閑話 壁際に背を預ける理由
あの店に入るとき、
私はいつも無意識に壁際を選んでいる。
背中を預けられる場所。
視界に、入口と店内全体が収まる位置。
考えなくても、身体がそう動く。
私は、王国騎士団副団長ヴァルター・クロイツ
副団長という立場は、前にも後ろにも立たされる役目だ。
前線に出れば、部下の命を預かる。
一歩引けば、上の判断を現場に下ろす。
どちらにしても、背中を気にしない時間はない。
戦場では、背中を預ける壁など存在しない。
だから、壁があるだけで、
身体は勝手に反応する。
扉の位置。
音の反響。
人の気配。
一通り確認し終えて、ようやく呼吸が一段、落ちる。
あの店は、不思議だ。
確認が終わると、それ以上、何も要求してこない。
命令もない。
報告もない。
判断を迫られることもない。
ただ、同じ音が流れ、同じ香りが広がる。
それだけだ。
コーヒーの香りは、嫌でも鼻に届く。
戦場では、血と鉄と火薬の匂いしかない。
それらを押し流すほど強くはないのに、
あの香りは、確実にそれらを遠ざける。
カップに口をつける前、私は必ず一度、息を吸う。
深く、
長く。
その間だけ、判断を止められる。
一口目は、慎重に飲む。
熱さと苦味を確かめ、身体が拒まないことを確認する。
二口目で、
ようやく肩の力が抜ける。
甘さで誤魔化さない味だ。
だから、信じられる。
あの店の女主人は、こちらの立場を聞かない。
名前も、
肩書きも、
戦功も。
それが、どれほど有難いことか。
騎士団では、私は常に「副団長」だ。
名を呼ばれるたび、判断が求められる。
だが、あの店では、ただの一人の客でいられる。
鎧を脱ぐわけではない。
捨てるわけでもない。
ただ、一度、緩めるだけだ。
また着るために。
次に行くときも、
同じ席が空いていればいい。
同じ音が流れていればいい。
同じ一杯が、そこにあればいい。
それで、また前線に立てる。
それ以上は、何も望まない。




