第八話 静かな常連
その男は、翌日も扉を開けた。
控えめな動きで、音を立てないように中へ入る。
扉を閉める手つきも、昨日と変わらない。
私は厨房から顔を上げ、軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ」
それだけで、十分だった。
男は店内を一度だけ見回し、今日は窓際ではなく、壁際の机を選んだ。
椅子を引く音も小さい。
腰を下ろすと、机の広さを確かめるように、そっと掌を天板に置く。
それから、静かに息を吐いた。
「……落ち着きますね、ここ」
独り言のような声だった。
「ありがとうございます」
私はそれ以上、言葉を重ねない。
注文を聞く必要もない。
昨日と同じ一杯だ。
厨房に戻り、豆の袋を開ける。
蓋を外した瞬間、かすかに、乾いた香りが立つ。
私はミルに豆を入れ、ゆっくりと回し始めた。
ざり、ざり。
一定の音が、店内の静けさに溶けていく。
男はその音を聞きながら、視線を落としたまま動かない。
湯を火にかけると、やがてポコポコと小さな音が鳴り始めた。
急かすような音ではない。
準備が整いつつあることを知らせるだけの、穏やかな音だ。
挽いた豆をドリッパーに移し、最初の湯を少量、落とす。
ふわり、と。
粉が膨らみ、同時に、香りが一気に立ち上った。
深く、少し甘さを含んだ匂いが、厨房から客席へと流れていく。
男の肩が、わずかに緩むのが見えた。
私は、しばらく待つ。
蒸らしの時間。
この時間が、一杯の味を決める。
やがて、ゆっくりと湯を注ぐ。
円を描くように。
一定の速さで。
滴る音と、湯気。
香りは、次第に店内全体に広がっていく。
壁際の机まで。
窓際の一席まで。
誰かを主張することなく、ただ、そこに在る匂い。
カップが満ち、私はそれを両手で持った。
カウンターを回り、男の机へ運ぶ。
「どうぞ」
男は、小さく頭を下げる。
すぐには口をつけない。
まず、湯気を見つめ、香りを一度、胸いっぱいに吸い込む。
それから、ようやく一口。
ゆっくりと飲み込み、静かに息を吐いた。
それを見て、私は理由もなく安心する。
この人は、急いでいない。
それからしばらく、店内に言葉はなかった。
カップが置かれる音も、椅子が軋む音もない。
ただ、コーヒーが少しずつ冷めていく時間だけが流れる。
男は、一杯を飲み終えると、静かに席を立った。
「……また、来てもいいですか」
扉の前で、振り返らずに言う。
「どうぞ」
私は、そう答えた。
それ以上の約束は、いらない。
男は何も言わずに出ていった。
その日から、
男は三日に一度ほど、顔を見せるようになった。
同じ時間。
同じ扉の開け方。
同じ静けさ。
話は、ほとんどしない。
それでも、その背中があるだけで、
店の空気は少し安定した。
――ここは、来てもいい場所だ。
そう言われている気がした。
私は今日も豆を挽く。
ざり、ざり。
香りが広がり、静かな常連を迎えている。




