Episode05
聖と夜の浜辺を歩いた。
夏の夜風が心地よく頬をかすめる。
やがて辿り着いた砂浜は、驚くほど静かだった。
遠くでは、聖が着けた焚き火の明かりがゆらゆらと揺れ、
夜の闇の中で小さく呼吸しているように見えた。
波打ち際。
波がさらりと寄せては引き、サンダル越しにひやりとした感触を残していく。
見上げれば、空はどこまでも広がっていて。
俺は、その光景にただ見惚れるしかなかった。
「な? ここ。誰もいなくていいだろ?」
聖が得意げに笑う。
「ここ、人魚の歌声が聞こえるって噂があるらしいよ。なんかロマンチックだよな!」
「あっ……ここが、その人魚の浜辺だったんだ」
思わず反応すると、聖は
「おっ、そういうの興味ある? よかっただろ、着いてきてさ!」と
からかうように笑った。
二人は砂の上に腰を下ろす。
夜空には白い星がびっしりと散りばめられ、
波音と風だけが、時間をゆっくりと運んでいく。
俺は指先で星座をなぞり、線で結ぶように空を歩かせた。
「……綺麗」
つい零れた言葉に、聖が優しく笑みを返す。
「俺さ、こうやって空見るの、好きなんだ。実家でもよく海と空を見てた。なんか、心が休まるんだよね」
少しの沈黙のあと、聖がこちらを見た。
「なあ、瑠偉ちゃん? 今日は楽しかった?」
「まあ、海に落とされたのは最悪だったけどね」
「絶対楽しかったくせにー。ニヤニヤしてたぞ?」
「してない」
「してた!」
「してない!」
「してたー!」
「……してない!」
「してたぁぁ!」
「……うるさぁ」
終わらなさそうなやり取りに、ついに降参。
口元から自然に笑みがこぼれる。
「やっぱり笑ってた方がいいじゃん」
聖が小さくそう呟いた。
俺は、あえて聞こえないふりをした。
けれど心の奥で、あたたかいものが広がっていくのを感じた。
自分のことを肯定されたような、そんな気がした。
人魚の歌声は聞こえなかったけど
代わりに胸の奥を優しく撫でるような、
あたたかい音だけは確かに響いていた。
星を見ながら、他愛もない会話を交わした。
時間を忘れるほどに、夜は短かった。
慌ててテントへ戻ると、クラスメートたちはすでに静かな寝息を立てていた。
ランタンの光も落ち、夜の気配がしんと漂う。
◇
2020年6月28日(日)
寝袋に潜り込み、背中合わせになったまま、
俺はぽつりと聖に声をかけた。
「……なんかさ。こんなふうに友達と喋ったり、楽しんだりするの。俺、初めてだったよ」
少し間を置いて、
「緊張したけど……なんか、打ち解けられた気がする」と続ける。
「それならよかったよ」
聖は短く返す。
「……聖がいたからかも。ありがとう」
その言葉に、聖は小さく笑った。
「ずるいな」
「え?」
「そんなふうに言われたら、俺……調子に乗っちゃうじゃん」
「……知らない」
瑠偉は肩をすくめ、寝袋をぎゅっと抱き込む。
「瑠偉ちゃんってさ……可愛いよな」
「はあ? 知らないっ!」
「ふはは、はいはい」
静かな笑いが、夜に溶けていった。
◇
そりゃそうだよな。
知らない土地に一人で来て、慣れないクラスで過ごすなんて。
打ち解けられないのも無理はない。
俺はこんな性格だから、ああいう壁にぶつかったことはなかったけど
瑠偉を見ていたら、なんか放っておけなかった。
声をかけずにはいられなかった。
「……あんまり無理しすぎんなよ」
俺の言葉に、返事はない。
「笑えるときでいいからさ。笑いたいときに笑えばいいじゃん。
笑顔を隠す必要なんてないよ。なんかあったら、みんなに話せばいい。
俺じゃなくてもいいけど、みんな優しいやつらばっかだから」
少しだけ息を飲んで、続けた。
「せっかく可愛い笑顔なんだから、もったいないって。
……俺は好きだよ、瑠偉ちゃんの笑顔」
「まあ、いつもの冷たい瑠偉ちゃんも、
それはそれで瑠偉ちゃんらしくていいけどさ」
その瞬間、瑠偉の肩がほんのわずかに震えた。
体を起こして覗き込むと、
寝袋の中で顔を見られまいと必死に隠しながら、
瑠偉は一筋、涙を流していた。
え? と思った次の瞬間には、
もう寝息が聞こえていた。
「寝るの早っ……」
小さく笑いながら、その寝顔を見つめる。
すやすやと寝息を立てるその横顔に、不思議な気持ちになった。
「……ごめん」
理由もわからないまま、唇が近づいていた。
ほんの一瞬だけ。
ファーストキス。
なぜそうしたのかはわからない。
ただ、気づいたときには。
「おやすみ、瑠偉ちゃん。また明日」
囁くように呟き、目を閉じた。
◇
目を開けると、聖はすでに起きてスマホをいじっていた。
外からは、クラスメートたちが片付けをしている声が聞こえる。
「おはよ……」
軽く声をかけると、聖は少し間を置いて
「あ……おはよう」と返した。
「あれ? もしかして俺寝坊した? 起こしてくれればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたからさ。邪魔したくなかったんだよ」
ふと顔を上げると、聖の視線が俺の口元で止まった。
一瞬かと思えば、またすぐに同じ場所へ戻る。
……何か、ついてる?
それとも、ただの気のせい?
心の中で首をかしげながらも、あえてスルーして外の声に耳を向けた。
少しして浜辺に出ると、俺はゴミの分別係を任されていた。
海風に吹かれながら、紙皿や空き缶を袋に詰めていく。
少し離れたところで、聖がテントを解体していた。
ポールを外しながら
「なんで俺、こんな大変な係なんだよー」と
笑い混じりにぼやく声が風に乗って届く。
やがて全ての片付けが終わり、
それぞれが帰り支度を始める。
羽衣浜は、昼の日差しの下でもなお、どこか柔らかく揺れていた。
白い砂は足跡をゆっくりと飲み込み、波は変わらないリズムで寄せては返す。
『人魚の歌声』の噂。
この光景の中なら、本当にありそうだと、瑠偉は思った。
海を背に、二人で坂道を上がっていく。
背後では、波がきらきらと光を反射していた。
途中で俺は立ち止まり、聖の顔を見た。
視線がぶつかると、すぐに逸らしてしまったけれど。
「聖、誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった。……俺、来てよかったよ」
ちゃんと感謝の気持ちを伝えた。
聖は一瞬きょとんとしてから、満面の笑みを浮かべる。
「いいって! またやろうな、こういうの!」
そう言って、親指をぐっと立ててみせた。




