~、いつもすみません。ありがとうございます」と言って、笑顔を浮かべた。

 手土産は、果実入りのゼリーにした。幹くんが喜ぶからだ。わたしがこういう「素材の味を大切にしている、非加熱の食べ物」を選ぶことを、幹くんは期待している。

 後でみんなでいただきますね、と目を細めて言う幹くんとは、知り合ってもう六年ほど経つけれど、その印象は変わっていない。日当たりのいい部屋で観葉植物を育てていそうな、静かで、清潔な感じのする男の子。

 わたしは、幹くんの向こう、デスクの島で梱包作業をしている会員たちに目をやった。全部で十数人いるが、そのほとんどが女性だ。彼女らはおそらくボランティアとして自主的にここに集まっているのだろう。その中には、「choose――」の理念がどうこうよりも、幹くんそのものに心酔している人も少なくない気がする。幹くんには、肩を叩いたら振り向いてくれそうな柔らかさと、叩き続けない限り幹くんからは振り向いてくれなさそうな無常さが同居している。つまり、来るもの拒まず、去る者追わず。何事にもフラットであると同時に、熱を持たない。そんな印象の彼が人肉食を「外道」という強い言葉で非難し、人肉食を常識としている世の中を切り捨てる。そのギャップには人を惹きつける力があって、一度ハマってしまった者はなかなか離れらなくなるのだろう。

「来週の土曜日、街頭デモをすることになったんです」

 わたしは我に返って、幹くんに視線を戻した。

「えっ……デモ?」

「はい。〇〇駅前で。薫さんにもぜひ参加してほしいんですけど……忙しいですよね?」

 デモ……。絶対参加したくない、と、瞬間的に思った。

「〇〇駅前でやるってことは、動物園に対する抗議デモってこと?」

 〇〇駅の目と鼻の先には、動物園があった。動物の数が徐々に回復しているとはいえ、現在もまだ動物園は世界に数園しかなく、国内もその動物園が唯一だった。

「いえ、そういうわけじゃないです」幹くんが首を振る。「でも、全く無関係ってわけでもないです。今は12番の展示見たさに来園者が増えてますから、その人たちに『12番をかわいいと思うなら、人肉食を考え直してほしい』って伝えるのは有効な手なんじゃないかなって」

 12番……それは、言わずと知れた「時の肉」だった。動物園では、現在、この12番の展示が行われている。人肉は確かに人間ではなく、かと言って動物でもなく、あくまで「食材」だ。だから、この企画は極めて異例のものだった。

 12番は元々、地方の牧場で育てられていた。その牧場は、他にも少ないながら牛や馬などの家畜を飼育しており、牧場を一般開放することで、来場者が動物と触れ合える機会を設けていた。しかし、人肉との接触や声掛けは厳禁とされている。そのため12番だけは、他の動物たちのように人と触れ合うことはなく、飼育小屋で過ごすその姿を来場者が一方的に観覧するという、動物園の展示と似た方法がとられていた。

 そこで話題になったのが、12番の容姿だった。

 12番は、きれいな顔立ちをしていた。アーモンド形の大きな瞳、しっかりと通った鼻筋、きゅっと口角の上がった唇。人間的に言うなら「美少女」だ。アイドル顔負けのその容姿は、「食べちゃいたいくらいかわいい人肉」としてSNSで瞬く間に拡散され、牧場には12番の姿を一目見ようと大勢の人が押しかけ、通常業務に支障をきたし出した。

 人々が求めるこの「時の肉」を、大々的かつ安全に、そして意義深く展示する方法はないものか。どこかでそういう話し合いがなされたのだろう。結果、国内唯一の動物園に白羽の矢が立ったのだ。

 動物園が12番の展示を決めた際、「choose――」は、動物園に抗議文を送ったらしい。動物園はただ展示を引き受けただけで、そこに人肉食を推奨する意図がないことは幹くんたちもわかっており、「こういうのは姿勢を示すことが大事なんです」ということだった。

