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悪役令嬢のざまぁは、静かなカフェで  作者:


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第十五話 カウンターにて

 その日、喫茶ルポの扉は、ためらいなく開いた。


 入ってきた男は、外套の襟を軽く整え、

 店内を見回すこともなく、まっすぐに歩いてくる。

 窓際でも、壁際でもない。


 迷わず、カウンターの前に腰を下ろした。

 私は、その姿を見て理解した。


 ――ああ。


 名を確かめる必要はない。

 立場を問う必要もない。


 それが誰なのかは、もう分かっている。


「いらっしゃいませ」

 それでも、私はいつも通りに言った。

 

 男は、わずかに目を細める。

「変わらないな」


「お変わりありませんか」


 それは、何気ない問いだった。


 店主としての、ごく普通の言葉。


「ああ。忙しいが……まあ、続いている」


 曖昧で、けれど嘘のない答え。


 私は豆を量り、ミルを回す。


 ざり、ざり。


 その音を、男は懐かしむように聞いていた。


「……ここは、不思議だ」

 ぽつりと、男が言う。


「立場を、そのまま外に置いてこられる」


「そうですね」

 それ以上、言葉はいらない。


 湯を注ぐと、香りが立ち上る。


 特別な豆ではない。

 けれど、丁寧に選び、丁寧に淹れた一杯。


 私はカップを、カウンター越しに差し出した。


「どうぞ」


 男は、そのカップをしばらく見つめてから、

 香りを吸い込む。


 そして、一口。


 表情が、ほんのわずかに緩む。


「……選べなかったことがある」


 唐突だった。


 けれど、重さはなかった。


 私は、手を止めない。

 次の湯を用意しながら、ただ聞いている。


「正しかったかどうかは、今でも分からない」


 男は視線を落としたまま続ける。


「だが……傷つけてしまったことだけは、確かだ」


 弁解ではない。

 後悔を押し付ける言葉でもない。


 ただ、一人の人間としての実感だった。

 私は、そこで初めて口を開いた。


「今は、ここにいます」


 それだけ。


 過去を否定しない。

 未来を要求しない。


 今、ここにいる。

 それが、答えだった。


 男は、もう一口、コーヒーを飲む。


 先ほどよりも、ゆっくりと。


「……苦いな」


「そうですね」


 それでも、男はカップを置かない。

 苦味の奥にあるものを、確かめるように、

 少しずつ飲み進めていく。


 沈黙が落ちる。


 だが、気まずさはない。


 コーヒーの香りが、その間を満たしていた。


 やがて、男は小さく息を吐いた。


「……ありがとう」

 何に対しての言葉かは、互いに分かっている。


「どういたしまして」

 それもまた、店主としての返事だった。


 男は立ち上がり、会計を済ませる。


 名も、立場も、

 ここには置いていかない。


 扉の前で、一度だけ振り返った。


「ここが、君の場所なのだな」


「はい」

 それで、十分だった。


 扉が閉まり、静けさが戻る。


 私は、カウンターの内側で一息ついた。


 過去は、簡単には消えない。


 けれど、一杯のコーヒーが、

 言葉にできないものを、少しだけ溶かすことはある。


 喫茶ルポは、今日も静かに、

 その役目を果たしていた。

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