Episode21
2020年10月10日(土)PM5時
「おじゃましまーす」
聖はいつもの軽い調子で声をかけると、迷いなく靴を脱ぎ、まるで自分の家みたいに部屋へ上がり込んできた。
ノートやプリントが机の上に広がり、窓からは秋の夕方の光が差し込んでカーテンを淡く染めている。
テーブル越し、向かい側に座る聖に俺は声をかけた。
「てか、もう夕方だよ? ご飯どうする?」
「うーん…なんも考えてなかった。ちょっと腹減ったかも」
「食べに行く?うち、食材とか何にもないし。即席の袋麺くらいしかないからさ」
そう言うと、聖はふっと笑って立ち上がった。
「じゃ、それでいいじゃん」
本気じゃないと思っていたのに、気づけば聖は戸棚を開け、冷蔵庫を覗き込み、卵やネギ、残っていたハムを取り出していた。
「なにしてるの?」
「ラーメン作ろうかなって思って!これ使っていい?」
「え、うん。いいけど……」
慣れた手つきで湯を沸かし、フライパンを温め、ハムを炒める。
じゅう、と音を立てて広がる香ばしい匂いに、しょうゆとごま油の香りが混ざった。
その香りに包まれながら、俺はただ、夕陽の光を浴びる聖の横顔を見ていた。
自炊なんて必要最低限しかしない俺とは違う。
レシピも見ず、当たり前のように手を動かすその姿が、いつもより少し大人に見えた。
「はい、できたー!じゃじゃーん!」
差し出された丼には、袋麺とは思えないほど彩りのあるラーメン。
半熟の卵、刻んだネギ、香ばしいハム。湯気の向こうで、聖の笑顔が揺らめいている。
「……すごい!聖、料理できるんだ」
「そりゃ作れるよ。風浦にいた頃、妹に毎日作ってたし」
「えっ、なんかずるい」
「なにが?」
「ちゃんとしてなさそうなのに、ちゃんとしてるとこ」
思わずこぼれた言葉に、聖は目を瞬かせたあと、照れくさそうに笑った。
「へへっ、ありがと。てかさ、それ褒めてる?」
「あはは、一応ね。いただきます!」
スープをすくって口に運ぶと、思っていたよりずっと美味しかった。
ちゃんとひと手間かけられていて、優しい味がする。
野菜にもハムにも、どこか家庭的な温もりがあった。
「お、美味しい! 聖、すごい!」
「へへっ、口に合ってよかった!袋麺って意外と奥深いんだぜ?簡単に出来るのが袋麺のいいとこだよな!」
「いやいや、これ簡単のレベルじゃないって」
笑い合いながら、箸を動かす手が止まらなかった。
その時間が、ただ楽しくて。
ほんの少しの沈黙すら、心地よく感じた。
◇
食後、二人で縁側に出た。
風が少し冷たくなり始めた秋の夜。
暮れかけた陽が屋根の向こうに沈み、空が淡い群青に変わっていく。
「……やっぱ、雅の空ってきれいだよな」
聖がぽつりと呟く。
「うん。秋の空って、なんか遠く見える。空気が澄んでて」
空を見上げて黙る。
それだけで十分だった。
ふと、俺は思い出したように口を開いた。
「そういえばさ。今日、蒼空とはるひ、手繋いでたよね」
「え、うそ? マジで?」
「うん。なんかもう、幼馴染って感じじゃなくてさ。自然に手を繋いでて……すごいお似合いだった」
聖は少しだけ目を細めて、空を見上げた。
「青春してるよなー。青春、いいよなー。ちょっと羨ましいなー」
その声に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
風が頬をかすめ、沈黙が落ちる。
言葉にできない何かが、喉の奥でつかえた。
「そういえばさ、聖って……彼女いないの?」
「えっ? いないいない!」
笑いながら両手をぶんぶん振って否定する。
「彼女欲しいって思わないの?」
「うーん……あんまり考えたことないかも。俺、そういうの全然わかんなくてさ」
「意外。聖って、ちょっとチャラそうなのに」
「おいおい、それ偏見だろ!」
大げさに眉をしかめて、
「俺、好きな人にはちゃんと尽くすタイプだぜ?」
と白い歯を見せて笑う。
その笑顔を見た瞬間、その言葉を聞いた瞬間、安心している自分に気づいて、少しだけ戸惑う。
いつからだろう。
聖に対してモヤモヤした気持ちを持ち始めたのは。
気づけば、聖のことばかり目で追っていた。
声のトーン、仕草、笑い方。気になって仕方ない。
決定的だったのは、久遠旅行の日だった。
優しい言葉に、優しい手の温度。
そして、頭を撫でられながら聖の胸で感じた体温。
聖はまっすぐだし、いい意味で悩んでる人がいたら
きっと誰にでもそうするんだろうけど
あんなのされたら...誰だって...。
男が男を好きになるなんて、昔の俺なら考えもしなかったし、
それを拒絶した過去があるから今の自分がいる。
でも今はもう、否定できなかった。
これは、間違いなく『好き』ってことなんだ。
「じゃあさ、好きな人はいないの?」
聖は少し間をおいて、空を見上げた。
「好きな人かー……気になる人は、まあ、いるかな」
「え、誰?同じクラス?」
「教えないけど!」
「えーっ。」
いたずらっぽく笑って、俺の肩を軽く突く。
だけどその仕草が、いつもより近く感じた。
◇
こんなもどかしい距離感が、俺にとっての青春なんだと思う。
隣にいて、笑って、同じ空を見上げる。それだけで、心が満たされる。
けれど、この気持ちは絶対に伝えられない。
だって、俺も聖も、男だから。
もし伝えてしまったら、壊れてしまう。
この穏やかな時間も、笑い合える関係も。
手を伸ばした瞬間に、全部が音を立てて崩れてしまう。
……そう、あの時みたいに。
近ければ近いほど失った時の傷口は大きくて、痛い。
だからこの距離のままでいい。
胸の奥の熱をそっと隠しながら、隣で笑う聖の横顔を見つめていた。
片思いのままでも。その笑った顔が見ていられるなら
俺はそれだけで十分だから。