 ……パーテーションの向こうから、代表、と、幹くんを呼ぶ声がする。わたしはデモ参加の件については曖昧に濁し、幹くんに「忙しいとこ、ごめんね。そろそろ帰るね」と告げた。

「夜までにはそっちに行けると思います」

 扉の外まで見送ってくれた幹くんは、去る者追わずの笑顔で言うと、小さく手を振った。


「『choose――』にはもう興味がないのかと思ってた」

 わたしがそう言うと、師匠は「まあ、ないね」と言って、笑った。

「『choose――』には、ない。でも、幹クンには興味がある。今後どうなっていくか気になるんだよなぁ。俺、未だに幹クンのXチェックしてるんだ。もちろんフォローはしてないけど」

 久々に顔を合わせた師匠は、相変わらず掴みどころのない雰囲気を纏っていた。身体が大きく、丸みのあるフォルムはゆるキャラみたいだけれど、妙に眼光が鋭く、油断すると全てを見透かされそうな底知れなさがある。

 動物園には、〇〇駅の東口から徒歩数分で着く。が、わたしたちは反対側の西口で待ち合わせし、駅の周辺をぐるりと遠回りして動物園を目指した。そんな面倒なことをする理由はもちろん、東口の広場でデモを行う幹くんと鉢合わせしないためだ。師匠はむしろそういう展開を歓迎しているようだったが、わたしは先日幹くんに「行かれない」と返事をしていたため、姿を見られるわけにはいかなかった。

 動物園に到着すると、開園前にも関わらず、門の前にはすでに人だかりができていた。おそらく、ほとんどの人が12番の展示目当てだろう。

「楽しみだねぇ、12番。ここ最近ずっと生で見てみたいと思ってたんだよね」

 その場で足踏みしながら、師匠が言う。

 わたしは背後……街路樹が立ち並ぶ向こう、東口広場を振り返りながら「今日じゃなくてもよかった気がするけど……」と零した。広場では、デモの準備をしているのか、幹くんたちが輪になって話し合っているのが見えた。

「それを言うなら、薫サンが断ってくれたらよかったんだよ。でも、薫サンはこうやって12番を見に来た。

 幹クンのことを思い出す時は、いつもセットで薫サンのことを思い出す。逆もそう。だから、幹クンのXで今日のデモの告知がされているのを見て、〇〇駅って動物園のある駅だなって思って、この日が12番を見る時だって直感が働いて、だったら一緒に行く相手は薫サンだろうって思いついた。全ては意味を持って繋がってるんだよ」

 意味のないことを、意味ありげに言う。それが師匠だった。でも、確かに、デモのことを気にするのなら、師匠の誘いを断ればよかったのだ。そうしなかったのは、単純に、「時の肉」に対して人並みの興味を持っていたからだ。12番の展示は一年の期間限定だ。今日ここに来なかったら、12番をこの目で見る機会は二度とないだろうと思い、惜しくなったのだ。

「もうすぐ開園だね」

 師匠が腕時計に目をやる。「幹クンたちの方も、そろそろだ」

 デモは、動物園の開園と同じく十時からはじまる。

(全ては繋がっている――か)

 高校の時は、まさか師匠とこうして動物園を訪れる日がくるなんて、思ってもみなかった。師匠とは、同じ文芸部に所属していたが、話したことは数える程しかなかった。師匠は他にもいくつか部活を掛け持ちしており、月に一度くらいしか部室に顔を出さなかったのだ。それでも、文化祭に向けた作品作りなどはきちんとこなしていた。おそらく他の部活動でも、同じように真面目に取り組んでいたのだろう。

 何かの折に、部室で二人きりになった時、わたしはその原動力について訊ねたことがあった。

「興味があるからだね。部活の中身そのものじゃなくて、人に。一癖ありそうな人がいる部活に顔を出して、その人と仲良くなっておきたいんだよねぇ。変わり者って普通じゃできないことを成し遂げそうだし」

