Episode31
2020年3月31日(火)
新学期が始まる前のその日、俺の誕生日だった。
自己紹介のときに、よく「えっ、最後なんだ!」とか「一番遅い誕生日だね!」なんて笑われる。けど、そんな会話ももう遠い。
最後に誰かに祝ってもらったのがいつだったか、正直思い出せない。そのくらい、いつの間にか『何でもない日』になっていた。
誕生日なんて、誰かが覚えてくれてこそ意味を持つんだと思う。
でも、それがなくなった途端、ただの数字になる。
だから俺も、覚えていなかった。自分の誕生日すら。
聖から誘いがあったのは一週間前だった。
「31日、空けといて!『灯し火』でご飯食べよう!」
そう言われて、なんとなくスケジュール帳に書き込んだ。そのとき、ふと気づいた。この日、俺の誕生日だって。
その瞬間、嬉しくて心が跳ねた。
たまたまでもいい。聖と一緒に誕生日を過ごせるなんて。
だけど、自分から「今日、誕生日なんだ」なんて言うのは絶対に無理だった。
そんなの、まるで『祝ってほしい』って言ってるみたいで、痛い奴みたいに思われそうで。
そして当日。
俺は鏡の前で、何度も髪を整えていた。寝癖を直して、少しだけワックスをつけて、横の髪を耳にかけてみる。
鏡を見るのは好きじゃなかった。頼りない顔が映るたびに、なんだか嫌になるから。
けれど今日だけは違った。
鏡の中の自分は好きな人に、少しでもちゃんと見てもらいたい俺だった。頼りない自分の顔はそこには映っていない。
そのことに気づいた瞬間、頬が熱くなった。視線を逸らしながら、思わず笑う。
「……大丈夫、いけるよ。瑠偉。がんばろ」
小さく呟いて、鏡の中の自分にエールを送る。
外は春の風。カーディガンの袖を整えて、玄関を出る。胸の奥が、ほんの少し痛いくらいに高鳴っていた。今日も聖に会える。
◇
約束の時間17時。
俺は港の坂を下りきり、カフェ『灯し火』の前に立っていた。
夕方の潮風が、髪をやわらかく撫でていく。
古民家を改装した店のガラス窓からは、海の光が反射してきらめいていた。
聖、蒼空、はるひ。みんなで何度も訪れた場所。けれど、今日は少しだけ違う。胸の奥で、言葉にならない音が小さく鳴っている。
入り口の脇で加熱式タバコをくゆらせていたのは、カフェのスタッフ・亜美さんだった。
「やほー、瑠偉ちゃん! いらっしゃい! 聖、きてるよ!」
笑顔で手を振る彼女の声が、潮風に混ざって弾む。
「こんにちは。今日はお邪魔します」
軽く頭を下げると、亜美さんはニッと笑って俺の肩を軽く叩いた。
「青春していけよー!」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
『青春していけよ』亜美さんの口癖だ。
年は25歳。お団子ヘアが似合う明るい人で、いつも笑顔が絶えない。
元々、新都で暮らしていたらしく、同郷とあってその話題になるとよく盛り上がった。
俺も聖も、蒼空も、はるひも、『灯し火』に来るときはいつも彼女に元気をもらっていた。
案内されて店の中に入ると、潮の香りとココアの甘い匂いが混ざり合って、落ち着く空気が胸に広がった。
窓際の席は、みんなの特等席。そこに、聖がいた。
海を背に座るその姿は、どこかいつもより大人びて見えた。
整えられた髪、シャツの襟元。落ち着いた色の服がよく似合っていて、思わず足が止まる。
……かっこいい。
小さく手を振ると、聖が気づいて笑った。
その笑顔に、胸の鼓動が少し早くなる。
俺も控えめに手を振り返して、テーブル席へ向かった。椅子を引く音がやけに大きく響いた気がして、
「……ごめん」なんて口に出してから、なんで謝ったんだろうと自分で苦笑する。
亜美さんが運んできたのは、いつも俺が頼むホットココアだった。湯気がふわりと立ちのぼる。それだけで少し安心した。
聖の前に座り、俺はカップを両手で包む。
どうしよう。なんだか、うまく言葉が出てこない。
今日の空も、海も、彼の笑顔も。全部、やけに眩しかった。




