Episode13
湯けむりの向こうに、朱に染まった山の稜線が重なっていた。
石造りの露天風呂は広々としていて、肩まで湯に沈めば、熱がじんわりと身体の芯にまで染みていく。
湯面には、風に散らされた木の葉が時折浮かび、暮れゆく空の色を映しては、ゆらゆらと溶け合っていた。
俺たちはそんな湯に身を沈めながら、授業の愚痴や先生のモノマネ、くだらない話ばかりで笑い合っていた。
隣の女湯からは、はるひの甲高い笑い声。
それに蒼空が悪ノリして返し、聖が大声で突っ込む。
湯けむりの合間に響く笑い声が、心地よく夜の気配に混ざっていった。
やがて湯から上がり、脱衣所で浴衣に着替える。
聖と蒼空は帯に悪戦苦闘していて、特に聖の帯は見事に斜めへずれていた。
「なにそれ、全然結べてないよ」
思わず笑って、俺は聖の前にしゃがむ。
帯を取り直し、背中に回して結び直す。
近づいた瞬間、温泉で温まった聖の体温と石鹸の爽やかな香りが、ふっと鼻をかすめた。
心臓が一瞬だけ跳ね、息を整えるように深呼吸してから帯を締める。
「あっ……ありがと」
結び終えた聖は、少し照れたように目を逸らした。
その様子を見ていた蒼空は頬を赤く染め、俺と聖を交互に見つめている。
普段のように茶化すこともなく、ただ静かに。
俺はその視線に少し戸惑いながらも、浴衣の裾を直すふりをして目を逸らした。
◇
部屋に戻ると、共用の和室には大きなちゃぶ台が置かれ、仲居さんが次々と料理を並べていく。
色とりどりの前菜、湯気を立てる陶板焼き、艶やかに盛られた舟盛り。
黄金色の天ぷら、香ばしい土鍋ご飯まで――まるで小さな宴会だった。
「やっば! 旅館のご飯ってこんなに豪華なの!?」
はるひが大げさに声を上げると、蒼空はすぐにスマホを構えて写真を撮りまくる。
「見てこれ、映える映える!」
「てか……本当にタダでいいの? 瑠偉ちゃんのばあちゃん、怒らない?」
聖が箸を持ったまま心配そうにつぶやく。
「だいじょうぶ。ほら、食べよ!」
そう言うと三人は笑いながら箸を伸ばした。
「うまっ!」「ヤバ、これ幸せすぎ!」
笑い声と湯気が混ざる。
この時間が、ずっと続けばいいのにと思った。
◇
食後は明日の予定を話し合った。
目的地は『幽霧の滝』。
「朝早く行かないと混むかもな」
「じゃあ、八時出発で!」
ワイワイと盛り上がりながら、プランを決めていく。
やがて、聖が大きなあくびをして
「ねむ……。わり、早いけど寝るわ」と立ち上がった。
部屋を出る前、ふと振り返り、蒼空に向けて親指を立てる。
「……!」
蒼空は驚いたように目を瞬かせ、すぐに照れたようにメガネを押し上げ、同じように親指を立て返した。
その一瞬のやり取りを、俺は見逃さなかった。
けれど何も言わず、笑いを噛み殺して視線を逸らした。
◇
2020年8月10日(月)PM21:00
寝室に戻ると、畳の上には整然と布団が敷かれていた。
畳の香りがふわりと鼻をくすぐる。
懐かしい香りは心をほぐし、疲れを静かに溶かしていった。
開いた窓からは、久遠の夜風がすっと入り込み、障子をやわらかく揺らす。
静かな虫の声と遠くの川のせせらぎが重なり合い、まるで子守唄のように響いていた。
「つかれたぁぁぁ……」
聖が大げさに声を上げ、布団の上にドサッと腰を下ろす。
「こういう時間が、なんだかんだ一番落ち着くかも」
俺がそう言うと、聖はにやりと笑い、悪戯っぽく目を細めた。
「なぁ、蒼空……今日、告るのかなぁ」
声をひそめながらも、目だけがキラキラしている。
「ていうかさ、もう始まっちゃったりして……」
「何が?」
俺が真顔で聞き返すと、聖は一瞬たじろぎ、ぎこちなく両手でジェスチャーをした。
「っ……!!」
顔が一気に熱くなり、思わず布団を叩く。
「ばっ……バカ! 何言ってんの!」
「冗談だって、冗談」
肩をすくめながら笑う聖。
そのまま大の字になったかと思うと、ほんの数秒で寝息を立て始めた。
その無防備な寝顔に、思わず小さく笑ってしまう。
俺も目を閉じてみたけど、眠れなかった。
まぶたの裏に昨夜の夢の続きがちらつく。
暗闇に引きずり込まれるようなあの感覚が、まだ消えない。
気配を殺して布団を抜け出し、縁側のように造られた木のバルコニーへ出る。
椅子に腰を下ろし、膝を抱えて座る。
夜風が頬を撫でた。
秋を先取りした風が、夏の名残をさらうように吹き抜けていく。
その冷たさが、熱を持ってざわめく胸の奥を、ほんの少しだけ静めてくれる気がした。