 だから、文芸部にも入った。薫サンがいるから。と、師匠は言った。わたしは、ほとんど話をしたことのない男子からいきなり名前で呼ばれたことも、はっきり「変わり者」と言われたことも、師匠の考え自体も、あまり気にならなかった。ただすんなりと師匠の言葉を受け入れ、閃くように自分の可能性に自ら火を灯した。

 おかげで、わたしは在学中に某文学賞を受賞し、デビューすることになった。

 こういうところが、師匠が「師匠」と呼ばれる所以だろう。高校の時は、上級生・同級生・下級生、知り合いほぼ全員から「師匠」と呼ばれていた。そしてそれは大学に入っても変わらなかった。

 わたしは師匠から大きなきっかけをもらったけれど、関係性としては「知り合い以上、友だち未満」だった。しかし、偶然にも、同じ大学の同じ学部に進学したことで、交流は途切れなかった。

 そして、入学して間もないある日。学食でお昼を食べていたところに、師匠が現れた。師匠は約束していたかのようにわたしの目の前に掛けると、

「サークルを立ち上げることにしたんだ」

 唐突に言った。「今、世の中は健康食品ブームでしょ? だから、食べ物は自分を形作る大切な物だから、日々の食事をもう一度見直して、『食べる物を選択する』っていう、そういうサークルをはじめようと思う」

 わたしは勢いよく顔を上げ、まじまじと師匠を見つめた。「食べる物を選択する」って……それって……。

「薫サンのデビュー作からアイディアをまるっと頂戴させてもらった」

 師匠がにやりと笑う。

 わたしは口を開いて、しかし言葉にならず、そのまま閉じた。……デビュー作、それはわたしにとって認められることの甘やかさと世間の厳しさを同時に知った、「恥ずかしさ」そのものだった。

 その中身は師匠も言った通り、「食べる物を選択する」話で、主人公は自分を形作る「食べる」という行為に重きを置いており、食べ物の味や質ではなく、食材の見た目の美しさを重要視している……つまり、美しい物を口に入れることで、美しい自分を形作ろうとする。また、食事はなるべく非加熱で、余計な味つけもしないというこだわりも持っていた。

 書き上げてからまだそんなに時間は経っていなかったものの、今にして思うと、真新しさもおもしろさも感じられない。だから全く売れなかったのだろう。

 薫サンも気が向いたらサークルに顔出してみてよ、と軽口を叩く師匠を、わたしは無視した。

 師匠から再び「choose――」の話を聞かされたのは、それから二年後のことだった。

「いやぁ、例のサークルがさ、予想以上に大きくなってきちゃって。そろそろ引き際かなって思ってるんだよねぇ」

 わたしが「あっそう」と素っ気なく返事をすると、師匠は苦笑した。

「たださ、この間、おもしろい新入生と出逢ったんだ。小さい頃から人肉食に違和感を抱いてるっていう子でね、うちに入ろうか迷ってるみたいだったから、薫サンのデビュー作を渡してみたの。そうしたら、びっくり。えらく感銘を受けたみたいで、うちに入ったのはもちろん、薫サンのこと『この人を顧問にしたらどうですか』って、顔を合わせる度言ってくるんだよ」

「やばい子だね」

 作品を気に入ってくれたのはありがたいけれど、わたしと作中の主人公を混同している感じが、純粋を通り越して危うげだ。

「あの子は、今後『choose――』をもっと拡大させるかもね」

 師匠は鋭い目を細めると、こちらを見た。

「薫サンに会いたがってるから、会ってやってよ」

 わたしは「嫌」と即答した。たとえ相手が「やばい子」であっても、その子の中にあるわたしのイメージを崩すのはどうかと思った。それに、この時、わたしは、人肉のベーコン入りトマトソースパスタを食べていた。わたしは小説の主人公と違って、「食べる」ことに頓着しないし、食事にまどろっこしいこだわりも持っていない。人肉食に違和感を抱いているような子とは、話すまでもなく話が合わない。

