Episode01
夕方の雅島を散策して帰ってきた俺は、汗ばんだ肌の不快感と、あの自転車の少年にぶつかった苛立ちを洗い流すように、すぐシャワーを浴びた。
ぬるめの水が首筋を伝って落ちていくたび、胸の奥に溜まっていたざらつきが少しずつ薄れていく。
シャワーを終えて鏡を見ると、そこには頼りない自分が映っていた。
鏡を見るのは、あまり好きじゃない。
肌は白く、日差しを浴びるとすぐに赤くなる。腕も細く、肩も華奢だ。
そういう見た目のせいなのか、昔から「女の子みたい」と言われることが多かった。
そのたびに、少しだけ居心地が悪くなる。
「男子っぽくない」という言葉が、胸の奥に小さな棘のように残る。
そして...腰に残る痣
その痣を見ると、いまだに心が抉られる。
鍵のかかった心の扉。
開けてはいけない記憶の奥に、それは沈んでいる。
髪はダークブラウンで、前髪が少し目元にかかる。風が吹くとふわりと跳ねて、整えてもすぐ元に戻る。もう諦めている。
人と目を合わせるのが怖い。誰かに名前を呼ばれるたび、少し身構えてしまう。
笑うのも、話すのも、どこか演技みたいで息が詰まる。
「普通の男子」になりたかった。ただ、それだけなのに。
どうしてこんなに難しいんだろう。
そんな自分と、毎日のように戦っている。
疲れる生き方だと分かっていても、これが、俺だから仕方ない。
──知らない部屋の天井が、やけに遠く見えた。
布団に入っても、ほとんど眠れなかった。
虫の声や風の音がやけに耳について落ち着かない。
小さな瓶から睡眠導入剤を取り出し、水で流し込む。
これを飲めば、少しは眠れるはずだ。
こんな生活が、いつか変わっていけばいい。
ぼんやりとそう願いながら、目を閉じた。
◇
2020年6月15日(月)
翌朝。
制服に袖を通す。白いワイシャツに青のネクタイ、青と黒のチェックのズボン。
この高校の制服は正直好きだった。
大好きな色が使われているし、冬服が学ランではなくブレザーだというのも気に入っていた。
鏡の中の頼りない自分に「大丈夫」と小さく呟き、玄関を出る。
坂を下って川沿いを歩く。
六月の雅島は、朝から湿気を含んだ空気がまとわりつくように暑い。
木々の葉は濃く茂り、海からの風に揺れている。遠くでは蝉が鳴き始めていた。
新都の雑踏とはまるで別世界。
この静けさにも、そのうち慣れてくるだろう。そう思うと、少しだけ足が軽くなった。
校門の前で、若い男性教師が笑顔で迎えてくれた。
「瀬名くんだね。今日からよろしく。緊張してると思うけど、大丈夫だよ。
クラスは二つだけだし、離島留学の子もいるから、島民じゃない生徒も何人かいるんだ」
軽く肩に触れられた瞬間、反射的に拳を制服のポケットに隠した。
廊下を歩く間、心臓の音がやけに耳に響く。早く終わってほしい。
「今日から新しい仲間が増えます。入ってください。」
教室の扉が開かれ、担任が黒板に俺の名前を書いていく。
カツ、カツ、とチョークの音がやけに大きく響いた。
全員の視線が一斉にこちらへ向く。
「……瀬名瑠偉です。よろしくお願いします」
声は少し震えていた。
教室内がざわつき、いくつかの声が耳に届く。
「えっ……かわいいー!」
「新都から来たんだって」
下を向いていても、視線の熱が肌に刺さる。
「じゃあ瀬名くんは……秋月の隣ね」
窓際の後ろ。指示された席へ歩く。
何分もかかったような気がした。
そして、その隣にいたのは。
「あっ。あーっ!」
思わず声が出た。
昨日、自転車でぶつかってきて、謝りもせずに去ったあの少年。
白い歯を見せ、眉を下げて笑う。
「昨日は悪かったな。へへ……あんな急に曲がって来ちまって。俺、秋月 聖。よろしくな!」
軽い調子。飄々とした笑み。
俺は目を逸らし、短く返す。
「……うん、まあ。よろしく」
「え?もしかして怒ってる?」
覗き込むように聞いてくる。
「……別に」
窓の外へ視線を逸らした。
やっぱり、第一印象は最悪だ。
それでも、秋月の存在だけはやけに目に、耳に残る。
暗くて人付き合いが苦手な俺とは正反対で、眩しいほど明るい。
昨日の一件もあって、少し鬱陶しく感じた。
……適度に距離を置こう。そう決めた。
授業が始まってまもなく、隣の秋月はノートも取らず、腕を組んで今にも寝落ちしそうに目を細めていた。
まぶたがゆっくりと上下し、やがて机に頬を預ける。
先生の声とチョークの音が、まるで子守唄みたいだ。
朝あれだけ元気だったのに、この気の抜け方はなんなんだ。
…苦手だ、こういうタイプ。
休み時間になると、その印象はさらに強まった。
秋月が教卓の前に腰掛けると、あっという間に人が集まってくる。
誰かが話せば、すぐに笑い声が返る。
彼がそこにいるだけで、空気が明るくなるのが分かった。
なるほど。この人は“輪の中心”にいるタイプなんだ。
初日で、それがもうわかる。
俺は窓の外を見つめた。
雲の切れ間から光が差し、校庭の端に影を落とす。
背中越しに響く笑い声が、遠く感じた。
そして放課後。
チャイムが鳴ると同時にリュックを肩にかけ、できるだけ目立たないように教室を出た。
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声がする。
「瀬名くん? 帰り道わかる? もしよかったら俺が島、案内するけど」
振り返ると秋月が立っていた。昨日と同じ、人懐っこい笑み。
「家、どの辺なの?」
「休みの日とか、行きたいとこある?」
「新都から、来たんだっけ?」
質問、多すぎ。
「……大丈夫」
ため息を隠さずに返し、靴ひもを締めて先に歩く。
追いかけてくる足音はない。代わりに、背中越しに軽やかな声が響いた。
「じゃあ、また明日なー!」
見なくてもわかる。
きっと、あの笑顔で手を振っているんだろう。
ため息をひとつ落とし、俺は歩幅を少しだけ速めた。




