第十話 王子の失策
問題は、小さなほころびから始まった。
その日の外交会談は、本来であれば国王が臨席するはずのものだった。
しかし体調不良を理由に、第一王子が代理として席に着いていた。
会談用に設えられた上座に、
第一王子はさも当然のように腰を下ろしている。
それを誰も咎めないことを、彼は自分の実力だと信じていた。
「心配はいらない」
王子は自信に満ちた声で言った。
「これまでの経緯も、条件も、だいたい把握している」
側近の一人が、わずかに口を開きかけて、
結局、何も言わずに黙った。
本来であれば、その場に立つはずだった人物。
資料を整理し、論点をまとめ、
感情が先走らないよう、言葉を整えていた存在。
――アデリア・フォン・ローゼンベルク。
だが、彼女はもういない。
代わりに王子の隣に控えるのは、
淡いピンク色の髪を揺らすリリアーナだった。
王子は彼女に向かって、誇らしげに微笑む。
「大丈夫だ。君が感じたことを、そのまま言えばいい」
「は、はい……!」
リリアーナは力強く頷いた。
だが、その「感じたこと」は、外交の場では最も不要なものだった。
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隣国の使節が、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「我が国としては、今年度の関税率を――」
「それって、不公平じゃありませんか!?」
唐突な声が、会談室に響いた。
リリアーナだった。
一瞬で、空気が凍りつく。
王子は彼女を見たが、止めることはしなかった。
むしろ、その勢いを肯定するように頷く。
「そうだ。確かに不公平だ」
王子は身を乗り出す。
「弱い立場の国に、
そんな条件を押し付けるのは正しいとは思えない」
使節の表情が、わずかに硬くなった。
それは、事前の書簡で合意されていた前提を、
感情論で覆す発言だった。
宰相が、控えめに咳払いをする。
「殿下。その条件は、先月の文書にて――」
「分かっている!」
王子は苛立ったように言葉を遮る。
「だが、私は民の声を第一に考えたい!」
聞こえはいい。
だが、その言葉に根拠はなかった。
結局、その日の会談はまとまらなかった。
条件は白紙に戻され、隣国は不信感を隠そうともしない。
会談後、執務室に戻った王子は、机を叩いて声を荒げた。
「なぜだ!私は間違ったことを言っていない!」
誰も、すぐには答えなかった。
沈黙に耐えきれず、王子は吐き捨てるように言う。
「……あいつがいれば、
こんなことにはならなかったとでも言うのか?」
側近たちは、視線を逸らした。
否定できなかったからだ。
王子は知らなかった。
これまで、自分の言葉がどれほど慎重に整えられていたかを。
感情を口にする前に、どれほど多くの調整がなされていたかを。
それを担っていたのが、
「地味で何もしていない婚約者」だったことを。
その日の夕刻、
宰相は王子の報告書に目を通し、静かにペンを置いた。
「……これでは、次はないな」
呟きは、誰にも届かない。
一方、王都の外れ。
喫茶ルポでは、いつも通り豆が挽かれていた。
ざり、ざり。
湯が注がれ、香りが静かに広がる。
この場所には、
怒号も、失策も、ない。
あるのは、一杯のコーヒーと、
考えるための時間だけだ。
王子の失策は、
まだ始まったばかりだった。




