Episode14
昨日の夜、俺は悪夢を見ていた。それは、過去に起きた忌まわしい記憶。
息ができなくて、声も出なくて、誰も助けてくれないまま闇の底へ沈んでいく感覚。
どれだけ忘れようとしても、時折こうして姿を現しては、俺を捕まえて連れ去ろうとする。
昨夜もそうだった。大量の睡眠薬を飲み、意識が滲んでいく中で、俺は悪夢の中を彷徨っていた。
そのとき。
誰かが呼ぶ声がした。やさしくて、懐かしくて。
自分の名を呼ぶその声に、思わず振り返りたくなった。
そして、暖かい手が重なった。
かすかな温もりに、心の奥の闇がほどけていくようで。
触れていると、不思議なほど安心できた。
沈み込んでいた体が、ふっと浮かび上がっていく気がした。
もしかして、誰かが苦しんでいる俺を見つけて、そっと寄り添ってくれたのかもしれない。
目を閉じると、そのときの温もりがまだ心を包み込んでいる気がして、優しく撫でられているようで胸が熱くなる。
あの手は、誰だったんだろう。
言葉にすると、胸がキュッと締めつけられる。
朝、目を覚ましたとき、目は赤く腫れ上がっていた。
それを隠すように帽子を目深にかぶり、港へ向かった。
港に向かう途中、必死に自転車を漕ぐ聖の姿を見かけた。
けれど、目を見られるのが怖くて、物陰に身を隠した。
やり過ごして、わざとタイミングをずらした。
だけど——。
蒼空に目のことを聞かれて、答えられずに固まった俺を、聖はさりげなく救ってくれた。
どうしてあんな嘘をついて庇ってくれたんだろう。
そのときの聖の声は、不思議なほど優しくて、強かった。
もしかして。
名前を呼んでくれた声、あの優しくて、温かい手は……聖だったのだろうか。
まさかね。
言葉にしたら壊れてしまいそうな、ガラス玉のように透き通った気持ち。
胸の奥でカラカラと鳴るような繊細さに、自分でも戸惑ってしまう。
風がまた頬を撫で、俺はそっと目を閉じた。
膝を抱える手に力が入る。
空を仰ぐと、久遠の夜空は澄み切っていた。
散りばめられた星たちが、ひとつひとつ呼吸するように瞬いている。
山々の稜線は墨絵のように闇に溶け、温泉街の提灯の明かりが川面に映り込む。
まだ痛む心。
それでも、暗い扉の隙間から、今までになかった小さな光が差し込んでくるような気がした。
夜風に冷えてしまった俺が布団に戻ると、聖は相変わらず無防備にいびきをかきながら眠っていた。
その寝顔を見て、ふっと笑みがこぼれる。
俺は静かに目を閉じ、ようやく眠りに落ちていった。
◇
2020年8月11日(火)AM 6:30
朝の気配で目が覚めた。
隣の布団に聖の姿はない。寝ぼけた頭で辺りを見渡すと、わずかに開いたバルコニーの窓から、ひんやりとした朝の風と光が差し込んでいた。
その光に誘われるように、そっと覗く。
そこには、白いイヤホンを耳に差した聖がいた。
バルコニーの椅子に腰かけ、静かに口を動かしている。
歌っているのだろう。けれど、声は聞こえない。
朝の澄んだ空気の中、浴衣姿の彼はまるで別人のようだった。
普段の豪快な笑顔やふざけた声からは想像できない、真剣で研ぎ澄まされた横顔。
その表情は、同級生という距離を一気に飛び越えて、どこか大人びた、不思議な色気を纏っていた。
(なんか、かっこいい……)
そう思った瞬間、自分で驚いた。胸の奥が、きゅっと小さく締めつけられる。
考えるより早く、勢いよく部屋のドアが開いた。
ドアを開けて入ってきたのは、蒼空だった。
「おはー!」と、いつも通りテンション高めの声。朝の静けさが一瞬で吹き飛ぶ。
「あ、おはよ。蒼空。」
「……あれ?聖は?」
唐突な問いに、俺は咄嗟に視線を逸らしながらバルコニーを指差した。
「そこ……」
「なになに、そんな覗き込んで……喧嘩でもしたんか?」
ニヤつきながら首を傾げる蒼空に、慌てて首を振った。
「し、してないよ!」
そのやり取りに気づいたのか、聖がイヤホンを外して振り返る。
「おはよ」
落ち着いた声。いつもの聖だ。
蒼空はニカッと笑い、布団をぐいっと避けて中央に座る。
「よし!昨日の報告会だ!」
勢いよく宣言すると、自然とその周りを囲むように俺と聖も座り込んだ。
聖は目を輝かせて身を乗り出す。
「なになに!なになに!」
蒼空は胸を張り、わざと真面目な顔を作った。
「わたし、はるひちゃんに告白いたしました!」
「えっ!」
俺と聖は同時に声を上げて、顔を見合わせる。
「それで?それで?!」
聖が前のめりに詰め寄り、俺も思わず頷いた。
蒼空は両手を広げ、もったいぶるように何度も首を振る。
「なんと……なんと……なんとぉ……」
「早く言えよ!」
聖が焦れたようにツッコむと、蒼空は堪えきれずに叫んだ。
「OKでしたーーー!!!」
「うおおお!!!」
「すごい!!!」
俺と聖は同時に蒼空の肩を叩き、全力で祝福した。
「やったね!」
「すげー!最高だな!」
蒼空は照れ臭そうに笑いながら、メガネをクイッと上げる。
「ま、まあ、その……付き合いはしたけどさ。俺らのこと、これからも今まで通りよろしく頼むわ」
「もちろん!!」
俺と聖の声が重なり、笑いが部屋いっぱいに弾けた。
◇
2020年8月11日(火)AM 7:10
朝風呂から戻ってきたはるひを加えて、4人で旅館の朝食を囲んだ。
焼き魚に湯気の立つ味噌汁、地元の野菜を使った小鉢がいくつも並び、まるで小さな宝石箱のようだった。
「朝から豪華すぎる!」と蒼空が箸を構えると、
聖は「これほんとに無料なんだよな……?」
とまだ信じ切れていない様子。
そんなやり取りに笑いながら、俺たちは一気に食べ進めた。
食事を終えると、それぞれ準備を整えて旅館を出発する。
目指す先は「幽霧の滝」
久遠を代表する観光スポットで、テレビやSNSでもたびたび取り上げられる有名な場所。
その一方で、自殺の名所や心霊スポットとしての噂も後を絶たない。
俺には、幼い頃に両親に手を引かれてこの滝を訪れた、ぼんやりとした記憶がある。
けれど、それ以上はどうしても思い出せない。
記憶の奥に、硬く閉ざされた蓋があるようで。
今の俺には、その扉を開くことがまだできなかった。




