閑話 コーヒーの話
私がコーヒーを好きになったのは、ずっと昔のことだ。
まだ、公爵令嬢として多くを求められる前。
王子の婚約者という立場が、私の日常を覆い始める前の話。
その日、私は父の執務室を訪ねていた。
扉を開けた瞬間、
ふわりと、見慣れない香りが鼻先をくすぐった。
紅茶とも、薬草茶とも違う。
少し苦く、けれど鼻に残らない、不思議な匂い。
部屋の奥では、父が書類に目を落としたまま、
黒い液体の入ったカップを手にしていた。
「それは……何ですか?」
思わずそう尋ねると、父はようやく顔を上げ、少し意外そうな表情をした。
「コーヒーだ」
短く、それだけ答える。
「苦いが、目が覚める。
それに……考え事をするには、悪くない」
そう言って、父は私の方へカップを差し出した。
私は一瞬、迷った。
見た目は、決して美味しそうとは言えない。
色は濃く、湯気も控えめだ。
けれど、好奇心が勝った。
恐る恐る口に含むと、まず、苦味が舌に広がった。
正直に言えば、子どもの舌には強すぎた。
甘さもなく、喉を潤す感じもしない。
それでも、不思議と顔をしかめるほどではなかった。
飲み込んだあと、胸の奥がすっと静かになる感覚があった。
父は、私の様子を横目で見ながら言った。
「無理に好きになる必要はない」
その声音は、いつも通り落ち着いている。
「だが、慣れると分かる。
これは、騒がしい場所では飲めない飲み物だ」
私は、その言葉をよく覚えている。
当時は、意味までは分からなかった。
けれど、なぜか心に残った。
後になって、理解した。
コーヒーは、誰かと盛り上がるための飲み物ではない。
会話を弾ませるためでも、場を華やかにするためでもない。
静かな場所で、自分の思考と向き合うための飲み物だ。
王子の隣で過ごす時間が増え、言葉を選び、表情を整え、
感情を表に出さないことが求められるようになってからも。
私が一人になれる時間には、いつもコーヒーがあった。
甘さで気持ちを誤魔化すことはできない。
苦味は、現実をそのまま伝えてくる。
それでも、香りは呼吸を整えてくれた。
熱が冷めていく時間さえ、急かすことはなかった。
だから、安心できた。
無理に前を向かなくてもいい。
すぐに答えを出さなくてもいい。
ただ、ここにいていいのだと、そう思わせてくれた。
だから今、私はこの店でコーヒーを淹れている。
誰かを励ますためでも、
前向きな言葉をかけるためでもない。
ただ、一度立ち止まってもいいのだと、
そう思える時間を差し出すために。
かつて、私自身がそうしてもらったように。




