第十七話 最後の再訪
気づけば、そこに立っていた。
通りの向こう側。
視線の先には、小さな店がある。
――喫茶ルポ。
目的があったわけではない。
だが、足は止まった。
エドワード・アルベルト・リヒトハイムは、
自分がその場に立っている理由を、
深く考えようとしなかった。
入らない。
その判断だけは、迷うことなく下される。
今の自分が、あの場所に足を踏み入れていいはずがない。
扉が開いた。
一人の客が、店の外へ出てくる。
見覚えのある背中だった。
――副団長。
いや、今はもう、そう呼ぶ立場ではない。
だが、王城で何度も見たことのある、
背筋の伸びた男だ。
その男が、振り返る。
扉の内側へ向かって、軽く会釈をした。
次の瞬間だった。
店の中から、一人の女性が出てくる。
エドワードの呼吸が、一拍、遅れた。
――誰だ。
反射的に、そう思った。
肩まであった長い髪は、
すっきりと切り揃えられている。
かつて顔を隠すようにかけていた
分厚い眼鏡はない。
伏し目がちだったはずの表情は、
今は、驚くほど明るい。
作った笑顔ではない。
客を見送り、そのまま何気なく言葉を交わす、自然な表情。
「ありがとうございました。
また、お待ちしています」
声は、よく知っているものだった。
だが、知っているはずの“姿”ではない。
アデリア・フォン・ローゼンベルク。
その名が、遅れて脳裏に浮かぶ。
――違う。
思わず、そう否定しかけた。
彼の記憶の中の彼女は、
陰気で、地味で、いつも俯いていた。
だが、目の前にいるのは、違う。
背筋を伸ばし、穏やかに笑い、
誰かを迎え、送り出す女性だ。
副団長が、短く何かを言った。
彼女は、小さく笑って頷く。
そのやり取りに、上下も、緊張もない。
ただの、人と人だ。
その事実が、胸の奥に、
冷たいものを落とした。
――ああ。
彼は、ようやく理解した。
自分が失ったのは、立場ではない。
婚約でも、未来でもない。
彼女が、彼女自身でいられる時間を、
奪っていたのだ。
それを、「守っている」と思い込んで。
副団長が去り、彼女は一度、通りを見渡す。
その視線が、一瞬だけ、
こちらの方向をかすめた。
目が合った――
気がした。
だが、彼女は立ち止まらない。
驚きも、困惑も、ためらいもない。
ただ、扉を閉め、
店の中へ戻っていく。
それだけだった。
――呼ばれない。
――見られない。
それが、答えだった。
エドワードは、その場から動けずにいた。
髪を切ったことも。
眼鏡を外したことも。
表情が、あんなにも明るいことも。
すべてが、自分の知らない彼女だ。
いや、自分が知ろうとしなかった彼女だ。
胸の奥が、静かに、崩れていく。
怒りも、後悔の叫びもない。
ただ、取り返しのつかない事実が、
そこにあるだけだ。
エドワードは、踵を返した。
振り返らない。
もう一度、彼女の姿を確認する資格はない。
遠ざかる背中の向こうで、
喫茶ルポは、今日も変わらず、
誰かを迎え入れている。
彼女は、
もう、“選ばれる側”ではなかった。
自分で、生きる場所を選んだ人間だった。
それを目の当たりにしたことが、
彼にとっての、本当の終わりだった。