「それはどうかな」

 師匠は意味ありげに口角を持ち上げる。「小説の主人公と薫サンは別物でも、小説自体は薫サンから生み出されたものでしょう? それに感銘を受けて、人生が動き出した子がいるのなら、その子と会うことで、薫サンの人生もまた動き出すんじゃない? それって、おもしろくない? 俺はおもしろいと思うなぁ」

 ……そんなことを言って、師匠は「変わり者」同士を引き合わせて、何かおもしろいことが起こらないか期待しているだけだ。

(人生なんて、大袈裟な……)

 そう鼻で笑うのと同時に、わたしはなぜか思い出していた。海外の牧場主が起こした大事件。人肉という人間。人間という人肉。それを食べる、究極の愛。

「薫サン、お腹空いてない?」

 顔を上げると、師匠とまともに目が合った。

 師匠は「あげる」と言って、自分の皿から人肉のから揚げを一つ、こちらの器に移した。

「……『choose――』の代表なのに人肉食べてていいの?」

「俺はべつに反人肉食じゃないし、何の公言もしてないからね。それに、他人が何を食べてるかなんて、人は気にしないものだよ」

 ……たまに、不安になる。師匠って、本当に人の心を見透かせるんじゃないだろうか。


 動物園の開園と同時に門が開かれると、周囲の人たちが一斉に走り出した。わたしたちもつられて小走りになる。

「12番の展示ってライブ中継されてるの知ってる? 動物園の公式SNSで観られるんだけど。毎日それを観てるうちに、気づいたことがあるんだ」

「毎日……、よく観るね」

「うん。俺、流行りものが好きだから」

 全力疾走しなかったわたしたちは、12番の展示スペース前に来ると、半分より後ろの方に立つことになった。展示スペースは横長の建物で、他の動物のそれとは趣が異なり、ガラスの向こうには汚れ一つ見当たらない真っ白い空間が広がっていた。

 12番の姿はまだない。

「12番って、人間になりつつあるよ」

 耳に、師匠の息がかかった。思わず振り返ろうとしたけれど、それより先に師匠の囁き声が続く。「最近、中継を観てて気づいたんだ。12番は、明らかに感情を持ちはじめてる。この前も、来園者に向かってなのかはわからないけど、ニコッて微笑みかけてた。筋肉の無意識の動きだっていう見方もあるけど……、それ以外にも、誰かを探すみたいに視線を彷徨わせてたり、同じ方向をずっと見つめ続けてたり、意志を持ってるように見えるんだよね」

「……それが本当なら、大問題じゃない? 動物園側が気づかないとは思えないけど」

「まあね。ただ、12番は『食べちゃいたいくらいかわいい人肉』なわけだし、たとえば飼育員が12番に情を持って、人間に近づけさせようとしても不思議はなくない?」

 わたしは思わず眉を寄せた。……そんなこと、あっていいわけがない。

 遠くの方で、微かに幹くんの声が聞こえた。デモがはじまったのだ。反人肉食を掲げる幹くんは、世界から人肉食をなくそうとしている。そんなことできるはずがない、と呆れると同時に、そんな世界になったら、わたしは究極の愛なんてものを夢見ずに済み、憧れに囚われず生きられるんじゃないかと、期待してもいる。

 好きな人を食べたいのか。食べられる人を好きになりたいのか。わたしは自分のことがずっとわからない。

「えっ」

 師匠が短く声を上げた。同時に、周囲がざわめいた。微かに聞こえていた幹くんの声は掻き消え、どこかから耳をつんざくような奇声が飛ぶ。わたしは何が起こったのかわからず、師匠と周りの人たちの視線の先を追った。

(あれは――!)

