第五話 最初の一杯
その建物は、私のものになった。
契約を終え、鍵を受け取ったとき、
胸にあったのは高揚ではなく、静かな納得だった。
扉を開けて中に入ると、
外の喧騒は一枚の壁を隔てて遠ざかる。
客席になるであろう空間は、想像していたよりも広くはない。
だが、奥には小さな厨房があり、
手前との間に、低いカウンターが設えられていた。
かつて、何かの店だったのだろう。
使い込まれた木材は、角が丸くなっている。
私は、そのカウンターに手を置いた。
ここから、向こう側が厨房。
ここで、作る。
ここから、渡す。
それだけの構造が、今の私にはちょうどよかった。
私は厨房へ回り、持ってきた道具を流し台の横に並べる。
豆。
ミル。
湯を沸かす器具。
喫茶店。
その言葉を、心の中で静かに置く。
まずは、確かめたかった。
この厨房で淹れる一杯が、私にとって無理のないものかどうかを。
火を入れると、ポコポコと湯が沸き始める。
その音は、客席まで柔らかく届くだろう。騒がしくはない。
ただ、作業が始まったことを知らせる音だ。
私はミルに豆を入れ、ゆっくりと回した。
ざり、ざり。
厨房の中で響くその音は、不思議と落ち着いて聞こえる。
挽いた豆をドリッパーに移し、
カウンター越しに、客席の空間を一度見渡す。
まだ誰もいない。
椅子も、机もない。
それでいい。
粉に湯を少量落とすと、ふわりと香りが立ち上った。
蒸らしの時間。
厨房に満ちる匂いが、空間全体をやさしく包む。
私は、円を描くように湯を注いだ。
急がず、止めず。
滴る音と、湯気。
それだけが、今ここにある。
やがて、カップが満たされる。
最初の一杯。
この厨房で、初めて淹れたコーヒーだ。
一口、口に含む。
苦味と、わずかな酸味。
喉を通ったあとに、静かな余韻が残る。
悪くない。
私はカップをカウンターに置き、しばらく何もせずに立っていた。
この場所で、喫茶店をしながら生きていく。
そう決めた以上、やることは多い。
私は袖をまくる。
まずは、掃除だ。
厨房の棚を拭き、
客席の床に溜まった埃を払う。
布が床を擦る音が、静かに響く。
それが、不思議と心地よかった。
ここは、まだ何者でもない。
けれど、確実に変わり始めている。
私は、厨房から客席を見渡した。
焦る必要はない。
一つずつでいい。
この場所で、生きていくのだから。




