Episode11
2020年8月10日(月) AM9:45
俺はシートに座り、船体のかすかな振動を背中で感じていた。
窓の外では、朝の光を受けて海面がきらきらと輝いている。
波が船の腹を叩くたびに光が弾け、粒となって舞い上がった。
振り返ると、雅島の輪郭が少しずつ遠ざかっていく。
港の赤い屋根や灯台の白い影が、朝靄の中でぼんやりと溶けていく。
まるで『昨日』という時間ごと、海の向こうに流されていくようだった。
そんなとき、正面に座った蒼空が俺の顔をじっと見た。
「……あれ? 瑠偉? 目、腫れてない?」
心配そうな声。すぐ隣からはるひも身を乗り出す。
「ほんとだ、大丈夫?」
言葉が出なかった。
まさか「夢を見て泣いて、それで腫れた」なんて言えるはずがない。
戸惑って唇を噛み、黙り込んでいると。
「あー、それね!」
聖の声が割り込んだ。
「……え?」思わず聖を見る。
「瑠偉ちゃん、アレルギーって言ってなかった? 目、掻いちゃうことあるって話してたじゃん。それだよな?」
……そんなこと言ったっけ?
数秒間、思考が止まった。
「えっ、そうなの!?」と蒼空が声を上げ、
はるひも「えーっ、可哀想……」と頷く。
話は、それで終わった。
助かった。
けれど聖のまっすぐな人柄を知っているからこそ、その嘘が少し胸に引っかかる。
いつもの自信に満ちた視線ではなく、わずかに目を逸らしていた。
どうして……? 小さな疑問が浮かぶ。
けれどそれ以上に、目が合ったときの控えめな微笑みが心を温めた。
その後、聖は見事に船酔いでダウンした。
「船酔いとか絶対しなさそうなのに……大丈夫?」
俺はシートから立ち上がり、聖を支えながら甲板へ出た。
潮の匂いを含んだ風が頬を撫で、髪を揺らす。
背を丸め、弱々しくうずくまる聖の背を、時々さすった。
「……瑠偉ちゃん、やさし。天使みたい」
苦しそうに笑った次の瞬間、
聖は「……うっ」と顔を歪めて、海面に盛大にリバース。
「……あはは……」
俺は苦笑しながら背中を摩り、水のペットボトルを差し出す。
「だいぶ……重症だね」
水平線を見つめる。
波のきらめきの奥に、昨夜の光景が浮かんだ。
眠れずに飲み込んでしまった、大量の睡眠導入薬。
そして確かに、あの闇の中で誰かの優しい声を聞いた。
そっと握ってくれた温もりがあった。
あれが、俺を悪夢から引き上げてくれた気がする。
夢だったのか、現実だったのかは、確かめようがない。
そして、さっきの聖の嘘。
それもまた、胸の奥でざわめきを残した。
混乱しているはずなのに、不思議と温かい。
「……瑠偉ちゃん……水」
膝下でうずくまったまま、聖が弱々しく手を伸ばす。
その瞬間、自分でも驚くほど自然に、俺は微笑んでいた。
◇
2020年8月10日(月) PM16:45
夕方になる頃、俺たちはフェリーを降りて久遠の港へと辿り着いた。
港は駅と隣接していて、改札口を抜けるとすぐ海の風が頬を撫でる。
広場の中央では足湯の湯気がゆらめき、観光客たちが靴を脱いで笑い合っている。
懐かしい風景に、思わず足を止めた。
幼い頃、父さんと母さんに手を引かれて歩いた記憶が胸に甦る。
前を歩く三人は言葉を失っていた。
夕暮れの街並みはまるで絵巻物のようで、初めて訪れた者を一瞬で魅了する。
温泉宿の灯りが石畳を淡く照らし、川沿いの提灯が夕風に揺れていた。
赤い太鼓橋が夕焼けの空と川面に二重のアーチを描き、
まるで異世界への入口のように幻想的だった。
ここが幻想温泉街、久遠
その名の通り、どこか夢の続きのような場所。
俺にとっては、第二の故郷だ。
港から旅館街へ続く湯気、浴衣姿の人々の笑顔、
硫黄の香りが混じる夏の風。
そのすべてが懐かしく、そして今も変わらずそこにあった。
三人はスマホを構え、夢中でシャッターを切る。
「すごい」「アニメみたい!」と声を弾ませながら進んでいく姿に、
俺はなんだか少し誇らしい気持ちになった。
そして、坂の上にそびえる建物を指差す。
「あそこが、ばあちゃんの旅館だよ」
三人が一斉に顔を上げる。
他の旅館よりも高い位置に構え、夕空を背に堂々と影を落とすその姿。
瓦屋根に走る木のラインと、格子窓から漏れる温かな灯り。
歴史と誇りを背負いながら、凛として立つ。
それが、久遠の象徴だった。
「……でっか」
「ここ、本当に泊まれるの?」
驚きと感嘆の混じった声に、俺は小さく頷いた。