 目と鼻の先を、全裸の人間が疾走していた。いや、人間ではない。あれは、あの美しい横顔は12番だ。

 展示スペースを振り返ると、おそらく裏は飼育スペースになっているのだろう、その出入り口にへたりこんでいる女性がいた。服装から飼育員だとわかる。彼女の呆然とした表情を見てはじめて、わたしは12番が脱走したのだと気づいた。

 園の奥へと、12番は駆けて行く。黒く長い髪が揺れている。細身でありながら、二の腕や胸や太腿には人肉らしい脂肪をきちんと蓄えている。まだ入れ炭の施されていない、白い肌。その震えが見えるほどの大声で、12番は泣いていた。生まれたばかりの子どもみたいだった。感情を持たないはずの人肉が、感情を振り乱して、何かから必死に逃げている……

(食べたい――)

 わたしは強烈な空腹に襲われた。それは今まで感じたことのない、胸までを締めつけるような、突然の渇望だった。走り出したかった。12番を追いかけて、その素肌に齧りつきたかった。でも、実際には一歩も動けず、数人の飼育員に取り押さえられる12番の姿を、固唾を飲んで見ているしかなかった。

「いやぁ、凄いもの見ちゃったねえ」

 師匠の声に、ハッとする。周囲では絶え間なくスマホのシャッター音が鳴っていた。この一件は、今この瞬間から、世の中に拡散され、人々の関心を集めるだろう。心臓が激しく鳴っていた。それは、これから話題になるだろう現場に立ち会った興奮じゃなかった。究極の愛の片鱗に触れてしまった……衝撃だった。



 幹くんが部屋を訪ねてくる時、わたしは掃除よりも何よりも、人肉の気配を排除することを徹底している。冷蔵庫の中身を整理し、換気扇を回し、ゴミ箱をチェックする。いつもと違って排ガス臭のしなくなった室内で、幹くんを待つ。

 やって来た幹くんは、いつものように季節の果物――今日は梨――を手土産としてくれた。

 わたしが梨を切っている間に、幹くんは当然のようにお茶の準備をする。ちなみに、淹れているのは普通の紅茶だ。幹くんが自社製品である「入れ炭の添加物に効くお茶」を飲んでいるところは一度も見たことがない。まあ、幹くんは人肉を食べないのだから、飲む必要もないだろうが。

 梨の皿と紅茶のカップをローテーブルに運び、ソファに並んで掛ける。品のいい甘い香りに、わたしは思わず心の中で笑ってしまう。

 三カ月前に起こった、12番の脱走事件後から、幹くんがうちにやって来る頻度が増えた。その理由ははっきりとしないけれど、幹くんを取り巻く環境に変化があったことは確かだった。

 12番脱走事件によって、「choose――」は、今や「時の肉」と並び、主にSNS上で注目を集めていた。

 12番が脱走した原因は、まさかの師匠の見立て通りだった。

 12番の担当だった飼育員が、人肉を飼育する上で厳禁とされている「目を合わせる」「声をかける」「知識を与える」などの行為に及んでいたことが、動物園の会見で明らかにされた。なぜそのようなことをしたのか、飼育員は「12番がかわいくて、人肉として食べられるのはかわいそうだと思ったから」と話したという。実際、一部公開された飼育舎内の防犯カメラ映像にも、飼育員が12番を可愛がり、両者が仲睦まじくしている様子が残されていた。

 しかし、動機がどのようなものだったとして、それは事を正当化する理由にはならず、飼育員は動物園を解雇され、国家資格である飼育員資格も剥奪された。そして、現在、12番の所有者である牧場主から「人肉の商品価値を落とした」として訴えられ、裁判の真っ最中だった。

 世間の意見は二分していた。この飼育員の行いに対して「気持ちはわかる」というものと、「気持ちわるい」というものだ。事件から三か月経った今でも、Xなどでは代理戦争的な盛り上がりをみせている。

 そんな中、この飼育員の支援に名乗りを上げたのが、「choose――」だった。実際に「choose――」の幹部でもある顧問弁護士がこの裁判の対応に当たっているらしい。

