Episode10
2020年8月10日(月) AM7:00
部屋の隅の本棚が目に入った。
背の高い小説が整然と並び、その間にはあの夜、渡した白狐のお面が飾られている。
まるで宝物みたいに。
…本当に、大切にしてくれてるんだな。
けれど今、この重たい空気の中では、
その白狐だけが異質に見えた。
まるで、あの楽しい夜の記憶だけがこの部屋に取り残されているようだった。
そっとベッドに近づく。
瑠偉の額には細かな汗。
髪が張りついている。
ハンドタオルでそれを拭い、ずり落ちた布団をかけ直した。
「……瑠偉?」
小さく声をかけ、震えている細い手にそっと触れる。
無意識のうちに、その手を包み込んで握っていた。
ひんやりとした肌。
けれど、指先だけは微かに温もりを帯びている。
折れてしまいそうなほどの弱さで握り返す。
そのか弱い力が逆に胸を締めつけた。
やがて、瑠偉の呼吸がゆっくりと落ち着き、
表情からこわばりが消えていく。
汗も引き、顔色が少しずつ柔らいでいった。
「……よかった」
思わず声が漏れる。
しばらく手を握ったまま、その寝顔を見守っていた。
——この子を、守ってあげたい。
放っておけない。
笑わせたい。
いくつもの感情が胸の中で渦を巻く。
うまく言葉にならなかった“モヤモヤ”が、
今はっきりと形を持って胸に灯った。
ふと視線を上げると、棚の白狐が目に入る。
あの夜、笑っていた瑠偉がそこにいる気がした。
静かに立ち上がり、ドアを閉める。
家を出る前、もう一度だけ振り返った。
集合までにはまだ時間がある。
ゆっくり、休ませてあげよう。
◇
2020年8月10日(月) AM7:30
俺は、清灯川の畦道の斜面に寝転がって空を見ていた。
夏の朝らしい澄んだ空気が広がっていて
川面は銀色にきらめき、浅瀬を流れる音が耳に心地いい。
なのに、胸の奥だけが、ざわざわと落ち着かない。
草むらが風に揺れ、蝉が鳴き始める。
背中をじわじわと地面越しに温める朝日。
小さな白い花が咲き、夏の匂いが満ちている。
穏やかすぎる景色なのに、心だけが追いついていなかった。
さっき見た瑠偉の顔。
あの重たい空気。
うなされながら、何かを必死に拒んでいた。
散らばった白い薬と、こぼれた水。
何の夢を見ていたんだろう?
これまでの瑠偉を思い返す。
合わない視線。
寂しそうで、儚い表情。
「うるさぁ」とむくれる顔。
ふいに見せる、まんまるな笑顔。
そんな瑠偉しか知らなかった。
でも、本当はその胸の奥に、何か重たいものを抱えているのかもしれない。
だから、一人で雅島に来たのか?
初めて一緒に帰った日。
あの時も、少し寂しそうに俯いていた。
更衣室で腕を支えたとき、
あの身体は確かに震えていた。
今になって思う。
あれは、ただの反応なんかじゃなかった。
触れられること自体を、本能的に拒むような反応だった。
胸の奥に、冷たい針が刺さる。
忘れていた場面が色や音を伴って蘇る。
俺と瑠偉の間には、鍵のかかった重い心の扉がある。
そう、はっきりと感じた。
◇
2020年8月10日(月) AM8:50
考えごとをしているうちに、
蝉の声が子守唄みたいに耳に染み込み、
意識がふっと遠のく。
ハッと目を開けてスマホを見る。
「8時50分」。
「はは……うそだろ!?」
声が勝手に出た。
慌てて自転車に飛び乗り、ペダルを空回りさせる勢いで漕ぎ出す。
一番早く起きてたはずなのに、
待ち合わせ10分前に目覚めるなんて。
……でも、そのスリルすら青春の神回の一部だ。
だけど、その前に。
やっぱり瑠偉のこと、確かめたい。
家の前で扉を叩く。
「瑠偉ちゃーん!」
返事は、ない。
どうやら、もう出発したらしい。
「とりあえず、よかった...。」
少しだけ肩の力が抜け、全速力で港へ向かう。
港に着いたのはギリギリ2分前。
我ながら、見事なドライブテクニックだ。
待ち合わせ場所では、蒼空とはるひが手を振っている。
「おそーい!」
「こら寝坊すけ!」
「わりーわりー」
息を整えながら笑い、周囲を見回す。
……瑠偉がいない。
「あれ?瑠偉ちゃんは?」
2人が顔を見合わせた。
「まだ来てない。連絡もつかなくて……」
そのとき、背後から小さな声。
「……ごめん、遅くなって」
振り向くと、
白いTシャツに黒いキャップを目深にかぶった瑠偉が立っていた。
その目元は、少し赤い。
言葉が詰まったけれど、
あえていつもの調子で言う。
「おっそーいぞ!瑠偉ちゃんいなかったら旅館泊まれないだろー!」
瑠偉は小さく、けれど確かに微笑んだ。
そして、四人の船旅が始まった。