「裁判の方はどう?」

 有罪になって刑務所にぶち込まれたらいいのに、と思いながら、わたしは訊ねる。民事裁判のため、そんなことにはなり得ないとわかっているけれど。

「そんなに長くはかからないと思うんですけど……」

 梨を突きながら、幹くんは言う。最近の彼はこんな調子で、歯切れが悪く、どこかぼんやりしている。

 一方、わたしは苛立っていた。幹くんに対してではない。例の飼育員と、12番に関心を寄せる世の中と、そして何より自分自身に対してだ。

 あの監視カメラ映像……そこに映っていた飼育員と12番の関係性は、まさにわたしの憧れそのものだった。漠然と抱いていた「愛」のその正確な形を、まざまざと見せつけられた気がした。飼育員は自分の名前を12番に覚えさせ、最初こそ無反応だった12番は次第に飼育員を個人として認識するようになる。飼育員が12番に向ける言動は愛情を持っている相手に対するそれで、12番の方も徐々にその愛情に応えていく。飼育員に懐き、彼女が飼育舎にやって来ると、駆け寄って、すり寄る。「いい子」と言って、飼育員は12番の頭をやさしく撫でる。「いい子」の意味などわかるはずもないのに、12番は満足げに微笑む。愛おしそうに飼育員を見つめる……。

(……羨ましい)

 人肉と人間には絶対的な隔たりがある。「食べ物」と「食べる者」。四十年前事件を起こした牧場主や、今回の飼育員は、その隔たりを飛び越えた。それは、常識を理由にしてわたしが尻込みしていること、だ。師匠はわたしを「変わり者」と言ったけれど、わたしは結局ただの常識人で、自分の空腹一つまともに扱えない。

 情けなさと嫉妬心に苛まれながら、それにしても……、と考える。今回の12番の脱走、その理由は何なのか。世間では、「飼育員の教育によって、12番が自らが人肉であることを認識してしまい、その現実を受け止めきれず、錯乱した結果ではないか」と言われている。あり得そうな仮説ではあるけれど、それが事実なら、12番は今後どうなるのだろう。人肉として生を全うすることはなくなるのだろうか。それは、人間になるということなのか。人間になって元人肉であったことを思い出しながら生きることは、人肉のまま人間を知らずに死んでいくことより、幸せなのだろうか。

 その辺の事情が知りたくて、わたしは度々幹くんに探りを入れているのだが、だいたい空振りに終わっていた。

 紅茶のカップに口をつける。幹くんが淹れてくれる紅茶は、いつもちょっと薄い。

「そういえば、訊こうと思ってて忘れてたんだけど、12番の飼育員って、もしかして『choose――』の会員?」

 幹くんが「えっ」と、こちらを振り返った。彼にしてはめずらしい、虚を突かれたような表情だ。

「どうしてですか?」

「どうしてって、だって、そうじゃなきゃ幹くんたちが動くメリット、あんまりなくない?」

 原告である牧場主の憤りぶりと、被告である飼育員(というより、その後ろ盾となっている幹くんたち)の対抗姿勢を見る限り、和解にしろ判決にしろ結論が出るのはまだ先になりそうだ。この一件で「choose――」の知名度は上がったものの、その宣伝効果が裁判にかかる時間と手間を上回るのかは疑問だ。実際、会員数もオリジナル食品の売り上げも微増に留まっている。

「飼育員の彼女は、会員……ではないです。でも、同士だとは思ってます。彼女は、『人肉』という存在に疑問を抱いたからこそ、今回のようなことをしたわけですから。それを一番わかってあげられるのは、俺たちだと思うんです」

 ……本人は気づいていないだろうけれど、幹くんは、裁判の話になると、普通の男の子の顔になる。反人肉食団体の代表という、よそ行きのメイクが崩れてしまったかのような、心許ない表情をする。

 もしかすると、幹くんと飼育員は元々付き合いがあったのかもしれない。だから裁判なんていう面倒なことに手を貸すし、最近の心ここにあらずな態度にもうなずける。

 頻繁に会うようになっても、一緒に上品な香りに包まれても、わたしたちは全然お互いのことを考えていない。頭の中も心の中もすれ違っている。でも、「人肉」という存在によって、ままならない歯がゆさを埋めるように繋がっている。



 12番の展示再開、当日。わたしは開園三時間前に動物園に到着した。それでも門前にはすでに人だかりができており、その中には報道陣や個人の配信者らしき姿も多く見られ、注目度の高さが窺えた。

 誰もが、12番の姿を記録し、世の中に向けて配信しようとしている。今やネット上には12番の画像が以前にも増して溢れている。人肉は「食材」であるため、基本的に全裸で生活している。むしろ服を着ていると違和感を覚える。そのため人肉の全裸写真が出回ったところで、法律的にも倫理的にも何の問題もない。この八十年の間に、わたしたちの脳はそれを常識として処理するようになり、人肉の全裸に人間のそれを目にした時と同じ感情――興奮や、気恥ずかしさや、嫌悪感など――を抱くことはない。そういう感情を抱く者は「異常」とされている。つまり、わたしは正常ではなくなったらしい。12番が多くの人の目に晒され、その存在をシェアされていることに、今、激しい焦燥を感じてしまっている。

 開園時刻の三十分前になると、動物園は早めに門を開けた。開園を待っていた人々が一斉に走り出す。わたしも走った。以前とは違い、全速力で12番の展示スペースを目指す。

 それでも、立ち位置は後ろの方になってしまった。

 12番の展示スペースは相変わらず清潔で、無機質だ。

 12番の世話は、新しい飼育員に引き継がれたのだろう。脱走事件が起きたのだ、今度は徹底してマニュアルに則った飼育をしているはず。12番は、以前の飼育員との対応の違いを感じ取っているだろうか。さみしい、と、思ったりするのだろうか。わたしは思わず目をつむる。展示スペースに現れた12番が、誰かを探すように視線を彷徨わせたりしたら、……泣いてしまうかも。悔しくて。

 人々の頭越しに、展示スペースの真っ白い空間を眺めながら、想像する。12番の未来。12番は、展示期間を終えたら牧場に帰るだろう。そして、頃合いになったら、出荷される。その際、あの白い素肌には入れ炭が施され、特殊な薬剤によって昏睡させられた後、おそらく血を抜かれる。解体される。12番の肉は、各部位ごとにどこかへ卸され、誰かの手によって調理され、誰かの口に入る。

 その「誰か」は、わたしじゃない。それなのに確実に「誰か」は存在することが、我慢ならない。12番を……人間に近づいた人肉を食べる人間がいるなんて、それは罪でも何でもないなんて、そんな不公平があっていいはずがない。

(どうすればいいだろう)

 どうすれば、この空腹を満たせるだろう。

 ――全ては意味を持って繋がってるんだよ

 ……そうだ、幹くん。「choose――」に12番を買い取ってもらったらどうだろう。人肉の一体買い。個人では難しいけれど、「choose――」なら、「人肉保護」という名目で会員から集金するなり、クラウドファンディングするなり、何かしら方法があるんじゃないか。そうしたら、飼育員の裁判支援なんて比じゃないほど、世間の注目を集める。「choose――」の、幹くんの、この世界から人肉食をなくす、というその本気を見せつけるチャンスにもなる。そして、12番を「choose――」の象徴として育てるのだ。幹くんがまだ望んでくれているなら、わたしは顧問にだって、会員にだって、何だってなる。だから、その代わり、12番を育てさせて。可愛がって可愛がって、食べちゃいたいくらい可愛がってみせる。その行き着く先で、最後は、一人占めさせてもらう。幹くんたちは人肉を食べないんだから、いいよね? どんな手を使っても、わたしは12番を食べる。頭から爪先まで、その骨も肉も、余すことなく平らげる。わたしは、12番に形作られる。愛を味わい生きていく。

 八十年前、未知のウイルスが流行ってくれてよかった。ずっと空腹のままでは、人間は生きていけない。

 もうすぐ十時になる。わたしは楽しみにその時を待つ。



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